第5話 命がけ修学旅行

 教室の机につっぷして寝ていて目がさめると、黒いベルトでイスに固定されていた。

 立ち上がろうにもがっちり腕ごと拘束ベルトにはさまれていて身動きがとれない。

 ベルトをはずせないかとイスをがたがた言わせたり、机を蹴飛ばしたりしてると、クラスメートから白い目を向けられてさんざんな思いをした。

 元凶はあいつに決まっている。

 あの白衣の悪魔女子、八神A子だ。

 俺が必死に頑丈なベルトと格闘している間、クラスでは修学旅行の班決めが進行していたらしい。

 そして、好きな物同士だと人数がかたよったりあまりが出るので結局はあみだくじで決めることになったらしかった。黒板にはゆがんだ線のあみだが書かれていた。

「やったぁ、同じ班だよ!」

 黒板の方からやってきて、腕に抱きついてきた八神に俺は白い目を向けた。

 本当に偶然、俺と同じ班になったのかどうか怪しいものだ。

 八神なら裏で学級委員に一服薬をもったりしても不思議ではない。

 薬をもられたにしては顔色のいい学級委員が「班で集まって自由行動の予定を立ててください」と指示する。

 なぜか俺のほうに何人かが重い足をひきずって集まってきた。総勢四人。

 どうやら、集まったやつらが俺と八神と同じ班になってしまった不幸なやつららしい。

 集まった四人が四人、貧乏くじをひいてしまったという暗い顔をしていた。

 この班決めに唯一満足しているのは八神くらいだった。

 うんざりするほどご満悦な笑顔を俺に向けてくる。

「どっか行きたいとこある人いる?」

 めんどくさいことをさっさと決めようとめがねをかけた名前を覚えてない目つきの悪い男子が口火を切った。

 そういえば、修学旅行ってどこに行くんだっけ。

「はいっ。清水寺に行きたいなっ」

 誰よりも先に手をあげたのは八神だった。

「反対の人は?」

 俺は手を挙げようとしたが、ベルトがあったので指が上に向いただけだった。

 めがねが周りを見てから、

「いないな。じゃ決まりで」

 簡素に言う。

 まてまて。よくない。

 八神は絶対に何かたくらんでいる。阻止しないと命にかかわる。

「いや、まて。俺は反対だ」

「え、なんで?」

「特に理由はない」

 理由があるとすれば、それは八神が行きたいと希望しているからだ。

 俺の胸の内を知るはずのないやつらがそれで納得するはずもなく、

「却下。清水寺で決まりでいいね。じゃ、解散」

 よくないと食い下がろうとした時、横にいた男子に話しかけられた。

「あのさぁ」

 見覚えのある顔だと思ったら、小学校が同じだった住田祐司(すみた ゆうじ)だった。

「それ自分でやった?」

 住田は俺の腕に食いついている拘束ベルトを指さす。

 それに対して、

「そうだよ」

 と答えたのは、もちろん俺ではない。楽しげに八神が答える。

「ち、ちげーよ。誤解を招くことを言うな!」

「仲がいいんだな」

 住田がまいったという顔をして、俺たちから離れて自分の席に戻っていった。

「くそぅ。おい、八神。いい加減にこの拘束具をはずせよ!」

「え~? まだこれからなのに」

 八神の後ろ手にバリバリ電気の飛び散る音を立てる黒い道具が握られているのが目に映る。

 ……これから何が待っているんだ。

 俺は頭がくらっとして、意識を失わないように頭を振った。

「ほ、ほら、今度は男女にわかれて宿泊班分けだぞ。行かなくていいのかよ」

「いいの」と八神が答える。

「興味ないもん。柿沼くんと同じグループならいいけど」

「そりゃ無理だろ」

 女子と男子が同じ部屋で泊まれるわけがない。

 俺はあきれるやらなんやら無言で八神を見つめた。

 うすうす気づいていたが、八神には友達がいない。

 俺が思うに、八神は他の同級生と友達になろうという気持ちがないからかもしれない。

 人の和に入りたがらないのは俺も同じだが、俺と八神とは事情が違うようだ。

 八神は科学実験部の連中とはおなじ特殊な趣味で馬があうのか仲良くやってるように見えるが、転校から二週間たっても八神はどの女子ともつるまずにいてクラスでは浮いている。

 まぁ、俺が心配することではない。

 チャイムが鳴っていたのは気づいていたが、次の授業が何なのかは気づいていなかった。

 ふと視線をあげると、俺をにらみつける女子の顔が三人視界に入る。

「な、なんだ?」

 と、教室の前の方を見ると、ワイシャツを脱いでいる女子の背中の素肌が見えた。

 がばっと立ち上がろうとしたところで、拘束ベルトを

巻かれているのを忘れていた俺はバランスを失って右によろめいてイスといっしょにそのまま床に倒れる。

 床に亀裂が入ってもおかしくないくらい派手な音がした。

「や、八神、さっさとはずせよ! ここ、体育で女子が着替えるんじゃねぇか!」

 半分顔がつぶれながら俺は叫ぶ。

 腕に力を入れるとベルトの上の方がメリメリと破れる感触があった。

「あーっ」と八神が残念そうな声をあげる頃には俺はベルトを破って足の拘束をはずして教室から逃げ出した。

 しばらく走ってから廊下で立ち止まる。

 ベルトに押さえつけられていた腕を見れば、見事に赤い跡が左右二本ずつ付いていた。

 指でなぞれば、ぽっこりついた跡のところがへこんでいてわかるくらいになっている。

 たしか修学旅行は三泊四日だったはずだ。

 朝から晩まで四日間も八神といるかもしれないなんて恐ろしすぎる。

 俺は誰もいない秋の廊下でため息をついた。



 台風二十七号が接近中ということで、修学旅行が中止になることを小さく希望していたが、台風は俺の気持ちを知ってか知らずか日本をそれていった。

 家でテレビの天気予報を見ていた時、あることを思った。

 修学旅行なんて行かなけりゃいい。

 これまでの八神の行動パターンを考えると、修学旅行はかなり危険だ。もしかすると命まで落とす可能性がある。

 部屋の隅に置いてあるふくらんだ旅行かばんを俺はしばらく見つめていた。



 布団にくるまって浅い眠りの中、何かが俺を起こした。

 目覚まし時計のはずはない。遅刻のいいわけにするために時計の針は一時間遅くずらしてある。

「柿沼くん、おはよう」

 これは目覚まし時計じゃない。

 布団をどけて上を見ると、八神が俺の上にのっていた。

 だれだ、こいつを家に入れたのは!

 ……いや入れるはずない。もしかして不法侵入か?

 口を半ばあけたまま、本気で警察を呼ぼうか迷っていると、母親の玲子の声がした。

 (俺の部屋は基本、俺以外立ち入り禁止にしている。のぞくのも禁止。)

「りょうくんが遅刻しないようにきてくれたんだって。いいこねぇ」

 それを聞いた俺は布団の上にばったり失神するかと思った。

「修学旅行のおみやげは生八橋でいいからね」

 部屋の入り口からハンカチをひらひら振る玲子の手が見える。

 なんつう親だ……。

 八神をひとまず廊下に引っ張り出して、八神が入り込もうとするので、背中や尻でドアを押しながらどうにか着替えた。

 着替えてドアがあくと、いつのまにか俺の旅行かばんを手につかんでいる八神が明るく言う。

「よし、いこうか!」

 返事はいらないらしい。

 俺の腕をつかんでずかずか玄関に向かっていく。

「ま、まて、まだ朝飯をくってねぇし……」

 修学旅行に行けない理由を捻出するには、寝起き五分の頭は適さなかった。

「だいじょうぶ。お弁当もってきたから、いっしょに食べようね」

 気が遠くなる。

 まったくよくなかった。



 八神というおせっかい女のせいで、俺は残念ながら遅刻することもなく、学校で待っていたバスに乗れてしまった。

 バスの中くらいは八神と離れようとしたのだが、八神はちゃっかりと隣の席に座ってきた。

 そして、バスが走り出して、高速道路に乗ってから、八神が自作の弁当の包みを開き始めた。

 弁当を俺に食べさせようと、フォークで卵焼きらしき黄色い物体を俺の口に入れようとしてくるので、それをよけるためだけにバスに乗っている間の一時間半、体力を費やした。

 空港に降り立った俺は誰よりも疲れきっていた。

 斜めに青い空へ飛び立つ飛行機を見ながら、あれに乗るのかとひざに手を乗せた。

 空港の建物の中に入ると、教師が生徒たちを集めて点呼をとった。

「これから、荷物の検査がある。ペットボトルと貴重品類は外に出すこと。今日、刃物を持ってきてるやつはいないと思うが」

 刃物という言葉に一瞬目の前に立っている八神の頭がぴくんと揺れたような気がした。

 気のせいか?

 俺はしばらくして、その理由を思いついた。

 八神はいつもメスを持ち歩いていた。

 俺を毎日のようにあれをもって追い回してたんだから。

 絶対に今日も持ってる。

 持ってるに違いない!

 確信にいたった俺は八神に話しかけた。

「八神、持っているんなら出せよ」

「何を?」

 すっとぼけた八神の半面。

 絶対にこいつは持ってきてる。

 俺には妙な確信があった。

 しかし。

 荷物検査場でブザーは鳴らなかった。

 緑色のかごから、悠然と検査を終えた荷物を取り出す八神を見ながら俺は肩をふるわせていた。

「そんなばかな……」

 ここでメスが見つかって没収されることを期待していたのに。

 だが、飛行機に乗ればしばらく八神とは離れられる。

 俺の隣の席は八神ではない。

 ……はずだったのだが。

 数十分後、動き出した飛行機の座席に揺られながら、俺は納得のいかない気分になっていた。

 隣の席が八神。

 ありえない!

 かばんの底に手をつっこんで半分につぶれた旅行のしおりを見ると、座席場所はたしかに俺の横は別の女子になっている。

「嘘だろ……」

 つぶやきながらシートベルトをはずして逃げようとすると、 

「お客様、まもなく離陸しますのでお座りください!」

 フライトアテンダントのあわてたような声に引き戻されて俺は座るしかない。 

 隣では八神がにこにこしてやがる。

 俺は地獄にまで響くくらいのため息をした。

 その直後、乗っている車体は轟音を立て、動き始め、飛行機は離陸したのだった。

 八神の向こうにある丸い窓を見れば青い空と綿のように軽そうな雲の峰が見えた。

 轟音は消えておだやかな飛行音になると、ようやく天井に点いているシートベルトのランプサインが消えた。

 俺はすぐに腰についていたシートベルトをはずして立ちあがる。

 八神の視線がくっつくのを無視して、前の方の席に歩いていった。

 あいつと離れるには、誰かに席を替わってもらうしかない。

 知ってる顔を探すと、ちょうどイヤホンをつけてひじかけに手をおいている知り合いの男子を見つけた。

「その席、代われ」

 俺は男子に向かって迷わず言った。

「なんでだよ」

 桐谷はイヤホンをはずして思いっきり嫌そうな顔をする。

 俺も負けないくらい嫌な顔を返した。

「八神がくるんだよ」

「えっ、八神さん!?」

 桐谷は目の前に餌をつるされたうさぎみたいになって首をめぐらす。

 こいつに八神を足止めさせよう。

 桐谷なら多少は八神の好きそうな話ができるだろう。

「それなら喜んで替わらせてもらうよ!」

 桐谷が立ち上がると、その後ろに担任の教師が来ていた。

「おい、おまえら、あんまり動き回るなよ」

「勝手だろ」

 注意されて、俺は言い返す。

 すると、教師はなぜかにんまりした。

「勝手にしてはぐれても知らないぞ? 今、連続殺人犯が京都の町をうろついてるらしい。気をつけろよ」

「ええっ、こわいっ!」

 ぎゅっと誰かが俺にしがみついてきた。

 が、その誰かは俺にしてみれば連続殺人犯と同じくらい怖い八神だった。

 おまえはメスとか硫酸もって俺を追いかけ回してただろうがっ!と叫び出したくなる。

 そして、八神が俺に抱きついているのに嫉妬する桐谷の視線が痛い。

 その時、俺たちの後ろの方から騒ぎ声がして、教師は今度はそっちを注意しに向かった。

「連続殺人犯かぁ、怖いね。でも、大丈夫だよ八神さん。僕は合気道を習っていたから悪人なんか怖くないよ」

「へぇ?」

 八神の手をふりはらって、俺は桐谷を見下ろす。

 細身でひ弱そうなコイツがとても武道をやっていたようには見えない。

「ここじゃ狭いからムリだけど、今度機会があったら技を見せてあげるよ」

 桐谷は強い自信があるのか八神に笑いかけた後に挑発的に俺を見る。

 そこで、飛行機が揺れだして、シートベルトの着用サインが点滅しだして、フライトアテンダントに席に押し戻された。

 そして気がつけば、俺はまた嘆かわしいことに八神の隣に座ることになるのだった。


 関西空港へ降りる時、俺はふらふらになっていた。

 飛行機の中で眠れるはずだったのが、隣の八神のせいで一度も眠れなかった。

 目を閉じてしばらくすると口に卵焼きを入れられそうになるからだ。 

 手荷物受け取り口で受け取ったスーツケースをごろごろ引きずりながら、他の生徒たちが集まっている場所に行く。

 こんなに疲れてるのは俺だけに違いない。

 他の生徒たちはこれからどこに行こうかとキャイキャイ騒いでいる。

 俺はもうどこにも行きたくない。

 旅館で休みたい。

 でも、修学旅行は俺の望むようにはいかないようにできている。

 しおりに書いてあるコースの通りに、京都観光へ向かうバスに乗らなけらばならないのだった。



 バスから降りた俺は失踪を試みた。

 これ以上八神が隣にいたらストレスのあまり死にそうだった。

 教師が生徒を集めて、寺の説明を始めたので、俺は後ろを向いて売店のある方向まで一気に走っていった。

 売店では金閣寺グッズやまんじゅうの他に、ソフトクリームも売っていた。

 俺は冷たいものが食べたくなって、売店のおばちゃんに抹茶とバニラのミックスソフトを頼んだ。

 少しして渡されたおばちゃんの作ったソフトクリームは斜めに傾いていた。

 駐車場の前にあるベンチに座って俺はソフトクリームを食べた。

 三角の旗をふったガイドに導かれて金閣寺に入っていく観光客の団体を何組か見送った。

 ちゅんちゅんと鳥の鳴き声がする。

 のどかだ。

 八神がいない世界はこんなにも平和だったのかと痛感する。

 頭から疲れがぱらぱら落ちていく感じがした。

 駐車場の右手に停まっている自分が乗っていた大型バスから運転手から降りてきて伸びをしているのが見える。

 他の生徒たちが戻ってくるまで、あと一時間はあるだろう。

 それまでは一人でのんびりしたい。

 やっぱり俺は一人でいるのが合っているのかもしれない。

 そう思ってソフトクリームの包み紙を丸めてた時。

「おい、何やってんだ」

「うわっ!」

 いきなり横から数学教師の安東の顔が出てきた。

「拝観券を配ってたら一枚あまってな。それでおまえがいないことに気がついたよ。何してるんだ、ここで」

 俺が無視してると、安東は俺の前に金閣寺の券をひらつかせる。

 券は白い紙で墨字を印字してある札だった。

「せっかく京都まで来たんだ。修学旅行の思い出だぞ?」

「うるせぇな。興味ねぇし」

 金箔の寺を見るより、俺は一人で今の時間を楽しみたかった。

「中にうまい飯屋があるらしいんだ。おごるから入ろう」

 別にタダ飯につられたわけじゃない。

 だけどいっしょに行ってやってもいいと俺は思った。


「どこに飯屋があるんだよ!」

 寺を歩き始めて、金閣がようやく見えてきたところで俺はだまされていたことに気がついた。

「あれ、なかったっけ?」

 この教師、とぼけて明後日の方を見る。

「ふざけんなよっ」

「まぁまぁ、いいじゃないか金閣が見れたことだし。ほら、鏡湖池(きょうこち)に写る金閣がきれいだぞ」

 柵の向こうに、金色に輝く三階建ての楼閣が見える。

 そして、鏡のようにその姿を池が写していた。

 逆さ金閣だ。

「金閣寺っていうか、ただ金箔がついた金箔寺だな」

「つまんないこと言うなって。歴史建造物だぞ。金閣は一度、放火で焼けてしまったんだ。それでも、昔の形を残して今ここに生きている人に受け継がれている」

「ふーん。残ってるったって後から直したんだろ。偽物じゃねぇかよ」

 そう言って振り返ると隣に安東はいなかった。

 安東は女子生徒のグループに話しかけられていた。

「安東先生、写真とって~」

 安東の手に腕に、六人の女子が次々に、カメラやケータイを渡していく。

「はいはい……っておい、全員分かよ。金閣が入るように並ばないと入らないぞ」

 女子たちがやってきたので、俺はあわてて柵から離れて教師の後ろに回った。

 騒ぐ女子たちがピースやらなんやらポーズを変えてナンパターンも写真をとる教師を見ながら、教師の仕事も大変だなと思った。

 写真撮影しているところをなんとなくぼんやり見ていると、横を通る女二人の観光客がケータイを見て叫び声をあげていた。

「ひぇっ! ニュースになってる殺人犯がさっき京都で目撃されたんだって! こわっ!」

「今日は暗くならないうちに宿に帰った方がいいね」

「もしかしたらすぐ後ろに殺人犯がいたりしたらどうする?」

「やだ、こわ~」

 口に手をあててぶるぶると震えながら女二人は歩いていく。

 そういえば、バスでの移動中、町にやたらとうろうろして周りを警戒している警察を見かけた。あれは、殺人犯が町をうろついているからだったんだろう。

 安東の撮った写真の出来に騒いでいる女子たちを横目で見ていたその時だ。

 後ろから誰かが抱きついてきた。

「うわあああぁっ!」

 それは殺人犯ではなかったが、殺人犯と同じくらい怖い人間(ヤツ)だった。

「心配したんだからねっ! バカぁ!」

 八神は俺の背中から抱きついてぎゅぎゅっと俺のへそのあたりまでに腕を回して抱きしめる。

 俺の心臓はバクバクが止まらない。

 周りにいた人たちが俺たちを見ている。

 安東や女子生徒たちも、通りすがりの観光客までもが俺の方を振り向いて静止していた。

「……び、びっくりさせんなよ。うわっ、どこさわってるんだ!」

 俺の体をさわりはじめた八神をひきはがして、俺はようやく言った。

「柿沼くんがいなくてびっくりしたのはわたしの方だよ。どこに行ってたの? わたし、わたし、柿沼くんにもう会えないかと思っちゃったんだよ?」

 見つめる八神の瞳はうるんで光っていた。

 両目にこぼれそうなほどの涙がたまっている。

 急に俺は八神が気の毒になった。

 こいつはそこまで俺のことを心配してたのか。

 たしかに、八神は俺にとって迷惑な存在だが、八神には悪気はないし、いつもいる俺がいなくなって不安になったのかもしれない。

「殺人犯にもうバラバラに解体されて死んじゃってるかと思っちゃったよ。よかった。まだバラバラじゃないね」

 八神はくすんと鼻をすすって涙を指でぬぐうと俺に花のような笑顔を向けてきた。

 一気に頭から冷たい風が吹き抜けて俺を正気に戻してくれた。

 さっき八神に抱きつかれたときわきをさわったりしてたのは、バラバラになっていないかの確認だったようだ。

 そうだ。

 八神A子という女はこういう女だ。

 俺が五体満足で無事だったことの安心は、殺人犯に先に俺を解剖されなかったという安心感でもあるのだ。

 女子生徒たちや観光客が固まったままの俺の横を逃げるように去っていくのが見える。

「でもよかった。ここで柿沼くんに会えて。金閣寺いっしょに見られたから」

 八神は両手をくんでもじもじと笑う。

「お二人さん、よかったら写真とろうか?」

 そこに、教師の安東が入ってきた。

 邪魔だった。

「撮ってください!」

 カメラなんて持ってきたのか。

 八神はいそいそとかばんからカメラを出して安東に渡す。

「いらねぇし。俺は写真とか嫌いなんだよ」

「ま、まって! 柿沼くん!」

 八神の必死になった声に俺は心を鷲掴みにされた。

「お願いだからいっしょに撮ろうよ」

 俺を真剣に見つめる目。

 いつもと違う目。

 脅して怖がらせて俺を追いかけ回す女じゃない。

 何かにすがり、求める一人の少女と俺は対峙してるような気がした。

 八神は俺に頼んでいる。

 ぎゅっと八神の両手が俺の手首をつかんだ。

 たぶんきっと俺もいつもと違う顔をしていたんだろう。

 安東が驚いたように口をあけて、八神の隣に並ぶのを見ている。

 きっと、できあがった写真に写っているのはいつもの俺と八神じゃないはずだ。


 その日は、その後、バスで宿に移動した。

 夕食の後に風呂に入った。

 まだぬれているタオルを首にかけて、部屋に戻る階段を下りていると、下の女子の部屋がある階で三人の女子が話している。

 そのうちの一人が八神だと俺にはすぐにわかった。

「なに?」

 そう聞いたのは八神だった。

 俺は反射的に八神に見つからないように頭にタオルをかぶって階段のふちにしゃがんだ。

「明日の自由行動のとき、男子たちにはてきとーに言ってくれない? あたしたち行きたいところがあるから」

「ふぅん、わかった」

 八神が両手を後ろで組んで肩を上下した。

「いいけど、あんたたち柿沼くんに近づかないでね」

 女子二人は一呼吸置いて、クスクス笑いだした。

「へーやっぱり八神さんって柿沼のこと好きなんだ?」

「うん」

 八神はあっさりと答える。

 女子二人は当てられたみたいに一瞬あっけにとられて間があいた。

「わかったよ」

 右側に立っていた気の強そうな女子が答えた。

 話したいことは話し終えたらしい。

 女子二人は自分たちの部屋がある方の廊下に歩いていった。

「本当にいいの?」と声がして後は何も聞こえなくなった。

 八神は残って、廊下の窓の方を見つめている。

 遠くから女子の騒ぐ声がしてる。

 トランプゲームでもしてるのだろう。突然、高い叫び声が聞こえる。

 それから八神はゆっくりと俺のいる階段の方に目を向けた。ぎくりと肩をゆらして俺は隠れた。

 八神はきっと気がつかなかったのだろう。

 そのまま、女子の部屋のある方へ歩いていった。

 足取りはどこかふらふらしていて、危なげに見えたのは俺の気のせいか。


 翌日はあいにくの雨だった。

 台風二十八号が日本に接近しているらしく、夕方から本格的に暴風域に入るとのことで、生徒たちの不満の声は届かず、自由行動の時間は半分に短縮されることになった。

 俺たちは清水寺の他に、銀閣寺に行く話もあったが、清水寺だけにしぼって行くことにした。

「傘なんかもってねぇよ」

 ロビーでグループで集合した時になって俺はそう言った。

 すると、そばにいた八神が持っていた折りたたみ傘を両手でつかんで満面の笑みを浮かべた。 

「だいじょうぶ! わたしの貸してあげるからいっしょに入ろうねっ」

「いらねぇよ!」

 八神と相合い傘なんか冗談じゃない。

 どこかで安い傘を買おうかと思っていると、旅館のスタッフが来て長傘をかしてくれた。


 清水寺まではバスで三十分もかからずに着いた。

 雨だから空いているかと思いきや、以外に観光客が多い。

 それだけじゃなく、パトカーが二台入り口に停まっていて、警察がうろうろしているのが見えた。

 例の殺人犯を探しているんだろう。

 外にでると雨の中みんな傘をさしていて、教師の声もよく聞こえない。

 教師のそばにいた生徒が動き出したので、もう自由に見学していいらしい。

 俺は八神からはなれようと、赤とピンクの傘の方についていった。

 バスの中で チケットは配られていたので、俺もすぐに入ることができた。

 しばらくは清水寺の中に入ると、前にいた女子が傘をとじた。

 ここは、寺の屋根があるから傘はいらないだろう。

 すると、前にいた女子の一人が俺に気がついた。

「柿沼くん」

 女子の片方が目を丸くして俺を見る。

 そういえば、この二人は同じ班になった女子だ。

 もう一方の気の強そうな女子も俺の方を向いた。

「あれ、なんでここにいるのよ。八神さんは?」

「八神なんかいねぇよ」

 俺はむかっとして答えた。

 俺と八神をワンセットにして考えられるのが嫌でたまらない。

「おまえたちこそ、どこに行くんだよ」

「別にどこだっていいでしょ」

 たしかにどこだっていい。

 こいつらがどこに行こうがどうでもいい。

 グループ行動なんて俺だってしたくない。

「そうだな」

 旅館から借りた紺色の傘をふりながら言うと、女子たちは先に行く。

 その時一度、気の強そうな方の女子ににらまれた。

「この先に縁結びの神社があるの」

 小声でそう聞こえた。

 なんでそんなことを俺に教えるんだろうと思っていると。 

「柿沼くん、先に行っちゃだめだよ」

 振り向かなくてもこの声だけはわかる。

 俺が横を見れば、八神が立っていた。

「そうだ、グループ行動だろ。勝手に行くなよ。探すの大変なんだからな」

 いつのまにか、同じグループになってしまった哀れなやつらも集まってきていた。

 めがねの男子と俺の幼なじみの住田。

 こいつらも腹の中ではこんなグループで動くなんて嫌なんじゃないか。

 グループが集まらなければそのままにしてしまえばいいのに。

 本堂までくると、参拝する客でごったがえしていてなかなか先に進めなかった。

 めがねの男子が代表して、参拝してくると言ってたが俺はつき合うつもりはなかったので、無視して清水の舞台まで歩いていった。

「ここから飛び降りてみるかい?」

 後ろからついてきていた住田がそう言ってにやにや笑う。

「じゃあ、おまえから先に落ちろ。俺がつづく」

「いや、柿沼が行って俺が」

 そのやりとりをやってると、めがねが戻ってきた。

「僕がグループ全員分、参拝しておいたからね。こういうところでちゃんとやらないと罰が当たるよ」

「そんなことで罰なんか当たるかよ」

 俺はそう言った後で、ふと何か違和感を感じた。

 八神がいない。

 少し探すと、数メートル離れた舞台の手すりに八神はもたれるようにして立っていた。

 気をぬけば、そこから真っ逆様に落ちていきそうで、俺は息をのんだ。

 そのとき、八神が俺の方を向いた。

「この舞台から落ちて死んだ人、たくさんいるんだってね」

「聞いたことはある」

「どうして人は死ぬのかな。ずっと好きな人と楽しく生きられたらいいのに。そう思わない?」

「……人が死ぬのは仕方がないだろ。それが普通だ」

「でも、私は死んだら柿沼くんに会えないんだね。柿沼くんが死んだら、私は生きている柿沼くんに会えないんだね。さみしいね」

 八神は儚げに笑う。

 なんでそんなことを言うんだ。

 俺は困惑した。

「わたし、ちょっと疲れちゃった。みんなが帰ってくるまであの辺で待ってるね」

 

「八神さん一人で置いて来ちゃってよかったのかな」

 めがねは八神と分かれて十分以上たってもまだ気にしていた。

「本人がそうしたいって言ってたんだからいいんだろ」

 結局、グループ行動できてないが。

 そのことはめがねが気にするから言わないでおくことにした。

「女子たちは勝手なもんだよな。どこに行ってんだか」

 住田があきれたように言う。

 そういえば、さっき二人の女子にあったとき、気の強そうな女子が縁結びの神社と言っていたような。

 でも、どうでもいいことだった。


 それから俺たちは男三人で、ぶらぶらと清水寺を散策した。

 集団行動というのは苦手だが、三人ならわりと行動しやすいことに俺は気づいた。

 半分以上歩いて、雨が止んで俺たちは集合時間にあわせて引き返そうとしていた時だった。

「あれ? 先生から電話だ」

 めがねがズボンから折りたたみ式のケータイを取り出した。

 各グループのリーダーは教師のケータイ番号を教えられている。

 だが、それを教師が使うのは緊急時だけだってことは誰でもわかる。

「なんだろう」

 住田が不思議そうに首をひねる。

「た、たいへんだ」

 めがねの顔色が真っ青になっている。

 ただごとではないことが起こっているらしい。

「どうしたんだよ?」

 俺は面倒くさいが聞いてみる。

「落ちたんだって、女子が」

「落ちた?」

「ここの崖からだって! しかも僕たちのグループの女子だって……」

 俺たちはそのまま石になってみたいに固まった。

 女子。

 俺たちとバラバラに行動しているうちの誰かが、崖から落ちた。

 住田は何も言えず蒼白になっていた。

 そして、それは俺も同じだった。


 俺たちは清水の舞台の近くまで行ったが、救急隊と警察、教師たちが動き回っていて舞台のところまでは行けなかった。

 まだ崖から落ちた女子は見つかっていないのかどうかさえわからなかった。

「あ、あそこ」

 住田が指さした先に、一人の女子が座り込んでいる。

 それは、気の強そうな女子といっしょに行動していたおとなしめの女子だった。

 俺たちが近づいても、女子は顔をあげなかった。

 その目からは涙がこぼれていた。 

 俺の頭のなかをゆっくり不安が回る。

 この女子がここにいるということは、崖から落ちたのは誰なのか。

 気の強そうな女子か、それか、八神か。

「なにがあったの?」

 めがねが泣いている女子に話しかけた。

 女子は鞄をにぎりしめてうつむいていた。

 だが、女子ははっきりとは話さない。

「二人ともどこにいたんだよ?」

 俺が聞くと、女子がびくっと肩をふるわせた。

 こいつは俺のことが怖いのかもしれない。

 そういえば、気の強そうな女子と話したことはあるが、この女子とは話したことがない。

 怯えたような目をして女子は小声で答えた。

「じ、地主(じしゅ)神社に行ってたの。お参りして、お守りを見てて……。それから八神さんに会って……」

「八神に?」

 誰かを疑うのはあまりいいことじゃない。

 だが俺は八神を疑った。

 あまりいいことじゃない。

「私がお守りを買ってたらいつのまにか、正美ちゃんがいなかった。そしたら、先生が来て、正美ちゃんが崖から落ちたって聞いて……」

 落ちたのは、あの気の強そうな女子。

 いったい何があったんだ。

 俺には気にかかることがあった。

 それはもやもやと霧状で形にならなかったが、ようやくその正体がわかった。

 八神がどこにいるのかわからないからだ。

 そのことが俺の心を暗くしている。

「おい、おまえら!」

 救急隊のいる向こう側から知ってる長身の男が、教師が駆け寄ってきた。

 教師を見てバカみたいに安心してしまったことに俺は気がついた。

 それは他のやつらも同じようで、住田もめがねも表情が少しやわらいだ。

「大丈夫だ。行くぞ」

「あの、宮里さんはどうなったんですか?」

 めがねが不安そうに聞いた。

 気の強い女子の名字は宮里らしい。

「ついさっき救急車が来て病院に搬送されたよ」

 教師のとなりにいた八神が答えた。

 どういう容態なのかまでは誰も聞く勇気がなかった。

 教師の後についていくと、おとなしめの女子が気になった。 

 おとなしめの女子はまだ座ったままだった。

 教師が来たのにも気づいていないらしい。

「おい、行くぞ。おまえの友だち、病院にいるって」

 俺は女子の耳に届くように少し大きめの声を出した。

 女子はびくっとして、立てかけてあった傘が倒れた。

 それから女子は傘を拾うと、立ち上がって小走りに俺の後についてきた。

 一度だけ振り返ると、彼女の手には、買ったばかりのお守りの紙袋がぐしゃぐしゃになって握られていた。


 その日泊まるホテルに着くと、すぐ夕食だった。

 外はもう暗くなっていて山の上にあるホテルのまわりは真っ暗になっている。

 部屋に荷物を置いてから食堂で、俺は住田とめがねといっしょに飯を食べていた。

「いったい何があったんだろうね」

「さぁな」

「舞台の上、雨でぬれてたから滑ったのかも」

「柿沼くんはどう思う?」

「さぁな」

 めがねは俺のことを始め怖がっていた節があったが、今日一日いっしょに行動して気持ちが変わったらしく、俺によく話しかけてくるようになっていた。

「さぁなって何にも考えてないでしょ」

 めがねがあきれたようにため息をつく。

 これが、俺を怖がっていたやつかと思うと信じられない。

「飯の時間にその話をするなよ」

 俺は一気にそう言うと、ごはんを口にかきこんだ。

 同じグループの女子が崖から落ちたということを思い出すだけで、ゴムを食べてるような感じがする。

 その話題は避けたかったが、俺たち以外のやつらも話題は同じだった。

 早く食べてここを出るしかない。

 ごはんを飲み込むと、俺は斜め右側に座っていた八神の方を向いた。

「おい、八神。あとで話がある」

 八神の口元がにんまりと丸く半円に変わった。

「うん、わかった」

「食い終わったら、廊下に来いよ」

 俺と八神のやりとりを聞いていた、おとなしめな女子がショックを受けたように俺をみた。

 食堂を抜け出して、生徒がいて騒がしい場所からはなれた俺はほっとした。

 やはり一日中、誰かと行動しているのは俺には合わないらしい。

 しばらく廊下の壁によりかかって待っていると、背の高い男が俺のほうに来た。

 あきらかに八神ではないので、無視してると、

「何してるんだ、柿沼」

 と声がかけられる。

 その声で男を見れば、教師の安東だった。

「なんでもいいだろ」

 やっと一人になれたところをまた邪魔されて俺はイライラと安東をにらんだ。

「おまえ、一人が好きなんだな。金閣寺も一人でぶらぶらしてたもんなぁ」

「そうなんだよ。だから一人にしてくれ」

「まぁそう言うなよ。一生に一度の修学旅行なんだぜ? もっと楽しまないと」

「楽しくねぇよ。昼間、あんなこともあったし……」

 自分では思い出したくないのに、俺は自分から転落した女子のことを口に出していた。

 気にしたくないのに、俺は本当は気になって仕方がなかった。そうだ。だから、俺は八神を呼び出した。

 八神。あいつは怪しい。

「そうだよな。でもそんなに心配するな。宮里、明日には戻ってこれるらしい。おまえって意外に仲間思いだったんだなぁ。いや~意外な一面だ」

「そんなんじゃねぇよっ」

「あっはっは、そんなに照れるなよ」

 安東につつかれて俺は少し舌をかむ。

「照れてねぇよ!」

「ああ、宮里と言えば思い出した。これって宮里のかな」

 安東が着ているベストのポケットから何か白いものをとりだした。

 白いのはティッシュだったらしく、その中に何かが包まれていた。ティッシュをむいてでてきたのは、一本のガラス製の注射器だった。

 注射機のガラス管に天井の蛍光灯が写って白く光っている。

 俺は意識が飛びそうな気がした。

「あの舞台の上で拾ったんだよ。宮里の鞄が落ちててその横に転がってたから宮里のかもしれないと思ってね。帰ってきたらこれ返しておいてくれないか?」

「あ、ああ……」

 俺は生返事をしながら、安東から注射器を受け取った。

 それから安東がいなくなっても、俺はぼんやりと廊下にたたずんでいた。

 八神が来たときには、俺は体が芯から冷えていた。

 本当に注射器を持ってるのかわからないくらいに手の感覚がない。

 目の前に来た八神がのほほんと笑う顔を見つめながら俺は右手を差し出した。

 その手には、注射器が乗っている。

「八神おまえまさか……」

「あっ、これわたしのだぁ。探してたんだよ。ありがとう! どこにあったのー?」

「こ、これは……これは、清水の舞台の上にあったんだよ。宮里の落ちたところに。なんでおまえの注射器があるんだよ?」

「え……」

 八神の表情が固まる。

 それから、両手でぎゅっと注射器を握りしめた。

「おまえ、まさか、それを使って宮里を打ったのか?」

 八神は俺の問いに答えず壁と床の間を見つめている。

 それから、無言でこくんとうなずいた。

 俺は全身から力が抜けて、腹の底から湯気のようなものが沸き上がってくるような感じがした。

「なんでそんなことしたんだよ! だって……クラスメートだろ?」

「クラスメートってそんなに大事かなぁ?」

 八神が首をひねった。

 俺は内心ぎくりとした。

 大事かと聞かれると答えにくい。

 俺自身、グループのやつらのことなんて考えてなかったし、かなりどうでもよかった。

 自分一人で楽に行動できればよかったと思ってた。

 俺はクラスメートを大事になんかしていない。

「だけど、それでおまえがしたことが許されるわけじゃねぇんだよ。そんなことするやつ最低だ」

「そ、そんなこと言わないでよ」

 八神の顔がくしゃりとゆがんだ。 

「あの子たち、柿沼くんのこと好きなんだよ」

「え……」

「だってあの子たち、約束やぶったんだもん。柿沼くんに近づかないって言ってたのに……」

 八神の手から注射器が落ちて、ガラスが割れる音がした。

 八神は手のひらで目からせき止められずにこぼれてくる涙をぬぐっている。

 泣くなよ。おい。

 こいつはそうとう危ないヤツなんだ。

 こいつはクラスメートを殺そうとしたんだ。

 このまま八神のそばにいれば俺だっていつか殺されるかもしれない。

「柿沼くん」

 八神が泣き顔を俺に向け、けっして長くはない両手を伸ばす。

 俺はその手を横から叩いた。

「来るんじゃねぇよ。おまえが来てから気味わりぃんだよ! 近寄るな!」

 俺はそう叫ぶと、外に飛び出した。

 一瞬だけ、八神のショックを受けた顔が見えた。

 八神はまだ立っている。

 立っている。

 立っている。

 追いかけてこない。


 外は真っ暗でどこに向かって走っているのかわからなかった。

 だけど、走りたくて走りたくてたまらなかった。

 何かから逃げ出したくて無我夢中だった。

 いきなり前に黒い影が見えたかと思うと、右肩に衝撃がきた。

 どうやら太い木の幹にぶつかったらしい。

 ふらついて今度は地面の堅い何かにけつまずいて、気がつけば俺は夜空を見上げて大の字で投げ出されていた。

 口の中に土の味がする。

 ゆっくり起きあがって、足元を見て俺は気が遠くなりかけた。

 足の下は崖だった。

 底の方は真っ暗で何も見えない。

「あっぶねぇ。死ぬとこだった……」

 宮里みたいに崖から落ちて救急車を呼ばなければならない事態にはなりたくない。

 その時、何かが近づいてくる音がした。

 よける暇もなかった。

 俺の上に誰かが走ってきて倒れ込む。

 悲鳴が上がって夜の中に消えた。

 体を起こして上にのっかってる重い体を押し退けると、俺は地面に転がり落ちたその人物を立ち上がって見下ろした。

「な、なにが……!? や、八神さんじゃない……」

 声からして、すぐに目の前に転がっているのが、桐谷だとわかった。

「なんでおまえがここにいるんだよ」

 昼間の雨で土は湿っていて、全身が泥だらけになっている気がする。

 暗いのでまったく見えないが、ジーパンが湿っているのがわかった。

「八神さんかと思って追いかけたら君だったんだよ」

 桐谷はおもしろくなさそうにぶつぶつ言いながら立ち上がる。

 おもしろくないのはこっちだと文句を言おうと口を開こうとしたところで、桐谷が暗闇でもわかるくらいびくっと跳ねるように体を動かした。

「どうした?」

「今、何か動いた。何かいる」

 桐谷の声が緊張を含んだ小声になる。

 俺も耳をそばだてて、ゆっくりと目を周りに向ける。 

「なんか、いる。なんか、いる!」

 小声で桐谷が叫んでいる。

「うるせぇから黙ってろ」

 俺が低い声で言ったその時、桐谷の後ろから黒い大きな影が飛び出してきた。

 気づいた俺は、

「わ」と声を出したが危険の迫っている桐谷の耳には届かなかった。

 桐谷の体が次の瞬間には闇から消えた。

 横にふっとばされたのだ。

 桐谷を襲った影は次の獲物として、俺をまっすぐにとらえ俺に向かってきた。

 この影は動物じゃない。人間の形をしている。

 だが、姿は人間だが、中身は人間を食い殺す熊と変わらない殺気を出している。

 俺は後ろにさがった。

 この時、すぐ後ろが崖だということを忘れていた。

 後ろにさがった足に置き場はなく、つぎの瞬間、俺の前の景色は縦に流れた。

 

 崖から落ちたのだと、夜空を見上げながら考えた。

 考える自分に気づいて、自分はまだ生きているのだと俺は気づいた。

 くらくらする頭を起こして、立ち上がろうとした。

 足がズキズキ痛む。

 もしかして、と足首を回そうとすると思わず声を出しそうになるくらいのもので無理だった。

 落ちてきたと思われる土の壁を見上げれば、高さ十メートル以上はある。

 この足じゃ上れそうにない。

 足首をさわるとはれているのかズキズキ痛む。

 そういえば桐谷はどうしたのか。

 瞬時にいやな想像が頭をかけ巡った。

 無事でなかったとしたら。そんなことを考えるだけで気分がますます悪くなった。

 ケータイを取り出そうとしたが、いつも入れている尻のポケットには何も入っていなかった。

 どこかで落としたらしい。

 風が吹いて、木々を揺らした。

 人が大勢いてうざったい修学旅行で今やっと一人になれた。

 だが、今はここから帰りたくてたまらない。

 他から上にのぼれるところがあるかもしれないと崖にそって歩いてみたが、どこもそうやすやすとのぼらせてくれそうにはない。

 ため息をついて俺は土の壁を背に座りこんだ。

 動けない状態では誰かが助けにくるのを待つしかない。

 だけど、誰が助けにくるか。

 一番先に思いついたのは、一番先に思いつくべきじゃないやつの顔だった。

 八神なら。

 俺がいないことにすぐ気がつくとしたら、八神しかいない。

 八神だったら俺がどんなところにいても絶対に来る。

 このまま朝まで見つからないかもしれないと思ったが、朝を待つまでもないかもしれない。

 少しだけ安心したところで、さっき八神に怒鳴ったセリフを丸々思い出した。

「来るんじゃねぇよ。おまえが来てから気味わりぃんだよ! 近寄るな!」

 たしかそんなことを言った気がする。

 俺の記憶が間違っていなければ八神は泣いていた。

 最悪だ。

 ため息が出る。だめだ。

 俺は八神を傷つけた。

 ゴムみたいにいつも笑った顔で、硫酸がかかっても痛みを感じない八神。だが八神にも心があった。

 八神はゴムでも、キノコでもない。

 あいつは人間だ。

 たしかにあいつは人間としては最悪かもしれないが、そいつを俺が傷つけた。

 そんなの、俺だって最悪だ。

 一人で大きなため息をついていた時だった。

 かなり近くから不吉な金属音が耳に響いてきた。

 音が近づいてくると、だんだんその音をあげている道具を持った人の姿が見えてくる。

 土壁にはりついたまま、俺はまっすぐにそいつを見た。

 そいつはフーフー危なげな息をして俺に向かってきていた。

 まだそいつが遠くにいたら逃げていたかもしれないが、そいつの顔は俺の方を向いていた。

 そいつの顔がぼんやりと見える。笑っている。

 そいつがそばにあった木による。

 金属音がひときわ大きなあがって、パキッミキミキと木の割れるような音が響いた。

 俺の三歩手前に、木の幹がどさっと倒れてきた。

 こいつが持っているのは、電動ノコギリらしい。

「コワイ? コワイ?」

 男が俺に聞いてくる。

 さっきより近づいてきた。

 そいつの着ている衣服には黒っぽいしみが見える。

 無言でいると、また耳をふさぎたくなるような壮絶な音がした。

 木が目の前で切り倒されていく。

 ヤバい。

 ものすごい音をたてるチェンソーから俺は目をはなせなかった。

 突き進んでくるチェンソーの勢いをただ目で鑑賞していた。

 動けない。何もできない。

 その男は後ろから押されてよろけたら俺にチェーンソーを貫通させそうなほど近くに来た。

 もう逃げ場がない。

「コワイ? コワイ?」

 あと数センチでチェンソーが服をかすめそうだった。

 その時、男はなぜかのけぞった。

「イタイ、イタイ!」

 と言ってチェンソーを持っていた腕を下げて後ろに後退する。

 俺は根が生えたように突っ立ったまま、男の後ろにたっている小柄な影を見つめた。

「八神!?」

 そこにいる八神は本当に八神なのか俺は疑った。

 まるで超能力者がテレポートして来たみたいに息もきらせず、ぽつんと立っている。

 八神は闇に浮かび上がるように白い白衣を来ていた。

 そしてなぜか両手に手袋をはめている。

「あのね、柿沼くんを解体していいのはわたしだけなんだよ。おじさん、練習台になりたいならわたしが解剖してあげるよ?」

 八神はポケットに手を入れた。その手を出した時、メスを握っていた。

「……やっぱり持って来てたんだな」

 俺はうわ言のようにつぶやいた。

 しゃべるのが、百年ぶりってぐらいにものすごくかすれた声が出た。

「えへへ。バレちゃったね」

 八神は余裕で笑う。

 空港ではたしかに金属探知機はならなかったのに、いったいどこに隠してたんだろう。

 その疑問はさておき。

 八神のメスは、チェンソーを前にはなんの役にも立ちそうにない。

 だが、男には効いているらしい。

「ナニ? イタイノ、ナニ?」

 男は驚いた声を出して八神を見る。

「痛いでしょ。このメスにはね、電気をためこんであるから、別のものとぶつかると放電するの」

 またメスが男のチェンソーとぶつかって火花をあげた。

 男が「イタイー!」と悲鳴を出す。

 シュパッと何か金属がこすれる音がして次の瞬間、男の右腕が八神の腕めがけて振り下ろされた。

 あっというまのできごとで、なにが起きたのかわからないままで、八神の「あっ」と驚いた声がした。

 ぴかっと八神の手元が光って、その光で八神のブラウスの腕が裂けているのがみえた。

 その裂けたところから赤いものがのぞいている。

 血だとわかった瞬間、俺は男がもう一つ凶器を持っていたことを知る。

「イタイ? イタイ、イタイネ」

 男は八神を傷つけたことで喜んでいる。

 そして、八神の方へ一歩前に出た。

「八神、逃げろ……!」 

 俺は八神を心配していた。

 八神もこの男に殺されてしまうかもしれない。

 ヘルメット頭の髪が動く。いや、傾いた。

 八神の持っていたメスが地面の上に落ちる。

 そして、男は。八神の顔をめがけてうなり声をあげたチェンソーを振る。

 俺は走りながら叫んでいた。

 こんなやつ死んだっていいはずなのに。

 クラスメートを殺しかけた最低な女だというのに。

 俺は無我夢中で、命がけで男に向かって体当たりした。

 チェンソーが八神に届く前に男が横に倒れてチェンソーは男からはなれた。同時にチェンソーのうなり声も消える。

 静かになって、男が起きあがらないまま三十秒も立つと、今いるのが夜の山の中なんだと実感する。

 男はどうやら気絶したらしい。

 虫の声が何事もなかったかのように静かに聞こえてくる。

「助けてくれたんだね、柿沼くん」

 八神が俺に笑顔を向けている。

「べ、べつに……っていうか何してるんだよ?」

 八神は倒れて動かない男に近づいていくとかがみこんだ。

「チューだよ」

 どきっとしたが、八神の言う「チュー」は別の意味だということをすぐに思い出す。

 八神は楽しそうに、動かない男に注射器を当てる。

「起きないようにね」

 一瞬、ぴくりと男の手が動いた。

 だが八神にふれる前に手はぱったりと地面に落ちる。

 まだ鼓動がうるさい心臓を無視して、俺は八神に聞いた。

「それより、おまえ、腕は大丈夫か?」

「腕ってなんのこと?」

 俺は八神が持っていたケータイをライトがわりにして八神の腕に光を当てた。

 破れた服の下に白い皮膚が見える。さっき男に切りつけられてできた傷がなくなっている。

 そんなはずはないと、俺が八神のそでをまくりあげてその腕をすみずみまで見た

 そんなばかな傷がない。

 ぷつりと片腕に何かが刺さる感触がした。

 隣を見ると、笑顔のまんまの八神がいて、その手にある注射針が俺の腕に刺さっていた。

「え、八神おまっ、え……?」

「助けてくれてうれしかったよ。ありがとう」

 打たれた薬が効いてきたのか、八神の笑顔がゆがんでくる。

「それからね。わたしは宮里さんにチューしてないよ。宮里さん、自分で滑って落ちちゃったの。あれは事故」

 目の前の黒い森、青い夜空、すべてが横に倒れていく。

 倒れたはずだが痛みはなく俺も男と同じように動けなくなった。

 だが、心は一つの終焉を知っているかのように穏やかだった。


 俺は真っ暗闇の中で、パトカーのサイレンを聞いた。

 はたして目があいてたのかどうかは不明だが、崖底にパトカーの赤い光が回るのを見たような気もする。

 そして、誰かの会話を聞いた。

「連続殺人犯がつかまって京都もようやく平和になるな」

 男の声がした。

「そうだね。今度の実験はどうしようかなぁ」

 こっちは女の声だった。

「次は何がしたいの?」

「たくさんあって困っちゃう。また手伝ってくれるの?」

「もちろん」

 二人のうち、一人の声は八神のような気がした。

 しかし、俺はこの時意識がはっきりしてなくて、確かめることはできなかった。

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