第2話 俺の方式

 睨まれたら、睨みかえす。

 殴られたら、殴りかえす。

 なるべく人を避けるためにこれを繰り返していただけで、俺は学校に『不良』の称号をもらった。

 そしていつしか、

 不良だから、睨む。

 不良だから、殴る。

 そういう目でしか見られなくなっていった。

 関わりたくないと思って始めた言動に、周囲の方から俺との干渉を避けるようになった今。

 俺に睨まれたくて、わざわざ俺の机に物を置いていくやつがいるだろうか。

 だが、いたらしい。

 いつもどおり遅刻して、二時間目に入る前に登校した俺は自分の机に一冊の本があるのを見つけた。

 図書室のバーコードがついているハードカバーの本。

 タイトルは、『解体珍書(かいたいちんしょ)』だった。

 表紙に人体模型の図がのっている。

 いかにも八神A子が好きそうなたぐいの趣味の悪い本。 俺は隣の席を見た。

 八神が間違えて俺の席に置いていったのかもしれない。

 だが、隣の席に八神はいない。

 まだ学校に来ていないのか、机に物一つ置かれていなかった。

 本にはしおりのようにして少しはみだして紙片がはさまっている。

 紙片を取り出そうとすると、ばさりと本が開いて中の人体模型みたいな人間の図が出てきた。

 解体珍書を読む気はない。

 はさまっていた紙片だけを取ろうと開く。

 中身を確認するだけのつもりだったが、書き出しからしっかり読んでしまった。

 その文面は、「愛しの君へ」から始まっていた。

 手書きの文字で便せん五枚にわたって文字をびっしり敷き詰めてある。

 まったく読む気になれない。

 現代文の授業なら、こういう長文は「要約しなさい」的な試験問題がよく出される傾向にあるが、この恋文もまさに「要約」する必要があるだろう。

 読みとばしていくと、一番最後の便せんに今日の放課後、中庭で待ってますと書いてある。差出人の名前は書いていない。

 この長編ラブレターを書いた作者は、読む人が最後まで読むと思って書いたのだろうが、俺に言わせれば最初の一枚の半分で十分だ。

 とりあえず、机の上の本をどうにかしようと本をつかんで教室を出た。

「おはよう、柿沼くん!」

 いきなり背後から明るくあいさつを受けて、俺はたじろいだ。

「うおっ!……八神」

 ヘルメットに似た整いすぎた髪をした白衣の女子が廊下に立っていた。

「その本、気に入った? 私が借りてる本だよ」

「……そうか。俺の机にあったんだよ。返す」

 一瞬中にはさまっていたラブレターのことを言おうと思ったが、中を読んだことがバレるので黙っておくことにする。

「あのね、柿沼くん。私、柿沼くんをカイタイするのやめたよ」

 解体珍書をきゅっと白衣の胸に抱きしめながら八神が微笑む。

「そうかよ」

 適当に答えたが内心では安堵のため息が出ていた。

 これでもう俺は八神から追い回されることもないだろう。

「シロウトは解体すると実験体を殺しちゃうかもしれないんだって。わたし、柿沼くんが死ぬのイヤだし」

「そ、そうかよ」

「カイタイして死ななくても、グチャグチャのドロドロになって元に戻らなくなっちゃうっていうからやめることにしたの」

「……へぇ。それはよかった」

「だからかわりにね、実験することにしたよ」

 にっこりと笑う八神。

 その手に小さな瓶を持っていた。

 なんだ、その液体は。

 それを見たとたん最大級に嫌な予感がした。

「硫酸だよ。大丈夫、心配しないで。ちゃんと水を入れておいたから」

 八神が一歩前にでて、俺は一歩後ろに下がる。

「硫酸って……まさか本物か?」

 濃硫酸に水を加えると熱が発生して、人間にかかると火傷や失明のおそれがある危険物だ。

 だが、八神の笑顔からしてそれを知っていてやっているらしかった。

「お願い。大好きな柿沼くんの顔が焼けただれてもわたしは柿沼くんのこと、好きでいられるか試したいの」

 また八神が一歩前にでて、俺は一歩後ろに下がる。

 解体よりは硫酸の方がましか?

 いや、どんだけ冷えた頭で考えたとしてもどっちも願い下げだ。どっちも死亡率百パーセントのバーを軽くまたげるくらいで越えている。

 そういうわけで俺は逃げ出した。


 八神も授業なんかどうだっていいという性質のようで、二時間目の授業開始のチャイムが鳴ってもかまわず俺をまっしぐらに追いかけてくる。

 八神はつい一昨日この高校に転校してきたばかりだし、俺のほうがこの学校については詳しい。

 ……はずなのだが。

 さっきからどこに行っても追いつめられる。

 体育館から図書室につながる踊り場。

 屋上の階段。校庭の倉庫裏。果ては男子トイレまで。

 八神はどこまでも追いかけてくる。

 逃げ場がない。

 裏庭まできてあたりを見回す。

 校舎裏には雑草が生い茂っていて、午前中は校舎の日陰ができていて涼しい。

 いつもなら駐車用のタイヤブロックに座ってタバコをすっているところだが、今はそれどころではなかった。

 今に八神が出てくるだろうと四方八方を見回して待つ。 だが、待つとなかなか出てこない。

 やっとまくことができたのか。

 ホッと息をつくと、数メートル上からガラと窓があく音がした。

 そして、何かが降ってきた。

「うおっ!?」

 思わずよけると、何かが降ってきたあたりの草からジュッと一瞬にして焼け焦げたような音がして、細長い煙が立った。

 ゆっくりを上を見上げると、窓から瓶を持った八神のヘルメット(髪型)が見えた。

 降ってきたのは、八神の硫酸だった。

 俺はまた逃げ出した。


 美術室があいていればと願って教室のドアを引っ張ったり蹴ったりしてみたが、思うようには開かずそこでたまたま扉があいていた向かい側の図書室に入った。

 図書室は授業で使っているところだった。

 数人の生徒が資料を探している。

 入り口に立つと、カウンターに一番近い閲覧用の机で読書をしている男子に目が止まった。

 男子は前髪の片方だけが妙に長いアシンメトリーな髪型をしていたが、そいつというよりそいつの読んでいた本が気になった。

 その本の表紙は『解体珍書』だった。

 八神が借りている本と同じもの。

 あいつと趣味が合いそうだ。

 他に近くに人もいないので、俺はそいつに頼みごとをすることにした。

「おい。白衣の女子が来たら、俺はここに来てないと言ってくれ」

 男子はわけがわからないという顔で俺を見上げていたが、最後には「いいけど」とうなずいた。

 これで二時間目が終わるまでは安全だろう。

 俺はカウンターの中に入って。

 図書委員が読んでいたらしい開いたまま裏がえしになっていた少年マンガを見つけた。ちょうどいいと俺は読み始めた。

 それから数十分が過ぎた。

「柿沼くーん」

 前髪をかすめてすぐ目と鼻の先上、開いたマンガの上に何かが落ちた。

 開いていたページから煙が立って、マンガの少年主人公の顔が炭のように真っ黒になった。

 刺激のある臭いがたちこめて俺はマンガ本をほうりなげてカウンターを飛び出した。

 カウンターの上に八神が正座していた。

「ちぇ。もうちょっとだったのになぁ」

 八神は残念そうに口をすぼめる。

 マンガにはまりすぎて二時間目終了のチャイムが聞こえなかったらしい。

 他の生徒はもういなくなっている。

 少しあてにしていた解体珍書を読んでいた男子もいない。

 八神がカウンターから飛び降りて俺の前に立つ。

「柿沼くん。次ははずさないからね」

 そう言って八神が前に出た時だった。

 人気のない奥の本棚から誰かが出てきた。

「君たち……あれ、八神さん」

 さっき、解体珍書を読んでいた男子だ。そして今も、まだ手に解体珍書がある。

 八神の視線がゆっくりと男子の持っている解体珍書に移動していった。

「何してるところ? あの手紙は読んでくれた?」

 何と聞かれると答えにくい。同時に手紙ってなんのことだろうと疑問に思った。

 その時、ぱっと八神が動いた。背中に硫酸の入った瓶を隠す。

 俺は黙って八神を見つめた。

「あ……じゃ、じゃあね、柿沼くん。またあとで!」

 八神は俺に手をふると図書室から出ていった。

 まるで、男子の視線から逃れるように。

 あの八神が逃げ出すなんていったいどういうことなんだ?

 俺は秘密をさぐり出そうと、男子を睨んだ。

 睨まれた男子はぎくっと肩をふるわせて俺から離れた。

「まだ何か用?」

 男子が手にしている解体珍書を盾にしながら聞いた。

「その本、八神が借りてたのと同じだろ。朝、俺の机にあった」 

 そう言ってから、さっき八神と出くわしたときにこの男子が八神に手紙のことを聞いていたのを思い出す。

 今朝、机の上にあった解体珍書にはさまっていた手紙のことも。

 俺は手をたたいた。

「ああ。おまえ、あの『愛しの君へ』の作者か」

 どうやら俺の憶測は当たったらしい。

 男子は顔を真っ赤にする。

「なんで知ってるんだよ! あっ、もしかして君、彼女から手紙を奪ったんだな!」

「そんなこと誰がするか。俺の机の上に間違えて置いてあったんだ。それにしてもおまえ八神に惚れてんのか? そうだとすると、おまえ、よほどの勇気があるか超ドアホだろ」

 命知らずだが、ある意味尊敬に値すると言ってもいいだろう。俺にはそんな勇気はない。

 バカにされたと取った男子はますます顔を赤くした。

「き、君さ、そんなに僕をけなしてどうしたいわけだい? さっき八神さんに冷たくしてたけど、あれは君の方が八神さんの気を引いてるんじゃないか!」

「はぁ? ちげぇよ。あいつが俺を追いかけてくるんだよ」

「君さぁ、よほど彼女が自分のことが好きだっていう自信があるようだけど」

「自信があるっていうか、本人がそう言ってるんだよ」

「嘘だ。君が八神くんを好きだから僕にあきらめさせたいんだ。醜いよ。嫉妬だね、嫉妬だよ!」

 ドン! みきっ!

 俺は男子の後ろにあった掃除用具を殴っていた。

「きつい冗談をかますんじゃねぇよ。あいつにとりつかれたら最後だぞ。よく覚えとけ!」

 本気で怒ったわけじゃないが、軽く脅すつもりで睨むと男子は、「ひっ、ひぃ!」となさけない声をあげて逃げていった。

 俺はため息をついてカウンターによりかかる。

 そして額から落ちる汗を手の甲でぬぐった。

 八神は「あとで」と言っていた。

 その意味は、「またくる」ということだ。

 だめだ。

 逃げないと死ぬ。


 廊下を移動中に誰かに腕をつかまれた。

「どこに行くんだ、柿沼。教室はそっちじゃないだろう」

 歯ぎしりしながら見れば担任の数学教師だった。

 若いこの教師はさわやかな雰囲気があって、生徒たちからは人気がある。

 だが、俺に言わせれば節介焼きで煙たいやつだった。

「はなせよ!」

 こうしている間にも八神が俺を見つけるかもしれない。

 そう思うと気が気ではいられない。

「おおっ、先生にはむかったな! おまえ、度胸あるよな」

 はははっと数学教師は笑う。

「保健室に行くんだって。気分がわりぃんだよ」

「ほぉ、その手には乗らないぞ。試験も近いし、ノートとってない分、誰かに借りて見せてもらえよ」

 学生のように若い数学教師はさわやかに笑う。

 だが、俺は笑っている場合じゃない。

 八神A子の脅威が迫っている。

「今それどころじゃねぇんだよ!」

 半ばパニックを起こしながらわめくとこれには数学教師も驚いた顔になる。

「授業をふけるのに必死だな」

「必死なんだよ!」

「その必死さを勉強に生かしてくれればなぁ。閉じこもって勉強するくらいに」

 なんだって? 閉じこもるだ?

 そんなこと誰がするかといつもなら思う。

 だが、今の俺にとってそれはいいアイデアだった。

「そうだ、俺を自習にして居残りにしろ!」

「は?」

「それで鍵をかけて俺を閉じこめろ! 誰も入ってこないようにな!」

 数学教師の目玉がみるみるうちに丸くなった。

「どうしたんだ。すごいやるきだな」

「やるきなんだよ!」

「そうか、それはいいことだ!」

 すぐにあまり使われていないほこりっぽい教室を数学教師が用意してくれた。

「じゃ、がんばれよ~」

 にっこり笑って教室に俺を入れると数学教師が外から鍵をかけた。

 狭い教室には机が六つしかなく、そのうちの一つに数学教師が用意した数学のプリントが山のように積まれていた。

 これで今日一日やりすごせそうだ。

 俺がそう思ったのは、数学のプリントではなくもちろん八神のほうだ。

 昨日は「解体、解体」とうるさかったのに今日は言わないところをみると、八神はけっこう飽きやすい性格なのかもしれない。

 それなら、今日無理なら硫酸はあきらめる可能性が高い。

 俺は教室を見回して施錠を確認する。

 ドアは全部しまっているし、奥の小さな窓も鍵がかかっていて入れない。

 よし、これでいい。

 俺は安心して深く息を吐くと、机に座ってプリントの問題を解き始めた。

 プリント十枚目に突入してそろそろ数式をとくのにも飽きてきた。

 時間をつぶすためにケータイをいじってゲームをして一時間が経った。

 顔を上げると、太陽は西に傾いてオレンジ色に染まっていた。

「そろそろいいか」

 俺は立ち上がって伸びをする。

 もう八神はあきらめて家に帰っただろう。

 だが、あの変人女のことだ。万が一、帰っていないということも考えられる。

 いったん外に出て八神がどこにいるか確認しようかと考えていると、ドアの曇りガラスに黒い人影がうつった。

 背の高さからして数学教師に間違いない。

 施錠があく音がしてドアが開く。

「プリントは進んだか? おっ、けっこうやったじゃないか。おまえやればできるんだから普段からこれくらいやればいいのにさ」

 数学教師は数式で埋まったプリントを見て感心したようなあきれたような口調で言う。

「今日は帰っていいぞ。いきなり勉強しすぎるのも体に毒だろ?」

 プリントを整えて脇に抱えると数学教師は笑いながら教室を先に出ていった。

「うるせぇな。言われなくても帰るっつの」

 鞄をつかんで肩にかけ、俺は廊下に一歩踏み出したところで立ち止まった。

 そこにいた誰かが俺に笑いかける。

「こんなところにいたんだぁ柿沼くん」

 八神だった。

 瞬時に俺の思考回路が凍り付いた。

「意外に勉強家なんだね。安東先生から聞いたよ。閉じこもって自分から勉強するなんて」

 あの数学教師、こいつに教えやがった!

 文句を言ってやろうにも数学教師はもういなくなっている。

「ねぇ、昼間のつづきしよっか?」

 八神が丸く手に握った瓶をつきだして、俺は後ろにさがる。

 また教室の中に逆戻りだ。

 後ろをみないまま下がって、机にぶつかった。

 八神がきゅぽっと瓶のふたをあける。

 この教室はあまり広くない。

 振り返ると後ろは壁だ。

「まじかよ……」

 乾いたのどで思わずつぶやいた。

 窓はすぐそばだが、鍵をあけて外にでる間に八神が硫酸をかけるかもしれない。

 俺は追いつめられた袋のネズミだった。

 八神がいっそう笑みを強くする。

「じゃあいっくねー!」

 瓶がふられて中身が飛び出す前に俺は、前に出た。

 そして、八神の手を下から強くはたいた。

 八神の手から瓶が飛び出して、宙を舞う。

 落ちるときに逆さまになった瓶から中の薬品がこぼれおち、八神の頭をめがけて降り注いだ。

 シュウシュウ音がして、鼻が曲がるようなにおいがしだした。

「柿沼くん……」

 見れば、目の前にいる八神の白衣とブレザーが焦げて肩のあたりに大きな穴をあけている。

 下を向いた八神に前髪がかぶさっていた。

「わ、わりぃ。冷やさねぇと……」

 八神が俺に向かって手を差し出した。

 本当なら火傷しているはずの手は変化がなく、変化と言えば、床に落ちたはずの瓶をその手に持っている。

 しかも中にはまだ液体が入っていた。

「もう一本あるから平気だよ」

 にっこりと八神が微笑んだ。

 俺は八神をつきとばして階段をかけおりた。

 校舎から出るとすぐ目の前に見覚えのある男子がいた。

 アシンメトリーなバランスの悪い前髪の男子だ。向こうも俺を見て「あ」と口にする。 

「おまえ、逃げろ!」

 俺は背中に迫ってくる八神の脅威を感じて叫んだ。

 このままではこの男子も巻き添えになる可能性がある。

「はい?」

 親切心で言ってるのに、男子は怪訝な顔で俺を見る。

「ぼくはここで八神さんを待ってるんだ」

「バカ! あいつはやめろ、死ぬぞ!」

「何を言い出すんだよ、君……」

「なんでもいい、とにかく八神はあきらめろ。どうなっても知らねぇぞ!」

 差し迫っている危険を感じてつい熱くなっていて、八神がすぐそこに来ていることを俺は一瞬忘れていた。

 ぱっと急に男子の目の色が変わった。かと思うと、男子は俺を押し退けた。

 そして出ていく。

 誰であろう、俺のすぐ後ろまで来ていた八神の前に。

「来てくれたんだね、八神さん」

 うれしそうに男子が進み出た。

「お、おい……」

 このバカ男子は八神が硫酸を持っていることを知らない。

 しかも、八神が硫酸をかけようと人を追いかけ回すような危険人物だということも知らない。

「や、八神に近づくんじゃねぇ」

 男子は驚いて俺に視線を向ける。

 それからまばたきを二、三度した。

 そして何かが腑に落ちたらしく「そうか」とつぶやく。

「君は八神さんのことそんなに好きなんだね。僕に死ぬぞって脅すくらいに」

「そうなの?」

 ポッと八神の顔が赤くなる。

 対照的に俺の顔色は青くなった気がする。

「ちげぇよ。恐ろしいことを言うんじゃねぇ。世紀末、地球が崩壊する日がきてもそんなことはありえねぇんだよ!」

 俺は男子につかみかかって上から死にそうな笑みを送りながらゆさぶる。

「ひぃ!……わ、わかったよ」

 男子は俺から逃れると怯えたようにうなずいた。

「わかったなら許す」

「で、でも八神さんを誘うくらいならいいだろ? ぼく、八神さんの興味ありそうな展覧会のチケットを持ってるんだ。ほら」

 男子は持っていた封筒からチケットを取り出して見せた。

 チケットには『人体のふしぎ解剖展』とかいてある。

「八神さん、解体珍書を読んでたでしょ。だから、こういうの興味あると思ったんだ。展示会には人体標本もあるんだよ。来週の金曜日までなんだ。もったいないし行こうよ」

 八神はチケットを見て、目をキラキラ輝かせた。

「いきたい、いきたい、いきたいっ!」

「ゲッ」

 やめてくれ。

 今日、八神は解体をやめたと言っていたのにまた俺を解体したいと言いだしたらどうしてくれる。

 俺は横から男子が持っていたチケットを抜き取った。

「八神を行かせるくらいなら俺が行く」

「なっ、なんでだよ! 僕は八神さんを誘ってるんだ。どうして君が……」

「文句あんのか?」

 睨んでやると男子はブンブンブンと横に首をふる。

 すると、八神の手が動いた。

 がつっと俺の右手と男子の左手が八神につかまれる。

「じゃあ、柿沼くんと桐谷(きりや)くんと私、三人でいこうよ」

 八神が楽しそうに笑う。

 桐谷というのがこの男子の名前らしい。

「そ、それは……」

 桐谷が八神を見て俺を見た。

 俺は桐谷を見てから八神を見た。

「きまりだね」

 ほかの手を考える余裕を与えずに八神が笑い声をたてて、すっと桐谷の手元からチケットを一枚抜き取ると校舎に走り去っていく。

 八神が見えなくなると、恨みがましく桐谷が俺を横目で見た。

「僕は八神さんだけを誘ったのに!」

「そらわかってる」

「君そんなに八神さんのこと好きなんだ」

「ちげぇよ」

「……さっき八神さんに手をつながれたときすごく手がピリピリした。運命かな。やっぱり八神さんは他の女の子とは違うな!」

 そういえば。

 さっき八神は、硫酸を手にも浴びていたような。

 その手を握ったらしびれるのは当然だろう。

「まだピリピリするよ……」

 桐谷は大事に手を抱えて瞳をとじる。

 幸せなやつだ。

「そ、その手、水で洗ったほうがいいぞ! じゃあな!」

 世の中には知らない方がいいこともある。

 つき合いきれなくなった俺はそう言って、校門へ向かった。

 校門を出ると、校門の前にキノコのような頭をした白衣の人物がしゃがんでいた。

 ひざをスカートを包んで待っていたそいつは校舎に戻ったはずの八神だった。

「そういえばね」

 八神が俺を見上げて口をひらく。

「大事なことを思い出したの。わたし、柿沼くんの顔、大好きなの。だから硫酸かけるの止めるね」

 八神はにっこり笑う。

 こいつ、本気で言ってる。

「へ、へぇ……」

 心臓が一瞬で冷凍されたような気がした。

 睨まれたら、睨みかえす。

 殴られたら、殴りかえす。

 だが、そんな俺もこの女の不可解にだけはつき合いきれないのだった。


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