八神A子の実験帳

玻津弥

第1話 不可解のはじまり

 死にものぐるいで走ったのはいつ以来だろう。

 俺は今、心臓が裂けそうなほどバクバクしているのを承知で高校の廊下を全力疾走していた。

 誰から逃げてるのか思い出すと、なんだか情けない気分にもなる。

 その理由は、逃げている相手というのが女子だからだ。でも相手が異常変態女だから別におかしくもないのか。

 いや、やはり変なのかどうか。

 ……もうそれすらわからない。



 あいつを初めて見たのは、気まぐれでたまたま高校のホームルームに出ていた日だった。

「八神A子(やがみ えいこ)です」

 そう名乗った新しいクラスメート。 

 スカート丈が膝下と長いところから見ても、優等生タイプだった。俺とは何の接点もなさそうなおとなしそうな女子。

 目立つのは、なぜか制服の上から羽織っている真っ白な白衣。これがこいつのアイデンティティなのかもしれない。

 髪型が整いすぎていて、ショートの髪がヘルメットのようなかぶりものに見えるが、顔はけっこう悪くない。

 その日、朝から授業をふけって、植え込みに隠れてうまく姿を消せる穴場にもぐって一服していた時だった。

 人の気配がして壁と背中の間に煙を隠すと、膝下のスカートが見えた。

「わたし、八神A子だよ。あなた、柿沼亮二(かきぬま りょうじ)くんでしょ?」

 俺は自分の穴場に入ってこられたことに嫌悪感をこめた顔で八神を見上げ、後ろ手で煙草の火をコンクリートに押し当てて消した。

「あ? おまえ、今朝の転校生か。なんだよ」

 どうしてここに転校生がいるんだろうとかそのときは考えもしなかった。

 とっとと場所を移動しようと立ち上がると、目の前に八神A子が立ちふさがる。俺を興味津々の両眼で見つめている。

 八神の頭ってやっぱりヘルメットみたいだなと考えていた時に、急に八神が口をひらいた。

「わたしあなたをカイタイしに来たの」

 言葉の内容を思い返すのに数秒かかった。

「……は? カイタイって言ったか?」

「解体させてくれる?」

「いや。それはたぶんむりだろ」

「むりじゃないよ」

 八神が片手をあげた。その手に握られていたのはメス。

 形からして間違いない。それは手術で肉体を開くのに使う刃物だった。

 曇りひとつないメスが光を反射している。

 空も校舎も俺も八神も小さく映す銀色の凶器。それが、ぷっすりと俺の学ランの肩に刺さった。

 肉には刺さらなかったが、メスは学ランを半分近く貫通している。

 心臓が冷えた氷を流すようにひやりとした。

「あっぶねぇ、何しやがる!」

 俺はメスを引き抜いて、植え込みに放り捨てる。

 八神を見ると驚くことに笑っていた。

 コイツはどうもヤバい系だ。この女、頭がイカれている。

「だからぁ、解体するのよ。マグロの解体を見たことない? まっぷたつにしてみるの。おもしろいでしょう?」

 くすくすと八神は黒い目を細めて不気味にほほえんだ。

 おもしろいって、おもしろいって、おもしろいってなんだよ!? 

 とりあえず、八神の思考が普通じゃないことだけがわかった。むしろ異常だ。

 俺は売られたケンカはいくらでも買うが、危ないと直感した橋は絶対に渡らない。

 この場合は、後者になるらしい。

 俺は回避に徹することにした。

「あっ、まって! まってよ柿沼くん!」

 後ろから八神が追いかけてくる。

 なんで命令する。待つわけがないだろ。

 俺は植え込みをハードルの要領で飛び越えると、それから死にものぐるいで走った。


 どこかに逃げるよりも教室にいるほうが遙かに安全のような気がした俺は教室で授業を受けることにした。

 ここなら教師や他の生徒の目もあるし、そう簡単にメスをふりかざすことはできまい。

「おお、珍しく柿沼が出席か。えらいぞー」

 若い数学教師は俺を見てそんなことを言った。

 イラついて、無言で教師をにらんでやったが何も言わないでおいた。

 授業は退屈すぎた。

 こんなもの、教科書を見ればすぐに解き方がわかる。

 ちらりと開いたままのページに目を移す。

 2a=x(bx)

 因数分解。

 数式をあばいて解体する。

 カイタイしたいと言っていた八神A子。あいつは俺を因数分解したいのか?

 まったく意味がわからない。


 二十分くらいたっただろうか。

 俺は波の上を漂うような心地よい眠りをむさぼっていた。そこに首筋になにかが当てられて目が覚めた。

「うわっ!」

 飛び起きて振り向くと、後ろに白い白衣を着た八神が立っていた。

 ひやっとする感覚に背筋が鳥肌たって思わず立ち上がると、後ろで椅子が横倒しに倒れた。

「な、なんだよ……」

「それ以上動かないでね、柿沼くん。動くとメスがささっちゃうから」

「な……!」

 何かがおかしいと前を見ると、教師や空っぽの机を残してほかのクラスメートがいなくなっている。

 授業はとっくに終わっていたらしい。

「解体はイヤみたいだね? じゃあかわりにわたしと付き合ってよ。それならいいかなぁ?」

「何につきあうって?」

「わたしね、マグロの解体を見に行きたいの。解体の実践したことないから、お手本を見たほうがいいよね?」

「手本っておまえ……」

「よし、いこっか!」

 八神が明るく俺の腕を引っ張る。

「いこう、いこう」

 俺の横にあるのはものすごく楽しげで無邪気な笑顔。

 その顔を見たとき、八神への恐怖に混じって、俺の心に妙なものが流れ込んできた。

 いつか昔に感じた感情。揺れ動く生ぬるさが混ざり込む。

 こんな風に腕をひっぱられたりどこかに行こうと親しげに誘われたのは、何年ぶりだろう。

 小学校の高学年くらいに背が伸び初めてから俺の周りに近づいてくるやつはいなかった。

 八神は俺をつかんだまま校門を出ると、学校から一番近くにあるバス停で立ち止まった。

 バスに乗るつもりらしい。

「どこまで行くつもりなんだよ?」

 ようやく腕をひっぱって八神を腕から振り払って俺が聞いた。

「わかんない。海にいけばマグロの解体してるよね?」

「俺に聞くなよ。海ったって遠いんじゃねぇの?」 

「どんなに遠くたって、見たい気持ちがあれば近いもん。ゼッタイ平気」

 笑顔でそう言う八神には不思議な説得力があった。

「あ、きた!」

 八神が手を振るのに引き寄せられるようにして、一台のバスが止まった。

 八神はバスに乗り込むと、運転手に

「海に行ってください。マグロのいそうなところに!」

 と注文をした。

「おい、バスはタクシーじゃねぇんだぞ」

 ヘルメット頭の転校生よりはるかに常識人の俺が後ろから言うと、

「わかりました」

 と運転手が答えた。

 俺の後ろのドアが閉まってバスのエンジンがかかる。

 俺はパスケースを出して、運転手に運賃を聞こうとしたが、「料金はすでに払っていただいてます」と言われた。

 八神がいつのまにか払っていたらしい。

 バスが動き出したので、俺は自分の席を求めてバスの後ろに行った八神を追いかけた。

「これからどこに行くつもりだ?」

「マグロいる海にいかなくちゃね」

 バスに乗ったはいいが、八神は特別どこに行こうか決めていないようだった。

 バスには俺たちの他に誰も乗っていなかった。

 八神は二人横並びに座れる席に座って、ひらひらと手をふって俺を呼んだ。

 だが、他の席が全部あいているのに八神のとなりにわざわざ座りたくなるわけもない。

 俺はわざと八神からはなれて斜め後ろの席に座った。

 それを見て、八神は少し頬をふくらませたが、すぐに別のことを言い出した。

「マグロ解体してそうなところってどこかなぁ」

「……漁港とか?」

「そっかぁ、そうだね!」

 今の質問には答えなきゃよかったと思っても遅かった。

 八神は「漁港、漁港!」と連呼し始めた。 

 バスの運転手は八神のわがままに答えてるのか、本当にバスの行き先に漁港があるのかわからないが、どんどんバスは海に向かっているようだった。

 三十分もすると真っ青な海が見えてきた。

「海だぁ~っ!」

 素っ頓狂な声を上げて八神がバスの窓をあけた。

 潮の香りが風に乗って入ってくる。

 俺はちらりと八神を見た。

 メスはいつもどこに隠し持ってるんだろう。

 背中、腰、どこにも怪しいところはない。

 鞄の中か?

 八神の隣に無造作に置いてある鞄は開いて中身が見えていた。中は暗くてよく見えない。

 八神が窓の外に夢中になっている今なら、メスを没収することもできるんじゃないだろうか。

 俺は席から立つと、八神の鞄の中へ手を伸ばした。

 もう少しで手が届く。

 そのとき、バスが急ブレーキをかけた。

「だはっ!」

 俺は前の優先席のほうまで転がり出てごろんとすっころんだ。

「『急ブレーキをかけることがありますので、走行中は席から立ち上がらないようお願いします』」

 俺の失態を見ていたのだろうか。

 後から付け足すように、運転手のアナウンスが入った。

「あれってもしかして漁港かな? ここで降りようか」

 ピンポーンとバスに明るい音が鳴った。


 それからバスを降りた俺と八神は漁港に向かって歩いた。

 漁港には白い舟がプカプカと気ままに浮いていた。

 その中の舟から一人のおじさんが降りてきた。

 八神はすかさずおじさんに片手をあげて走り寄る。

「おじさん、解体見せて!」

 漁師のおじさんは中学生の二人組を見てふしぎそうな顔をした。

「解体って……マグロの解体ショーのこと? 残念だけど、今日はもうやってないな。平日は午前中の一回きりしかやってないんだよ」

 漁師のおじさんは短くかりそろえた頭をかりかりとかいた。

「えーそうなの? せっかくここまで来たのに……。じゃあおじさん、解体の仕方だけでも教えてよ」

 八神はメモ帳を取り出して漁師おじさんに解体講義をねだった。

「仕事中だから少しだけな。落とす順番は、まず頭でしょ。それからヒレ」

 熱心にメモをとっていた八神が顔をあげる。

「ヒレ!? どうしよう、人間のヒレってどこ?」

「手足だね」

「ああ、そっかぁ」

 にっこりと笑って八神はメモ帳に書いた人間の頭と手足を切り落とすように線を引いた。

 俺は自分の頭と手足を切り落とされるのを想像してしまった。

 気持ち悪すぎる。

「俺は帰る」

 バス停のある道路へ歩き出すと後ろから八神が追いかけてくる。

「おじさん、ありがと! まってよ柿沼く~ん」

 すぐ隣にきた八神を俺は振り向いた。

「おい、八神。おまえあんまり調子にのるんじゃねぇぞ。解体だぁ? ふざけたことぬかすとおめぇのほうこそただじゃおかねぇぞ」

 俺は自分が出せる一番低い声を出した。

 たいていの人間はこれで走って逃げていく。

 八神は笑顔でかわすか、メスを取り出すかと思った。

 だが、八神はショックを受けたように俺を見つめている。

 俺はためいきをついた。

「……まぁ。今日は楽しくなかったこともなくはないかも

しれねぇけど」

 今日一日楽しくないことのほうが多かったはずだが俺はなぜかそう口にしていた。

「うん、そうだねぇ。でも、マグロの解体は見たかったな」

 夕暮れの港にしゃがみこんでう~と八神がうなる。

「また今度こようね。柿沼くんのことうまく解体したいもん」

 ぴたりと八神が俺の腕に顔をつける。

 忘れかけていたがこいつは俺を解体したいのだ。

「は、離れろ……」

「どうしたの、柿沼くんってば。怯えた顔して」

 腕を移動する冷たい感覚は間違いなくメスだった。

 俺の背中にぴたりと冷たい凶器を押し当てたまま、八神が問いかける。

「わたし、柿沼くんのことが好き。柿沼くんは?」

「離れろよ!」

 俺は思いっきり八神を突き飛ばした。

 八神はよろけてたたらをふんでからその場にしゃがみこむ。それから顔を上げて俺を見つめた。

「そうなんだ……。柿沼くん、わたしのこと嫌いなんだね」

 しょんぼりと悲しげに八神はつぶやく。

「じゃあ」

 そして、持っていたメスをくるりと手のひらで回転させる。

「わたし、生きててもしょうがないな」

 夕日を背景にほほえみが見えた。

 きらりと別れを告げるようにメスが輝く。

「やめろ!」

 俺は八神の手を取り押さえにかかった。 

「なに考えてるんだよ!?」

「考えてるのは柿沼くんのこと」

 こんな答えふざけてる。

 しかし八神は本気だった。

 本気で自分を刺そうとメスを堅くつかんだままはなさない。そして俺からも目をはなさない。

 俺は生唾をのみこんだ。

 生まれてこの方、他人にこんなに翻弄されたことはない。

 こんなことは初めてだった。


 次の朝、登校していると昨日のことは夢幻だったんじゃないかという気がした。

 学校の靴箱に八神A子なんていう名前はどこにもなかった。

 教室にも八神の席はなかった。 

 どこにも八神のいた形跡は残っていない。

 机に肩から鞄をおろして席に落ち着くと俺は目を閉じた。

 八神なんていう転校生はいなかったんじゃないか。

 だが、その時、間近から声がした。

「昨日はカイタイ見れなくて残念だったねー」

 すぐ横にヘルメットによく似た髪型の八神がいて、ひらりと白衣のすそが揺れる。

 「よいしょっ」といいながら八神が俺の隣に何かを持ち上げて置いた。

 それは新しい机と椅子だった。

「でもね、ほかにいい方法思いついたんだ。この辺にいる動物を使って練習すればいいんだって。あんまり小さいとやりにくいから少し大きいのがいいよね。ねぇ、柿沼くん。動物ってどうやったら捕まるのかな?」

「し、しらねぇよ。……おまえ、まさか俺の隣なのか?」

 俺は八神が置いた新しい席を見た。

「うん。よろしくねっ」

 よろしくしたくない。

 巻き添えになってたまるかと俺は立ち上がった。

 八神がついてくるかもしれないと予想はしていたが、本当についてきた。

「ついてくるんじゃねぇよ」

「解体の練習するんだもーん」

 冗談じゃない。

 俺は階段の角を曲がると、一気に上の階に駆けあがった。

 気がつくと、八神の姿が見えなくなっていた。

 ほっとするどころかむしろ不安になった。

 あいつは今、どこで何をしている?

 窓があいた三階の廊下を歩いていた時だった。

 外からおぞましい鳴き声がして思わず俺は足を止めた。

 窓から外をのぞくと屋根の下が騒がしい。

 動物の妙な鳴き声がする。

「八神なのか!?」

 呼びかけても返事はなかった。

 だが、俺は八神であることをほぼ確信した。

 八神は動物をつかまえて解体しようとしている。

 階段を駆け降りて、さっきの鳴き声のしたところを探した。

 そして、見つけた。

 丸くなって何かを抱え込んでいる八神の後ろ姿を。

「や、八神……」

 くるっと八神が振り向いた。

 その腕に抱えているのは丸くて太ったデブ猫だ。

 持ち上げていると猫の肉が伸びて白い腹の部分がびよんと長くなる。 

 そして、俺は八神の手に銀色のメスがあるのを見た。

 まさか本当に動物を解体する気なのか。

「やめろ!」

 猫を逃がそうと手を伸ばそうとした。

 手が届く前に八神の方が動いた。

「かわいいっ!」

 八神は両腕で猫に抱きついた。

 呆然とする俺の前で、八神をいやがった猫が体をひねって八神の腕から抜け出した。

 ギャースと恐竜みたいな一鳴きをして猫は去っていった。

 俺と八神は猫が去っていった方をしばらく無言で見つめていた。

「……う~ん。解体ってむずかしいなぁ」

 メスの先を下唇にヒタとつけながら八神がうなり声をもらした。

「八神、昨日おまえが俺に言ったこと覚えてるか?」

「カイタイ見たかったな?」

「ちげぇよ。これだけははっきり言っとく。俺はおまえとは付き合えねぇ」

「え……どうしてそんなこと言うの?」

 八神が口元からメスをはなして悲しげな表情を浮かべた。

「昨日会ったばかりだろ。それに無理だ。だいたい、どうして俺なんだよ」

「だって……ね」

 八神が浮かべた不可解な笑み。数学よりもずっと理解不能な笑み。

 こいつが俺を何よりも戸惑わせる。

「わたしは八神A子だから」


 この女、不可解だ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る