「文章が躍る」
帰宅した後、奇妙な古書店で買ってきた本を読もうとしてみたが、どうにもダメだった。文字を目で追おうとすると、まるで鬼ごっこをしているかのようにそれらの線の連なりはぼくの視線から逃れてしまう。
これは一体、どういう病気なのだろうか。
ぼくはこれでも小説家を志す人間だ。といっても、自分に小説を書く才能があると思ったことはないし、素晴らしい小説を書ける自信があるわけでもない。その日の生活をやり過ごすために生きているゴミのような人生に少しでもハリを持たせようと思って、こころみに大それた夢をでっちあげただけの話である。
ぼくは真面目に夢を追いかけようとする人間じゃない。夜にコンビニバイトをして一ヶ月の生活費をなんとか工面する無気力なフリーターだ。
だれかに目標を聞かれたとき困らないように小説家という夢を一応持っているだけなのだ。
数ある職種の中から小説家を選んだのも特に理由があるわけじゃない。ただ昔から小説が好きだという、それだけの理由なのだ。
ふふ…。本が読めない小説家か…。
思わず笑みがこぼれた。聞いたことがない。文字に嫌われる小説家なんて。いつもぼくはやろうと思っていることを自分で邪魔してしまう癖がある。本が読めないというこの奇妙な現象も、その癖のせいなのかもしれない。
何かをするくらいなら、何もしないほうがましだ。
ぼくは子どもの頃からそう思っていたし、ひねくれたこの考えは生涯変わらないだろう。親、兄弟、友達、教師の圧力から開放されるために、ぼくは常に失敗するための理由を探していた。何もできないための理由を探していた。ぼくにはしたいことがなかった。いつもだれかにやらされているだけだった。楽しくない人生を危うげなく生きるために、ぼくは逃げ道を見つけようと躍起になっていた。
嘘つきの、大馬鹿者の、このぼくは。
「なんで真面目にやらないの?一生懸命頑張ったんだから、物怖じしないで突き進めばいいじゃない?どうして自分の努力を踏みにじるようなことを平気でするわけ?」
ぼくの記憶の中でわめき散らすこの声はなんだ?機械的な音声が次第にしっかりとした人間の声色に変わっていく。それは姉の声だった。
なんでそんなことを言われたんだっけ?ああそういえば、中学受験の試験会場で途中退出したことがあったっけ?それが親にばれ、姉にばれ、そう言われたような気がする。
姉はぼくと違って何事にも一生懸命な人だった。そしてその努力と引き換えに、彼女は周りから尊敬と信頼と名誉を勝ち取っていた。
そんな姉からみて、努力をしながら最後には諦めてしまうぼくが不思議だったのかもしれない。
ぼくは努力していたわけではない。努力をしているふりをしなければ生きていけなかったんだ。周りから「いい子」だと思うためにやっていただけなんだ。優等生だと思われたくて、でも思われるほど自分に能力がないことを知っていたから、失敗するのが怖くて、なにもしなかったんだ。なにもできなかったんだ。
次第にぼくは努力をするふりをするのもあきらめた。
家族にも友達にも叱られて、諭された。いろいろな人間が「ああしなさい、こうしなさい」とぼくに訴えかけてくる。それでも何もしなかった。行動を起こさないぼくを見かねて、多くの人間が去っていった。
ぼくはすべてから逃げたかった。
三流大学に落ちたことがわかったとき、親は働きなさいといった。ぼくには働く気力もなかったし、このまま家族と暮らしていくのも嫌だった。なにより家族がぼくを遠ざけたいと思っているのがわかった。
「俺、一年浪人して東京の大学に行くわ。東京に出て、一人で働きながら一年勉強して、どこかの大学に入るわ。」
どうしたいか聞かれたとき、口から出まかせがでたようにそう言った。親や姉は何も言わずに、そう。がんばりなさい。とそれだけを言った。彼らはほっとしただろう。なにを考えているかわからない暗い一人の青年をどう扱えばいいのかずっと苦労していたのだから。もう彼らは僕に何の関心も抱いていなかった。ただただどこかに行ってほしいと思っていた。
そしてぼくもすべてから解放されることを望んでいた。
東京に出て一年、二年、三年が過ぎた。相変わらずぼくはコンビニでバイトをしていた。勉強なんてしたくもなかった。参考書なんて一ページも開いていなかった。
ぼくも今年で二十二だ。
こんな生活がずっと続くことに、不安は感じていた。このまま年老いて、死んでいくことに恐怖はあった。それでも一歩踏み出そうとは思えなかった。
あの娘に会いたい。
ふと思った。考えるより、口をついて出てきた言葉。
古ぼけた店。乱雑に置かれた本の山。笑顔で話しかけてくる店員。
恋をしているとか、そういうわけではない。ただ。あの空間で、あの人と話がしたい。
明日またあの店に行こうかな。
震える唇で、そういった。
ぼくは小説が書けない じゅん @kiboutomirai
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