ぼくは小説が書けない
じゅん
「本が読めない」
春のあたたかな日差しがぼくをうるさく取り巻いている。
街は陽気な気分なのに、ぼくには空虚な騒がしさにしか思えなかった。そしてその意味のない騒音は、ますますぼくを憂鬱な気分へと導くのだった。
街になんて出るんじゃなかった…。
ため息が胸の奥からこみあげてきて、軽く息をついた。
動けばなんとかなると思っていた。気だるい、重たい気持ちから浮き上がってこれると信じていた。しかしそれは大いなる嘘というものだ。うわべだけ生活を変えてみても、ぼくの精神の底が変わるわけでもない。幻の中で夢見ていても、無意味なこの現実がどうなるわけでもない。
意識の海でおぼれているぼく。だれも助けてくれないし、だれも救ってくれない。もがけばもがくほどぼくの身体は海の底へ沈んでいく。本当の海でおぼれていたとしたら潔く死ねるのに、意識の海はぼくを殺してはくれない。死ぬような痛みを繰り返し与え続けながら、それでもぼくは生きるのだ!深海の底でぼくは一人、もがきつづけるほかはない。
自分がどこにいるのか、どこへ向かおうとしているのかも定かではない。
気がつけばぼくは古本屋の前に立っていた。
なにかを読みたいわけでもなかった。なにかを知りたいわけでもなかった。ただ行動すればすべてが変わるのではないかという妄想が、ぼくを意味のない現実へと駆り立てる。
なにげなくとった本は、堀辰雄の「風立ちぬ」だった。
ぼくには本のタイトルも、筆者名も、中に書かれている本文の内容もまったく頭に入ってこなかったし、知りたいとも思わなかった。そういう記号の羅列をぼくは軽蔑していた。
それでもぼくの目は一種の強迫観念に突き動かされながら、ただ本文の字面を追っている。
か、ぜ、た、ち、ぬ。い、ざ、い、き、め、や、も。
そこには言葉がなかった。線が幾重にもからみあって、ぼくを見上げているだけだった。そしてその奇怪な線の渦はますますぼくを奈落の底へと落とすように思われた。
ぼくはこういう自分の精神状態をどう評価してよいのかわからなかったし、そのためになにをすればいいのかも知らなかった。
絶望と呼ぶには恐ろしすぎる体験だった。
それでも、ぼくは読み進めなければならなかった。自分の頭の中は空白で満たされるばかりで、無価値で透明な情報がいくつも無造作に置かれているだけだった。なおいっそう悪いことに、その行為がぼくにそれ相応の苦痛を与えるということだった。それでもなにかをしなければ、ぼくはどうにかなりそうだったんだ。
わるくない、そう全然わるくないさ。苦痛だって快楽のようなものさ。
自分にそう言い聞かせながら、ぼくはひたすらにページをめくっていった。胸に痛みだけを積み重ねていくことが、いつか安らぎになることを信じて。
そのとき、奇怪な現象がぼくを捉えた。
文字が、文字が、落下していく。信じられないことだが、ひとりでにそれらは落ちていったのだ。
ぼくは確かに文字を目で追っていた。内容は理解できなくとも、読むことはできると思っていた。
しかし、文字を読もうとして絡み合った線の記号を見つめると、まるでそれらはぼくから姿を隠すように、下へ下へと紙の上から滑り落ちていった。
そんな馬鹿なことがあるか。
不意にそう叫びそうになって、慌ててぼくは口を抑えた。
その拍子に、本が手からすり抜け床に落ち、小さな音を立てた。
「落ちましたよ。」
目の前にいきなり女の子の姿が現れて、ぼくは驚いた。彼女は床に横たわっている本を手に取り、ぼくに渡した。
「大切に扱ってくださいね。」
彼女はそう言ってぼくに微笑んだ。ぼくも不自然に彼女に微笑み返した。
「ありがとう。」
ふと見ると、彼女はこの本屋に来た客ではないようだった。肩から腰にかけて黒いエプロンをしている。そのエプロンの胸の部分に「有田書店」と書かれている。もしかして…
「店員さんなんですか…」
おそるおそる聞いてみると、明るい声が返ってきた。
「そうです。ここで働いているんです。」
爽やかな笑顔を見ながら、自分は果たして人生でこんな顔になったことがあるだろうかと考えていた。
「本、好きなんですね。」
ずいぶん長い間人と雑談をしていなかったために、ぼくはそんなことしか言えなかった。
「大好きです。家のお父さんが本当に本が好きで好きで、こんな汚い古本屋を経営しちゃうくらい好きなんですよ。それで、わたしも子どもの頃からずっと本ばかり読んできました。そのせいで、勉強はあまりできないんですけど…。」
彼女が次から次へと話しかけてくるので、ぼくは少し目まいがした。頭の中にいくつもの言葉が流れ込んできて、すっかり身体が参ってしまったのかもしれない。なにしろ、こんなに人と話すなんて久しぶりだったのだ。他人の言葉がぼくの意識に入り込んで来るのにまだ慣れていない。
ぼくが少し怪訝そうな顔をしたので、彼女は慌てて言った。
「ごめんなさい。わたし、話し始めると止まらない性格で。見ず知らずの人でも関係ないことまで話してしまうんです。変ですよね…。」
「いえいえ、全然変じゃないですよ。あまり最近人と話していなかったもんで。ぼくもびっくりしただけですよ。」
彼女を傷つけないように、ぼくは精いっぱいのつくり笑いでフォローした。
彼女はほっと胸をなでおろしていた。
「あの、これ買ってもいいですか?」
少しの沈黙のあと、ぼくはその場をどうやり過ごしていいかわからなかったので、口早にそう言った。
「ほんとですか?ありがとうございます。最近全然お客さんいなくて…。今日だってあなたが一人目のお客さんなんですよ。」
ぼくは無造作に積まれた本の上にあるアンティークな古時計を見た。午後2時を指している。大丈夫なのか、この店…。
彼女は「風立ちぬ」と書かれた本を大事そうに抱えてトタトタとレジに急いだ。慣れない手つきでレジ機をいじくっている。ぼくは彼女の目の前で会計が終わるのを待っていた。
「あの、100円です。」
ぼくは財布からコインを一枚取り出して料金を払う。ありがとうございましたーという明るい声を背中に店を出た。
店を出てはじめて、自分が街の大通りから外れた裏路地にいることに気づいた。近くの大通りから聞こえてくる喧騒が、この裏通りの静けさをますます際立たせていた。
春風にコートの裾を遊ばれながら、街をあてどもなくさまよう。自分の頭の中を行き交う様々な思考が、ぼくの歩く動きに合わせて、慌ただしげに揺れる。
読めない本なんて買うつもりなかったんだけどな…。あの気まずい雰囲気を逃れるのに100円は安いか…。
ふと100円が惜しくなったような気がして、可笑しくなった。
コートのポケットの中にある「風立ちぬ」を手でまさぐりながら、ぼくは家路をたどった。
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