第2話
両親の仲が悪かった自分が主に入り浸っていたのは、祖母の家だった。何も遊ぶものがなくても折り紙やタケノコの掘り方を教えてくれる祖母は優しく、そして唯一信頼できる大人だった。学校は家庭に立ち入れないからいくら私が家に帰りたくないと泣いてもまごつくだけでやんわりと校門の外に追い出すだけだったし、公園で遊んでいても一人二人とその人数は減って行って、残るのは自分だけだった。そんな時も祖母は、迎えに来てくれた。帰ろうねえ。そう、自分の帰る場所は祖母の家で良かった。
しかしそれが奪われたのは小学五年の頃だった。突然の立ち退き要求、私有地だったはずの山も家も、すべてを奪われた。祖母の物とは似ても似つかぬ荒々しい字と三文判で作られた要求書は、今なら私文書偽造だと解る。だが老いた祖母は呆けた自分が何かやってしまったのかもしれないと、荷物を纏めてあの地獄のような私の実家に身を寄せるようになった。
そしてそれからは、祖母をなじる事で父母が共闘し始めた。私がどんなに祖母を庇っても、居候の身の肩の狭さに祖母は俯くだけだった。食事を摂る事も少なくなっていって、やがてある朝、ひっそりと祖父の写真を枕元に置いて儚く世を去った。父母は精進落としの席でげらげらと笑いながら祖母がいかに役立たずだったかを罵った。実際の祖母はおさんどんすべてを自分でこなし、共働きだった両親の為に温めれば食べられる料理を毎日用意していたほどだった。しかし両親はそれを生ごみに捨てるだけだった。こんな田舎臭いもん。
中学を出てすぐに私は上京し、とある専門学校に奨学金を使って入った。そうしながらアルバイトをして貯めた小銭で、探したのは祖母を騙した不動産屋だった。山菜やタケノコが取れる山はさぞ高く売れただろう。デスクライトで勉強をしながら、私はとある会社を見付けた。ここだ。持っていたのはよれよれの名刺で殆ど名前の字は読めなかったが、社名は読めた。
各務不動産の社長はやせぎすな身体の初老の老人で、にこにこと笑っている事が多い男だった。私の事も執事と言うよりは子供か孫のように扱ってくれたし、賃金もやっていることに比べると高い方だった。三十代のメイド一人と執事一人、そして各務夫妻。
「――それがこの屋敷に住んでいる人間のすべて、でよろしいんですね? 奥様。実は住み着いているたぬきが、とは無しですよ」
「ええ、ええありません。本当どうしてこんなことに、こんな、ああ、あなた」
私は各務清十郎の携帯端末を壊し、アルバイトをしていた船で習った固結びだが取り方次第ですぐに解ける結び方で、彼を縛り上げ納屋に隠した。食事も水分も与えていないが、一日程度で死にはすまい。
そして夫人が帰って来たところで差し出したのは、A4サイズのコピー紙に定規を使って書かれた脅迫状をみせたみせた。
『ケイサツヲ呼べば コロス 金額ヲ テイジシロ それ次第で 返ス』
しかし――
まさか警察ではなく探偵を呼ばれるとは思っていなかった、と、私は静かに大きくため息を吐いた。
二十代前半程度の年齢だろうか、眼が大きく緩い三つ編みを二つ垂らした女性は
「あの人達って本当に信用できるんでしょうか。いくら警察が駄目だからと言って、探偵なんて――如何わしいですよ、そんな人たち」
「これ、聞こえますよ。旦那様のお知り合いと言うのですから、信じるしかないでしょう。それにしても金額が書いていないのがネックですね。どうすれば旦那様を返してくれるのか、まったくわからない」
「ああ、それは存外簡単に済みそうですよ」
「え?」
見れば石岡嬢は私達の方を見て、にっこりと笑っていた。その隣にはいつの間にかコピー用紙――おそらくファックスから抜き取ったのだろう、脅迫状と同じA4サイズだ――を持った、御手洗氏が立っている。氏は私達に一枚ずつ、紙を渡してきた。メイドはきょとんとしながら反射的に手を出しそれを受け取る。私も受け取ったが、白紙だった。そして夫人にも。残った分をファックスに戻しに行く御手洗氏を半ば無視して、石岡嬢はふいに表情をなくす。
「これと同じ文言を、皆さん書いてみてください」
次に配られたのはやはりA4サイズの脅迫状のコピーだった。多分この執務室にある複合機でコピーしたのだろう。いつの間に。社長業は引退しているものの、交友関係の広い夫人と各務は、よく最新型のOA機器を使う。しかしあのややこしい物をあっさりと使い通すとは、御手洗氏は機械に強いのだろうか。どうでも良いことを考えながら、私は各務の机のペン立てにある何本かの定規の一つを取る。夫人とメイドも同じようにして、なんとなく背を向け合いながら、私達はその脅迫状の模写をした。
「終わったら、名前を書いてこちらに持って来てください。お預かりします」
「あの、筆跡……でしたかしら、そう言う物でしたら定規を使っている時点で意味は……」
「奥様、どうかこの『探偵』めをお信じ下さい」
「はあ――」
夫人も戸惑っているようだが、戸惑っているのはこっちもそうだ。何が解るというんだろう。しかし二度目とは言え、この定規を使った作業は面倒くさい。最小限の文言を使ったつもりだが、それでも疲れる。肩をぐりっと回して、私は名前を書いた。ここまでは定規を使わなくても構わないだろう。春日俊一。この名前を付けてくれたのも祖母だった。両親にとって私は、望まぬ子だったのだろう。だが気が付いた時にはもうどうにもならず、仕方なく産んだ。
嫌いな女の子。
嫌いな男の子。
唯一愛してくれたのは、祖母だけだった。
宿題も見てくれたし、ひらがなやカタカナや簡単な漢字と言ったものを教えてくれたのも。
紙を集めた石岡嬢は、ふむ、とそれをトランプのようにそれを広げてから、傍らに佇む御手洗氏にそれを渡す。
そして。
私の前に、歩いて来た。
冷や汗が、つぅっと背中を滑る。
「脅迫状を書いたのはあなたですね、執事の
「何を――何を根拠にそんなことをおっしゃるので? 石岡様」
「根拠は字です」
各務の大きな机に三枚の脅迫状を並べる石岡嬢は、ペン立ての中から赤色を選ぶ。
「メイドの
「あ――いいえ、すみません、手癖でつい」
「いえ、謝る事ではありませんよ。そして奥様も、『そ』を一画でお書きなさる」
「お恥ずかしながら、書道教室でそちらの方が良いと教えられまして。それに若い方は、旧字を見ると首を傾げなさいますので」
「念のため教室には問い合わせをさせて頂きますが、どうかお気を悪くなされませんよう。さて春日さん」
シャツが汗でべっとりと、肌に張り付く。
「あなただけが正確に、二画の『そ』を書いたんです。年代として奥様は旧字、松崎さんは新しい字で習う。あなたの世代は新しい字のはずだ。そこが動機に繋がって来ることでもありますね。あなたはなぜ、この家の執事になったんです?」
「私は――」
「それはおそらく、私の所為でしょう」
響いたのは、各務清十郎の声だった。
ドアの方を見れば薄汚れたスーツ姿の各務が、悲しそうな目で私を見ている。
ドアを閉じたのは、いつの間にか場を離れていた御手洗氏だった。
「あなた! 清十郎さん、ああ、よく無事で!」
着物の裾を乱しながらその胸に飛び込む夫人は、涙を流していた。驚いたのはメイドの方で、ぽかん、と口を開けている。どうして。
二人であんなに解りにくい所に、押し込んだのに。
「納屋の中で見つかりました。一人での犯行は不可能でしょう。貴方達二人が結託したんですねーー松崎さん、春日さん」
「だ、旦那様がいなくなった時、私は家事をしていました! 私は関係ありません!」
「別に警察に通報なんてしませんよ、私はただの『探偵』ですから。大体、各務さんがいなくなった正確な時間は判明していない筈でしたね? 奥様」
「は、はい、私が書道教室に向かう時は車で送ってくれて、それからは何も――」
「残念な事に私達の仲間にはちょっと人の動きに詳しい人間がいまして。昨今の携帯端末には行方不明防止用のGPSが仕込まれていることが多いんです。その最後の消失点さえ解れば、旦那様がどこにいらっしゃるのかも解る―― 一応車を手配いたしましたので、旦那様は病院で検査を受けて下さい。でもその前に。『私の所為』とは?」
金に釣られた松崎は顔を隠す。私も眼を閉じた。
「少し田舎の方にある支社で、私文書偽造で社員が逮捕されたことがあるのです。おそらくは、その為でしょう。風光明媚な村で、私たち夫婦もこぞって訊ねたものです。そこで聞いたのが、不動産屋の話でした。家を追われた老婆は息子の家でも冷遇されたと。それまで元気に畑仕事や山菜取りに出掛けていたのに、どんどん弱っていくのが見ていられなかったと――」
「本当に、見ていられませんでしたよ。祖母の憔悴していく様は」
吐き捨てるように言うと、各務は悲し気に『申し訳ない』と呟いた。それは祖母にこそ、向けてほしい言葉だった。
「――でも春日さん、復讐する相手を間違ってはいないかしら」
石岡嬢が私に視線を向けた。
小柄な少女めいた童顔なのに、なぜか射竦められる。
「あなたのお祖母さんを追い遣ったのはあくまで支社の人間だ。もっと言うとその支社の中のたった一人だ。本社の社長が何でも把握していると思ったのなら、それは間違いですよ。同情は出来ますが、あなたのしたことは犯罪だ。法で裁かれるべき、ね」
「あ、あたしは違うっ違います!」
「百三十万円」
「ッ」
「今月頭に松崎さんの口座に振り込まれていた額です。ATMを使ったのか誰からかは解らない。まあ言及はしませんよ、この事件には関係ないことですから」
「な、んでそんなッ」
「『何でも』利用できるのが、『探偵』の唯一無二の武器ですよ」
にっこりと、石岡嬢は無邪気さすらたたえて笑う。
「春日君」
各務に呼ばれ、私はハッとなってその顔を見る。
「本当に済まなかったと思っている。君の事は知っていたんだ。執事学校からの紹介状で、あの村の出身であることも、あの事件の関係者であることも。せめて誠実に接してきたつもりだったが、それでは君は鎮まらなかったようだ。教えてほしい、どうすれば私は子供の君に、許してもらえるだろう」
私は――
「私の……父になってください」
「春日君」
「私の、母になってください」
「春日さん」
「私の――家族に――私は――僕は――」
土臭いジャケットに抱き締められて、私はその肩に涙を染み込ませた。
※
「はい、メイドの方は流石に居辛くなったのか、紹介状を書いてもらって別のお屋敷で働くそうです。執事はそのまま。遺言状で土地屋敷は執事が継ぐことになりそうです。でも本当に警察沙汰にしなくて良かったんですか? ……まあ依頼人がそう仰るなら仕方ないですね。優しいって言うのか甘いって言うのか。ああ、その村ですけど、今はダムの底だそうです。本当に帰る場所がなくなっちゃってたんですね、執事さん。メイドも同じ村の出身で、再会したのは単なる偶然だと思います。え? 何でですか? ダム穴? 写真? ちょ、待ってくださいよ『社長』! ――切れやがった……」
「どうした、『ジェーン』」
「ダムになってる村ならダム穴? の動画取って来てよこせって……」
「あーあれか、水出す時に見える水の穴みたいなの。ほれ、携帯端末で探せば出る」
「うわこわっ。私今回結構喋ったから、そのダム穴はあんたに頼むわよ、『ロビン』」
「まじか。また二人で行って布団一組しか敷かれないのは嫌だぜ」
「こっちの台詞よ」
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