クリムゾンは貴女の為に

ぜろ

第1話

 ぜー、ぜーと呼吸が上がる。大した運動もしていないのに、緊張だけで人はここまで呼吸を荒くできるものなのかと思った。ぴくっ、ぴくっと動いている指を見下ろしながら、私はもう一度その頭にクリスタルの灰皿をぶつける。完全に動かなくなったのを確認して、良かったようなどうしようもないことをしてしまったような気分になった。


 末次すえつぐと再会したのは、大学の同級生とスキー旅行で友人三人と遊びに来ていたコテージでだった。食事の時に顔合わせがあって、私を見付けた時のあの男のにたりとした笑いと言ったら醜悪で思い出したくもないほどだ。

 十歳年上のこの男と付き合っていたのは高校生の頃だ。あの頃は大人の男の人が頼もしく思えて、同世代よりも魅力的に見えたからだ。何より同級生なんてお金も持ってないから、遊びに行ける場所も限られていたし、二・三時間も遊んでいればすぐに財布の中身は無くなっていた。それは私をしらけさせた。でもバイトを始めた今なら、お金を稼ぐ苦労も解っている。理不尽な客やクレームだって、何度も出会ってきた。そうして貯めたお金で、初めての旅行だったって言うのに、なんだってこの男とこんなところで出会ってしまったのか。にやにや私を見る視線に気づいた女友達が、何アレ、と耳打ちしてくれたけれど、ふるふる頭を振って返すのが限界だった。シチューも喉を通らない。


 客は私達四人と、末次は一人らしい。それとカップルなのか童顔でぱっちりとした眼をした、ゆるい三つ編みを二つぶら下げた女の子と、スキーヤー用の眼鏡みたいなサングラスを掛けたちょっと髪の色が薄めの男の人だった。それにコテージのおかみさんと旦那さん、臨時アルバイトと思しき女子高生ぐらいの女の子。結構な大所帯なのに、おかみさんが細かく話題を回してくれたから、食事が終わるころにはみんな打ち解けた雰囲気になっていた。私をじろじろ見る、末次の視線以外は。

 なんだってこんな男に処女をささげたんだろうってぐらい、末次は嫌な男だった。最初は紳士然として食事に行けば全部お金を払ってくれたし、遊園地なんかの定番デートでも飽きずに付き合ってくれた。この人は良い大人なんだと、誘われるままホテルに入って――彼が取り出したのはロープと、ビデオカメラだった。


 両手を縛られ口はガムテープでふさがれ、窒息しそうになりながら私はこの男にレイプされた。その後も何度もビデオをちらつかせてはホテルに連れ込まれた。金銭の要求をされることはなかったけれど、その方が良いぐらいの地獄だった。やがて私が制服を脱ぐ段階になると、『女子高生の彼女』と言うレッテルがなくなった所為か、連絡は来なくなった。その間に大学近くの寮に引っ越し、電話番号もメールアドレスも変えたしフェイスブックも消した。周りは私が突然逃避行めいた事を少しいぶかったけれど、大人になるんだから身辺整理してるだけだよ、と言う言葉で誤魔化せた。縄の痕を隠して過ごす日々も終わり、私はこの一年間幸せに暮らしてきた。末次の事なんか思い出すことすらせず。

 ――なのになんで今更、こいつが出て来るのよ。


「いやあ大学生なんだって? おじさんには眩しいねえー」


 にたにた笑いながら暖炉前で談笑していた私達の方に割り込むように、入って来た。ええそうなんですよと男子の一人が何も知らずににっこり笑って答える。


「みんなでバイトしてスキー用のグッズ買って、明日が初滑りなんです。この子が東北出身で」


 指さされるのは私。


「色々教えてくれたんですよ、貧乏用の滑り方。ワックスなんて高いのは買わなくて良い、蝋燭の蝋で十分だ、とか」

「へぇぇ、東北出身なの。どこ?」

「……岩手です」


 付き合ってるときは訊いてきたこともないくせに。私は無理やり笑顔を作って、ちょっと、と立ち上がった。化粧室に行って冷や汗を拭き取ろう、そんな私の後ろを末次は追い掛けるように男性トイレに向かう。


「おい、今日俺の部屋に来いよ」

「……嫌です。あなたとはもう何の関係もありません」

「冷たい子と言うねぇ雪国の女は。これがネットに晒されても良いわけ?」


 見せられた携帯端末には、行為中の写真が映し出されていた。


「ッ!!」

「顔も隠してないどころかピースサインで、ほんっと若い子のバカなとこって堪んねーよな。でも女子大生の彼女ってのも悪くない。化粧も覚えて、向こうも十分に発達してんだろ? な?」


 セーターの上から胸をがしっと掴まれて、ヒッと思わず声が出る。


「三〇七号室だ。日付が変わるまでは待っててやる。その後は――解るな? 全世界に御開帳だ」


 くっくっくと笑って、末次はトイレに消えて行った。

 と、その時女子トイレのドアが開く。

 カップルの、女の子の方だった。


「あれ、ごめんなさい待たせちゃってたんですね。失礼しますっと」

「いえ、大丈夫です」

「顔色悪いみたいですけど、痛み止めか整腸剤貰ってきましょうか?」


 くりっとした眼にのぞき込まれて、その気遣いと大きな目とぱっちりしたまつ毛になんだかお人形さんみたいだな、なんて思う。そうすると人間を相手にしている感じじゃなくなって、自然に笑えた。


「ありがとうございます。えっと、」

「あ、そう言えば自己紹介まだでしたね。でも皆さん居る場所の方が良いかな?」

「ですね。私も用済ませたらリビングに戻りますし」

「じゃあその時にでも、相方と」


 相方。カップルの言い回しかな? と、私はちょっときょとんとする。私の横をすり抜けていく彼女は、とてぱたとしていて、学生みたいだった。でも多分年上だろう。なんとなく、その気の使いようから社会経験を推測して思う。

 冷や汗でべとべとだった前髪の生え際を脂取り紙で拭いてからルーセントパウダーをブラシで軽く付ける。よれたチークも簡単に直してダイニングに行くと、末次はいなかった。代わりにみんなが、カップル二人と談笑している。


「あ、沙也加お帰りー」


 香田沙也加こうだ・さやかは私の名前だ。


「じゃあ改めて、私は火村焔ひむら・ほむら、二十六歳だよ」

「ぜんっぜん見えないよね。下手すると年下に見えるよね」

「それは……えーと」

江上伸二えがみ・しんじ。二十九歳」


 サングラスの方はそう言って、ソファーにもたれ掛かる。


「江上さんってクレー射撃の選手なんだって。で、スポーツ全般大好きだから、道具の貸し出しもあるこのコテージに来たんだってさ」

「ちくしょー貸し出しがあると知ってたらなー、あんなに頑張ってバイトしなかったのになー」

「でも自分のがあるって結構いい物ですよ。貸し出しだと丈が合わなかったりしますし」


 スキー板の適正な長さは大体身長ぐらい、と言われている。


「明日は初心者コースでがしがし滑るぞー! そんで教える方に回ってやる」

「残念、沙也加で間に合ってますー」

「俺も教わるなら女の子の方が良い」

「俺を置いて行くなよ!」

「あははははっ、本当仲良しさんなんですねえ」


 火村さんの声で、もっちろん、と答える三人に、私は何となく答えられなかった。



 灰皿で殴られた末次は、もうピクリともしない。どうするか。念のためにつけていたスキー用のグローブは、暖炉にでも捨ててしまおう。そして忘れてしまったことにして、貸し出しを借りればいい。この部屋に来て私が触ったもの。ないはずだ。ドアもノックして自分で開けさせたし、それからあの写真を見せられるまで何にも触らないように気を付けた。私はたぶん最初からこの男を殺す気で来たんだろう。だからグローブも持ってきた。後ろを向いて携帯端末をいじるその俯いた頭に一発。スマホを殴り壊して二発。まだ生きていたから三発――殺意は、あった。否認出来ない。

 あの頃を一番に覚えている男が生きているのが怖かったし、リベンジポルノでネットに写真を流されるのも怖かった。だから携帯端末は壊した。きょろ、と辺りを見回すと、ノート型のPCもあるようだったから、それもベッドに置いて灰皿で叩き壊した。あとは。ないのを確認して、汗がびっしり浮かんでいる前髪の生え際を手袋で拭う。

 これで良い。こいつが私以外にも女の子の写真を撮って脅していないとも限らないんだから、これで良かったはずだ。むしろ私は良いことをしたんだ。ふ、ふへへ、と笑い声が出そうになって、それから死体を見る。何の感情も浮かない。でも解るのは、あの頃より太ったな、と言う事だ。大方何か悪事でも働いて良いもの食ったおかげだろう。唾を吐きかけてやりたくなったけれど、それじゃあDNAが出る。そのぐらいはサスペンスドラマで知っている。だから私は灰皿を置き、手袋を脱いでハンカチを出し、そっと夜半の廊下を歩く。ダイニングも明かりは落ちていたけれど、暖炉は点いたままだった。多分このまま灰になるまで燃やすつもりなんだろう、私はその中に手袋を入れる。化学繊維はよく燃えた。跡形残さず消えるのを見届けようとすると不意にゾッとしたものが走る。


 後ろを振り向く。

 サングラスを外した江上さんだった。

 その目付きはサングラスの鋭さに比べて、随分人懐っこい。


「冷えたのかい?」

「は、はい、ちょっと」

「おがくずを足すと良い。それから薪を一本ぐらい。灰になるころには温まってるだろう」

「あの、何してたんですか? こんな夜中に」

「ちょいと花摘みに」


 お手洗いらしかった。

 しかし端正な顔立ちしてる男の人に『花摘みに』、と言われるとちょっと笑えてしまった。

 ふっと笑った江上さんは、部屋の方へ消えて行った。



 翌朝は九時を回っても起きてこない末次の部屋を見に行ったおかみさんが第一発見者になった。雪の中やってきた警察の鑑識にちょっと怯えていると、同じ屋根の下で殺人事件があったことに友達はみんな震えている。火村さんと江上さんは、捜査関係者の中でも随分若い、ただし態度は一番大きい男の人を捕まえて何事か話しているようだった。まさかトイレの前での会話ほ聞かれていたのだろうか。手袋を燃やしていたのが知れたのだろうか。心臓がどきどきする。前髪の生え際に、汗が浮いた。と、そこでやっと自分の爪が折れているのに気付く。

 生爪を伸ばしていたのだけど、全然気づかなかった。欠片は何処に行ったんだろう、と思っている間に、あれ、と火村さんが私の手を取る。


「爪折れちゃってるね、何なら補修してあげようか?」


 火村さんの爪はフレンチネイルにアートされていて、清潔そうなイメージだった。

 お願いします、と言うとにこっと彼女は笑い、自分の部屋から持ってきたポーチからグルーを出した。一滴ぽとりと落として爪楊枝で整えて、あっと言う間に整えてしまう。右の爪だったから、左手でこうも綺麗には出来ないだろう。ありがとうございます、と言うと同時に、私にもたれ掛かっていた女友達が顔を上げる。


「こんな時にそんなことしてる場合じゃないでしょう!? なんだって火村さんそんなに落ち着いてるの、江上さんも! もしかして二人で犯人なんじゃないの!?」

「うーん、調べて貰っても良いけど全然被害者とは接点がないんだなあ。下の名前すら知らないし。ついでに動機もないし?」

「それはっ」

「それは俺達だって同じですよ! なんだってせっかくの旅行で、こんなことに」


 それは本当に、申し訳ないと思ってる。

 グルーのきつい匂いで頭をぼうっとさせながら、私はぽてんっと隣に座って来た火村さんを見た。その眼はちょっと虚ろで、よく眠れなかったのかな、と思う。そんな私達に、コーヒーを持ってきてくれたのはバイトの女の子だった。心なしか昨日よりその表情が明るく見えるのは、気のせいだろうか。まさか彼女も?


諏佐すさ警視! 出ました!」


 びくっと身体を震わせる私達と、何の反応もない火村さんと江上さん。江上さんはまたサングラスに戻ってて、何のための保護なのか、室内ではよく解らなかった。昨日は夜だったから外していただけ? それにしても、表情が、見えない。彼と私達と、どっちの方が見えないものが多いんだろう。二十九歳、あまり年齢を感じない。


 鑑識班の繋ぎを来た人が小さな袋に入れて持ってきたのは、小さ過ぎて何だか解らなかった。指紋は残してない。何も証拠なんて残していなかったはずなのに、何が出たって言うんだろう。うむ、と頷いた警視――諏佐警視は、眼で火村さんを見たようだった。こくんっと頷いた火村さんは、また化粧ポーチをあさる。

 次に出て来たのは、除光液のボトルに似ていたけれど、違う液体の入ったガラスの小瓶だった


「ちょっとごめんね」


 整えられた爪がまた欠けて行く。グルーを溶かす溶剤らしいそれに、また汗が浮かび上がった。どこで折れた、この爪は。どこに落ちた、この爪は?


「諏佐警視」

「はい」

「どーも」


 小さな袋に入ってるのは――小さなその欠片は――


 ぴったりと、私の爪の折れ目にくっ付いた。


「被害者の部屋で採取された爪の欠片だ。下手にDNA鑑定の回すのも面倒だからね、こう言う事をさてもらった。末次牧夫まきおを殺したのは、君だね?」

「あ――」

「違うんです!」


 聞こえて来たのはバイトの子の声だった。


「あいつ、あの男、女子高生が好きで必ず彼女は女子高生にしててッいやらしい写真もいっぱい持ってて! 私も撮られて、ずっと脅されてたんです! 多分きっと、その人も」


 彼女にも手を出していたのかあの男。

 ちっとも罪悪感が湧かない。


「そう言う輩は自宅のマシンにもデータを入れてある可能性がある。それを探すことになるが、良いのかね、君達は」

「いやあああああああ!」


 バイトの子が叫ぶ。私だって絶叫したい気分だった。だけど私の腕を掴んでいた女友達が、ぱちんっと軽く私の頬を打つ。


「なんでそんな大事なこと隠してたの! リベンジポルノって言って警察にだって頼れたのに!」

「ごめん」

「なんで沙也加が人殺しにならなきゃなんないのよぉ、そんなのってないよぉ!」


 わあわあ泣き出した友達から離れて、私は両手を警視さんに差し出した。

 彼は特に何の感慨もなく、私の手首に手錠をかける。


「それにしても、名探偵だね、火村さん」

「そうでもないよ。あなたが手袋燃やしてるのを江上が見てなかったら私も糸口には辿り着けなかったろうし。ただ、携帯端末とPCで何かまずい情報が入っていると思ったのは事実だったけれどね。そこのバイトちゃんも」

「、?」

「男を見る目は養った方が良い。ありゃ最悪の部類だよ」


 吐き捨てるように言った火村さんに、江上さんは何も言わなかった。


「せめて女性警官にやらせてくださいね、諏佐警視」

「約束しよう。白雪を踏みにじるようなことはしないと」


 玄関においてある自分のスキー道具だけが、空しく見えた。゜



「はい、昔の女に撲殺されました。PCも壊されて復旧はたぶん不可能なので、警察より早く自宅のPCを運び出した方が良いと思います。新しいPCを繋げて、回収した方はデータを確認してからフォーマットして。しかし宇都宮コンツェルンの社員ともあろうものが、情報の切り売りなんて、なんと言うか……業界最大手の意味、知ってるんですかね。ああ『ロビン』は今回何もしてないんで。はい。ボーナス無しと」

「おい『ジェーン』!」

「残念。もう通話は切れました。二・三日本気でスキー頑張って来いってさ。まったく、悪趣味な馬鹿の始末も大変だ」

「もうちょっと早かったら俺が撃ち殺してたんだがなあ」

「運の悪い子よねぇ。香田沙也加、一応検索できるよう頼んでおきましょ」

「そうだな」

「所でのサングラス、笑えるぐらい似合わないんだけど」

「雪で目ぇ痛めたことがあるんだよ」

「あらま。そりゃ面倒くさいわね」

「室内ならいいけど迂闊に暖炉も見れないからな……」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る