第154話 人でなしと復讐者5

「……ああ、ほんと気に入らない」


 憎々しげな声を喋りながら、里見夏穂はゆっくりとこちらに歩を進めていく。


 彼女は――相変わらず満身創痍だ。自身の身体に溶けている怪異を分離させられかけ、そのうえつい先ほどまで殺されて続けていたのだ。その状態を見る限り、立って歩けているのがなにか間違っているとしか思えない。


 だが――

 相手は殺し続けても死ななかった存在だ。


 少女の姿をしているからといって、その本質が少女とは限らない。目の前にいる少女に見える存在は――自分と同じく道理を――人の道を外した存在である。


 夏穂がこの場に現れて――ただでさえ冷えている廊下がさらに冷えた気がした。


「……なにを見た?」

「知らない。どっかの馬鹿が人の道を踏み外すところよ」


 夏穂が発した声は、その冷たさによって耳の中が焼けてしまうのではないかと思うほどだった。


 彼女がなにを見たのか? それは――丈司にも理解できた。


 殺され続けていたこの娘が見たものは――丈司の過去だ。自分が道を踏み外すきっかけとなった出来事――里見夏穂は殺され続けている間にそれを垣間見たのだろう。


 ぴちゃ、ぴちゃ、ぴちゃ。


 水っぽい『なにか』が這いずるような音が聞こえてくる。その音が――丈司に計り知れない脅威を感じさせた。


 しかし――


 丈司の目の前にいるのは制服を着た満身創痍の少女だけだ。禍々しい異界に化物でもなんでもない。一般的な視野から見れば、年相応の可愛らしい少女だ。


 丈司は無意識的に半歩だけ後ろの後ずさる。


 ――なにを恐れている。丈司は自分にそう言い聞かせた。相手は先ほど倒したばかりの相手だ。なのにどうして自分はここまで脅威を感じている? 同じように倒せば――問題あるまい。


 同じように? そこで丈司は疑問を抱いた。


 死に続ける――という考えうる限り最悪の責め苦から起き上がってきたあの娘に――さっきと『同じように』が通用するのだろうか?


 あれは――里見夏穂という道理を外れた存在を一時的に封じ込めるために行き着いた手段だ。最後の解決策だったと言ってもいい。


 それを破られてもなお――『同じように』倒すことができるとは思えない。


 だけど――


 彼女が敵として再び自分の前に現れてしまった以上、以前行った手段を凌駕する手立てを持って、あの娘を打ち倒さなければならない。でなければ――やられるのは自分だ。


 復讐にすべてを費やしてきた丈司に『生きる』ことに執着はしていない。


 だが――

 復讐という目的を達するためには――死んでしまうわけにはいかない。最大の敵として立ちはだかった――彼女を凌駕しなければ、丈司の目的は達成できないだろう。


 ならば――

 全身全霊を持って、夏穂を倒すしかない。


「……問おう」


 空気すらも凍てつかせる冷たい暗黒をその身から発散させながら近づいてくる少女に丈司は問うた。


「きみは――他人を背負える余裕などなかったはずだ。それなのになぜ、そこまでして白井命のために戦う?」

「別にいいでしょそんなの。私だってそう思うことがあるってだけよ」


 夏穂は感情を感じさせない、どこまでも人らしさを欠いた声で言う。


「あの娘は私にできないことをやっている。自分ができないことができる人って、尊いと思うでしょう? ただそれだけのこと」

「……きみがそこまでして戦う理由とは思えないな」

「他人の戦う理由なんてそんなものでしょう。それともなに? あなたみたいに失った『なにか』のために戦ったりするほうが高尚だとでもいうのかしら?」


 夏穂は冷たく、そして優雅に丈司を挑発する。


「挑発をしているつもりかね?」

「さあ、知らない。そんなのどうでもいいし」


 夏穂がこちらに一歩近づいてくるたびに、周囲の温度が下がっているように感じられた。どうして――彼女はあそこまで冷気を放っているように思えるのだろう。そんな疑問を持ったとき――

 彼女があそこまで冷たさを放つ原因を知った。


 怒りだ。


 里見夏穂は怒っている。周囲に影響に及ぼすほど、強く。

 人らしさを失った彼女に残されているわずかな感情が『怒り』であることは丈司も理解していた。


 だが――

 あそこまでの怒りを放てるほど、夏穂には人らしさなど残っていないはずだ。

 殺され続けた程度で――失った『なにか』を取り戻せたとは思えない。


 いや――

 殺され続けたことで――なにかを得たのだろうか? 本来であれば絶対に得られることのない『なにか』を――彼女は得たのだろうか?


 ぞわり、と背中に嫌な感触が這いずった。

 このような感覚を味わったのはいつぶりのことだろう。少なくとも――二十年は感じた覚えがない。


「もう一つ問おう。きみが私に反抗する理由は他にあるのかね?」

「ある」


 夏穂は丈司の問いに間髪入れずに即答した。


「私さ、てっきりあんたも私と同じように人であることを辞めざるを得なかったって思っていたの。そうでなければ、私の暗黒に触れて大丈夫なわけないしさ。


「なのに――

 あんたは人であることを辞めざるを得なかったんじゃない。人でいられたはずなのに、人であることを辞めてしまった。私はそれが堪らなく気に入らない。私は、人であることを辞めたいなんて思ったことないのに――人でいられたやつが、それを簡単に捨てられるなんて不条理でしょう?


「あんたは――人であることを辞めているくせに、結局どこまでも人間なのよ。私はそれが気に入らない。殺してやりたいと思うほどに」

「…………」


 丈司は――夏穂の言葉になにも返せなかった。


 だが――確かに、と頷けるのも事実である。

 復讐という行為は――どこまでも人間らしいものだ。それに取り憑かれて、それ以外すべて捨てていたのだとしても――だ。


 里見夏穂という人でなしになるしかなかった少女は――それすらもできなくなった存在だ。


 なら――

 人を辞めた気になって、どこまでも人間のままでいる丈司はたまらなく不愉快に見えるだろう。


 夏穂との距離はもう五メートルほどになっていた。双方とも、いつでも攻撃に転じられる距離だ。


 しかし――


「最後に問おう」

「……なに? まだなにかあるの?」


 夏穂は足を止め、どこか幼さが感じられる動作で首を傾げた。


「きみの大切な友人である――白井命を襲った悲劇が、誰かによって引き起こされたものであったとしたらどうする?」

「…………」


 夏穂は――答えない。無言で、こちらに対し「続けろ」という意思を示している。


「一年半前――白井命を襲った『選別現象』は人為的に呼び込まれたものだ。私が復讐をしようとしている相手は、それを引き起こした者たちだ。それでもきみは阻むのかね?」


 丈司の言葉を聞き、夏穂は一瞬驚いたような顔を見せて――


「そんなの――決まってるでしょ」


 目の前にいたはずの少女が、どろりと溶けて消えたと思ったら、自分の懐まで潜り込んでいて――


 真っ黒に染まった右腕で丈司の胸を貫き――引きずり出した心臓をその細腕で――握り潰した。


「……っ」

「これが答え。充分かしら」


 そう言って夏穂は優雅な動作で丈司の胸から細腕を引き抜く。その腕は――暗黒と丈司の血液が混ざり合ってとても禍々しく見えた。


 腕を引き抜かれた丈司は、そのまま膝をついて崩れ落ちた。世界が暗黒に染まって遠のいていく。自分が終わることはもう明らかであった。


「私はあんたのその在り方が気に食わない。命を襲った『選別現象』が、あんたが復讐したい相手が引き起こしたのだとしてもね」


 気に食わない、か。実にわかりやすく立派な答えだ。

 復讐を達せられなかったのは残念だが――不思議と晴れやかな気持ちになっていた。


 私は――これで二十五年費やした妄執から解放されるのか。

 結局、宮本丈司という存在は――なにも成し遂げられない運命からは逃れられなかったのだろう。

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