第155話 人でなしと復讐者6

 里見夏穂は自分の足もとに転がったまま動かなくなった男に目を向けた。


 どうやら――死んでいるらしい。心臓を抉り出されて、握り潰されたのだから、死ぬのは当たり前なのだが――どこか現実味が感じられなかった。


 それに――


 はじめて人を殺したというのに、なんの感慨もない。夏穂の中にあるのは、いつも通りの無関心だけだ。人を殺したときって、もっとなにかあるのかと思っていたが、どうやらそうでもないらしい


 そういえば――


 こうやって自分が直接に殺したのははじめてだ。何人も死んだも同然の状態にしてきたが――いままで直接的に殺したことは一度もなかった。意外といえば意外である。そんなに宮本のことが憎たらしかったのだろうか?


『そりゃそうさ。あの男はお前が失うしかなかったものを自分で捨てたんだ。殺したくなるほどイラつくのは当然だよ』


 性別も年齢も判然としないオーエンの声が響いた。

 イラつくのは当然――か。そう言われても、夏穂にはよくわからなかった。


「でも意外ね。私、誰かに対してそんなに怒れるほど人らしさなんて残っていなかったと思っていたのだけど」


 いまの夏穂に残っている人らしさは、残りかすのようなものだ。それは自分でも理解している。夏穂は――自分のことにすら関心が持てないほど余裕がない。


 それなのに――

 自分の前に敵として立ちはだかった宮本丈司という男に――心から殺してやりたい思うほどの激情を抱いた。その理由が――まったくわからない。


『お前も変わったんじゃねえの? 命のことを背負ってやってるうちに』

「……そういうもんかしらね」


 夏穂は自分の手に目を向ける。


 そこにはまだ心臓を潰したときの感触が生々しく残っていた。暗黒に染まっていた腕は、もとの病的に白い肌に戻っている。どう見ても、素手で人間の身体を貫き、心臓を握り潰せるとは思えない弱々しい細腕だった。


 それから――倒れている宮本に視線を向ける。

 間違いなく死んでいるようだ。動き出す気配はない。あれだけ人ならざる存在だったというのに、彼は呆気なく自分に殺されてしまった。


 しかし――

 死なんて大抵は呆気なく訪れるものなんだろう。劇的に死を迎えられたのなら、それは間違いなく幸せだ。その幸せは多くの者には訪れない。それはきっと、夏穂も例外ではないはずだ。


 復讐に囚われていたこの男に同情なんてまったくできないけれど――そうしたくなる気持ちはなんとなく理解できた。


 自分も――命を理不尽に奪われていたら、そう思っていたかもしれないのだから。


 だから――この哀れな男を笑えるはずもない。


「……ねえ。一つ気になっているのだけど」

『なんだ改まって』

「この死体、どうしたらいいのかなって」


 夏穂が殺したかどうかが露見するか否かはともかくとして――この死体をこのままここに放置しておくのはまずいというのは事実である。


 まだ、校舎にはそれなりに人が残っているだろう。ここに死体が放置されていたら、遅くとも一時間以内には誰かしらによって発見されてしまうはずだ。


『俺に訊いてどうする。お前がなんとかしろよ。お前がやったんだし』

「なんとかしろって言われてても、ねえ……死体の処理なんてできないし……どうしたらいいのかしら」


 きっと、自分に関わった挙げ句、自分を殺した者たちもこんなことを考えていたのだろうか? そんなことを思った。はっきり言って、どうでもいいけれど。


 だけど――


 このまま放置していてもいいのではないかと思う。警察も、女子高生が大人の男の身体を素手で貫いて、心臓を握り潰したとは思うまい。下手に小細工するより、このまま放置していたほうが変な疑いをかけられないような気がする。運のいいことに、この瞬間を他の誰かに見られていないし。


 そのとき――

 死して動かなくなっていたはずの宮本の死体が、爆発的に質量が増した――ように見えた。


『……まずいな』


 空見した瞬間、オーエンが少しだけ深刻そうな声を響かせた。


「どうしたの?」

『あいつ、どんだけのモンを抱えていたんだ。シャレにならねえぞ』

「だからどうしたのよ」


 もう決して動かないはずの宮本の死体がぴくぴくと痙攣している。動く死体となって蘇った――わけではなさそうだ。痙攣しているのは、もっと別のものが原因に思える。


『このままあいつを放置しておく、あいつの死体から、あいつが抱えていた怪異が溢れ出す。そうなったら――』


 オーエンが声を響かせている間も、宮本の身体は痙攣を続けている。その痙攣は激しさを増し、明らかに異常な状態だった。


『恐らく、「選別現象」に匹敵する災厄がここで起こる』

「……マジ?」

『マジだ。ここでお前に嘘を言ってどうする』


 宮本の死体は、壊れたおもちゃのように激しく痙攣し、あまりにも激しい痙攣によって身体がねじくれて、血を噴き出し、骨が砕け、内臓が潰れる音を響かせながら、おかしなオブジェへと変貌していく。


『選別現象』に匹敵する災厄がここで起こる――オーエンが言った言葉は、夏穂を珍しく驚かせた。


 そんなものがここで起こったら――いまこの瞬間、この学園にいるほとんどが死に絶えるだろう。かつて、自分の家族に襲いかかったような出来事が――ここで起こってしまう。原型を残さないほど身体を融かされ、絶命する瞬間に上げた悲鳴だけが残響し続けるあの地獄がこの場所に発生する。


 そうなったら――


 ねじくれ続ける宮本の身体は、もはやもはやそれが人間のものだったのかどうかもわからないほど変形していた。時間はあまり残されていないのは明らかである。


 この学園にいる多くの人間は夏穂には関係ない存在だ。そいつらがどうなろうが、知ったことではない。


 だけど――

 もし――『選別現象』のようなものがここで起これば――命が巻き込まれるのは確実だ。あの娘に――二度もあの災厄を浴びせたくない。


「一つ訊きたいことがあるんだけど」

『……なんだ』

「あんた、あれ食べれる?」


 夏穂はねじくれた肉塊と化した宮本の死体を指さした。


『食える――が、食ってお前がどうなるかはわからんぞ』


「別にいいわよ。どうなっても。

 というか、あんたも腹減ってるでしょ。たくさん食べたいんじゃないの?」

『まあ、腹が減ってるのは事実だが――うまいのかあれ?』


 ねじくれた宮本の死体からちょろちょろと蛇が出現した。自分にかみつき、窮地に追い込んだものとはまた別の種類のようである。溢れ出すのも――時間の問題か。


「知らない。見た目の悪いゲテモノは案外美味しいものよ」

『……わかったよ。腹壊しても文句言うなよ』

「言わないわよ。腹壊したくらいで何百人も救えるって、なんか人間らしくない?」

『あんなものが食える奴を人間とは言わん』

「それもそーね」


 夏穂はねじくれて蛇を吐き出している死体を食らうべく――自らの身体から暗黒を飛ばした。

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