02-破
第142話 人でなしと妖精と1
部屋に誰もいないなんてよくあることなのに――何故かはわからないが、今日この瞬間は、心なんてものは失って久しいはずの里見夏穂の心をざわめき立たせた。
どうして――と自分でも不思議になる。
たまたま、夏穂が帰ってきたタイミングで席を外していることなんていくらでもあり得るだろう。それなのに――どうして、こんなに。
もう一度部屋を見回してみる。
やはり――そこには誰の姿も見られない。
席を外しているだけなのか、それとも――
「……っ」
自らの内側から襲いかかってくるのは、自分の内側から大きくなる『なにか』――大きくなる『なにか』によって、夏穂の身体はそのまま破裂してしまいそうになる。
「……あんた、もうちょっと落ち着けないの?」
夏穂は吐き捨てるように、自分の中にいるオーエンに向かって話しかけた。
『そう言われてもな。俺にだってどうしようもできんよ』
オーエンは達観するような口調になって嘯く。
夏穂の身体には怪異が溶けている。身体と怪異が混ざってしまったことによって、夏穂はまともに死ねなくなって、必要以上に怪異と反応するようになっていたが、普段ならそれ以上の問題は起こらない。
そう――普段なら、である。
怪異と混ざり合った夏穂の身体は――根本的にかなり不安定だ。人の身とまったく異なる存在である怪異と混ざり合ってしまったのだから、不安定になるのは当然と言えるだろう。
そして――
怪異と混ざった不安定な身体は――簡単そのバランスを崩してしまう。
夏穂の中にいる怪異は怪異を食らい、欲する捕食者だ。その欲望が満たさないと――肉体と怪異のバランスが崩れ、普段なら保てる人の身体を保てなくなる。正真正銘、本物の怪異になってしまうのだ。
それゆえに夏穂は定期的に怪異を捕食して、肉体と怪異のバランスが崩れないようにしてきた。
だが――
時間の流れが早く、他にもなにか仕掛けがあったと思われる異界に行ってしまったせいで――普段保っているそのバランスが崩れそうになっている。
正直なところ――異界で薫子に殺されたときに自分を保てていたのは運がよかっただけと言える。あそこで決定的にバランスが崩れてもおかしくはなかった。実のところ、あの異界にいた夏穂はそれくらい追い詰められていたのだ。
別段、バランスが崩れて荒れ狂う怪異と化してしまうことを忌避しているわけではない。
里見夏穂という人間のような『なにか』は他人のことを考える余裕など微塵もなく、その他人がどうなろうが知ったことではないのだ。
しかし――
いま自分の肉体と怪異のバランスが崩れてしまうと――困る者が一人だけいる。
白井命だ。
彼女は自分と同じく『選別現象』を浴びて怪異に近づいてしまっている。
もし、いま夏穂のバランスが崩れて、怪異の捕食者と化してしまった場合――自分が真っ先に命を狙うだろう、という確信があった。
他の誰かどうなろうが知ったことではない。
だけど――命だけは別だ。
あの娘は――自分と共有できるものがある。
そして――自分にできなかったことをやっている娘だ。
それはとても尊いもので――人でなしになるしかなかった自分が壊していいものではない。
現在はなんとか自分を保っていられるが、これ以上なにか揺さぶりをかけられたら耐えられる保証はないはずだ。
だが――
いま自分は狙われている。いきなり異界に落ちたこと、命がいなくなっていることを考えれば、それは明白だ。少なくともあと一人――自分を異界に落とした奴がいる。そいつがすべての元凶かはわからないが、最低でもそいつだけはなんとかしなければならない。
『落ち着け』
自分の内側から聞こえてくる、性別も年齢も判然としない不思議な声がそう語りかけてくる。
『ただでさえ崩れかけてるんだ。焦ると余計悪化するぞ』
「わかってる」
焦ったってどうにもならないことはわかっている。自分を襲うこの状況も、命がいなくなってしまったことも、焦ったところでどうにかなるわけではない。
それでも――
内側から破裂しそうになりながらも、夏穂はそうせずにはいられなかった。
まるで――人間みたいだ。
焦るなんて――そんなもの、とっくの昔になくしたと思っていたのに。
命を復帰させようとして――自分が思っている以上に自分も人間らしさを取り戻したのだろうか?
馬鹿馬鹿しい。そんなことあるか。夏穂は数字で言えばゼロだ。ゼロにいくら数字をかけたところでゼロにしかならない。そんな人でなしが――
「ねえオーエン」
『なんだ』
「命がいなくなったの、どうしてかわかる?」
『知るかよそんなもん。
だが――体育館棟のほうに妙な気配がある。なにかはわからんが――この件に関係しているとすればそこにいるやつだろう』
体育館棟。
命は、そこで誰かに――
と、考えたところで、夏穂は部屋の中でなにか光るものが目に入った。夏穂は靴を脱がずにそれに近づいてみる。それに触れると――
『これに触ったってことはあなたこちらに戻ってきたのね』
光る『なにか』が一気に巻き上がって部屋の中を覆い尽くしたと思ったら、どこかで聞いたことのある声が聞こえてきた。異界で――他人を誑かして夏穂を分離させようとしていたあの娘――小夢だ。
『というわけで、第二ラウンドと行きましょうか。あなたのお友達は預かったわ。もうわかっていると思うけど、体育館棟にまで来てちょうだい。来ないのならわたしのほうから行ってあげるけど――あなたが来ないのなら、預かっているこの娘とイイコトしてから行ってあげるわ。待ってたら我慢できなくなってしまうもの。大人しくて、それなのになかなか反抗的で――わたし好みなの、この娘』
小夢の声とは別に、なにかキイキイ囀る声が聞こえる。部屋中に舞う光る『なにか』に目を凝らしてみると、それは小さな人の形をした『なにか』であった。
夏穂は腕を思い切り振り払うと、その小さな人型は耳障りな鳴き声を上げて潰れる。しかし、小さな人型の『なにか』は大量にいるために、腕を振り払った程度では耳障りな鳴き声は消えてくれなかった。
『ところで――あなたあとどれくらい保つのかしら? わたしの予想では結構追い詰められていると思っているんだけど――こればかりはあなたの顔を見てみないとわからないわね。じゃ、彼女を無事に返してほしかったら体育館棟まで来ることね』
小夢の声がそう言うと、黒板消しを叩いたような音が響いて光る粉はまるで幻かなにかだったかのようにつらつらと消えていく。五秒とかからずに部屋を埋め尽くしていた光る粉と、人型の『なにか』はすべて消え去った。
部屋に一人残された夏穂は――
「オーエン、あいつ――なんだかわかる?」
『恐らく――妖精の類だな。連中は騙して誑かすのが得意だから注意しておけ』
「さっき倒したのは偽物だったのかしら?」
『偽物――というか、分身かなにかだな。本体はずっとこっちにいたってことだろ。随分と諦めがいいはずだぜ』
「……そう」
夏穂は踵を返して歩き出した。向かう先は、もちろん――
『行くのか?』
「当然でしょ。あんな挑発されて黙っていられるほど大人ではないもの」
『ま、お前がそう言うなら俺はなんも言わんが――』
オーエンの言葉を聞き、夏穂は軋む身体に鞭を打って体育館棟に向かっていった。
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