第143話 人でなしと妖精と2
なんとしても体育館棟にまで行かなければならない――部屋を出て歩き出した夏穂はそう決意を新たにする。
あの西澤小夢におびき出されてしまった命は無事だろうか?
無事なことは間違いないはずだ。そうでなければ人質としての意味をなさなくなる。少なくとも――身体的には。
身体的に無事だからといって、無事であるとは限らない。小夢は恐らく、命にもなにかちょっかいを出しているはずだ。奴の力を考えると――身体か無事かどうかなどあまり意味がないが――
「……っ」
内側から『なにか』が大きくなる感じがした。もうあまり時間は残されていない。さっさと妖精――小夢をなんとかしなければ、肉体と怪異のバランスが崩れ、夏穂は怪異そのものになってしまう。
寮の廊下には誰の姿もない。まだ誰も帰ってきていない時間なのか――それとも、人払いをされているのかは不明だ。
だが――
誰もいないというのは、夏穂にとっても小夢にとっても都合がいい。寮を出るまで、あいつが大人しくして待っているとは思えない。なにを、してくるだろうか?
「ねえ、訊きたいことがあるんだけど」
『なんだ?』
「私がいた世界――あれってあいつが見せていた幻覚だったんじゃないかと思って」
『ほう』
オーエンは興味深そうな声を夏穂の内側に響かせる。
「だってさ、腹も減らない、喉も渇かない、生理現象も来ない――なのに水は出るし、備品はある、なんて都合がよすぎると思わない?
それに、時間の経過が早いはずなのに、ライトは通常通り電池が保っていたし、私たちはあの世界に行ったんじゃなくて、西澤小夢に幻覚を見せられていたほうが説明つくんじゃないかと思うの」
『……確かにその通りだな。中にいたあいつがまったく抵抗しなかったのも、幻覚の世界だったからだとすればそれなりに説明がつく、か』
オーエンは神妙な口調になって呟いた。
『だが、それだけの幻覚を見せられるとなると、相当力を持った怪異だぞ。お前は基本的に人間の認識能力しかない。その力を使えば、俺とお前の身体の分離を進めるのは容易いだろう』
「でしょうね」
「相変わらず危機感がないな」
オーエンは呆れた口調になって言う。
「だってたいしたことでもないもの」
現実とまったく区別がつかない幻覚を見せられようが――それでも夏穂にはそれを気にしていられるほどの余裕はない。自分のことだけで精いっぱいだ。
だが――
それでも、自分と共有できるものがある命だけは別だ。人でなくなるしかなかったけれど――それでも背負いたいと思えるほど彼女は大切に思っている。
だから――夏穂は危険だとわかっていても体育館棟に向かうのだ。
夏穂は寮の廊下を悠然と進んでいく。打ち倒すべき敵がいる場所に――守るべき者がいる場所に向かうために。
そのとき――
ぐわんと、地面が歪み、寮の廊下だったはずの場所がまったく別の場所へと変貌する。
つい数瞬前まで確かにあったはずの地面が消えてなくなり。夏穂はどことも知れない暗黒へと落ちていく。落ちていった暗黒の世界にはなにもない。ただ、暗闇だけがどこまでも続いている。
身体を動かそうとしても、上下左右の判別がつけられないために、進んでいるのかもわからない。これは、間違いなく――
『ふふ、あなたの世界ってこんな空虚な暗黒なのね』
と、どこからか声が響いてくる。だが、どこを見渡しても、自分以外の誰かの姿は目に入らなかった。
『よくこんなのを内側に抱えて生きていられるわ。正直不気味なことこのうえないけど、感心しちゃう』
小夢は嘲笑するような声をどこからか響かせている。
しかし、暗黒に襲われている夏穂は、それをどうすることもできない。手や足を動かしてじたばたしたところで、あたりを埋め尽くす姿のない闇を切るばかりでなんの手応えもない。
『わたしの幻覚はどう? すごく気持ちいいでしょ? わたし、誰かのことを気持ちよくするのすごく得意なの』
小夢は何故か誇るような声をあたりに響かせ、ぬるりとした感触で夏穂の耳を撫でていく。
ここにあるのはなにもない空虚な暗黒だ。こんなもの、気持ちいいはずがない。
『あら、どうしてそんなむくれているのかしら? そんな顔しないで欲しいわ。あなた、顔だけはそれなりにいいんだし、もったいないわよ』
小夢の声は余裕に満ちている。当然だ。ここからでは、夏穂は小夢を食うことはできないし、小夢のほうはこちらにやりたい放題できるのだから。
『このままここで分離させてもいいけど――体育館棟まで来てほしいってあいつが言ってるから、ちょっかいを出すのはこの辺にしておくわ。また、ちょっかいを出すかもしれないけど、そのときはよろしくね』
小夢の言葉が終わると同時に、あたりを支配していた上下左右が曖昧になる暗黒の世界は消えて、寮の廊下へと戻った。手も足もしっかり動くことを確認して、夏穂は再び歩き出した。
『大丈夫か?』
夏穂の内側から聞こえてくるのはオーエンの不思議な声。
「大丈夫よ。とりあえずのところは」
あの程度の揺さぶりであれば夏穂はまだ耐えられる。
だが――
あのように時間の流れがおかしくなった幻覚を見せられ続けるとなると、果たしていつまで保つだろうか。
さっきまでいた異界でのことがなければ問題なかっただろうが――そんなことは言っていられない。
そこで――
夏穂は足を止めた。
立ち止まった前は、寮のカウンセリングルーム。
『どうした?』
オーエンが訝るような声を響かせる。
「ちょっとね。私が幻覚の世界にいた間、京子さんはなにをしていたのかと思って。あの人がいれば命の一人くらい充分守れたはずでしょう」
三神京子は怪異の専門家である。あれだけの幻覚を見せてくる小夢が相手であっても、なんらかの対応はできたはずだ。
それなら――
「なんだ。文句でも言いに行くのか?」
「そ」
それに――なにかこちらの助けになるものも得られるかもしれない。
夏穂はそう結論づけ、一度ノックして「失礼します」と言って、寮のカウンセリングルームの扉を開けて中に入った。
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