第141話 命の戦い8
体育館棟は、この世とは思えない異界と化していた。
体育館棟に一歩足を踏み入れると、そこに満ちていたのは――先ほど逃げているときにわたしを襲った光の粉。むせ返りそうなほど強く甘い匂いが充満していて、その場にいるだけ吐き気を催してくる。この光の粉の中にいると、身体の感覚が曖昧になっていく。やっぱり、あれはよくないものみたいだ。
それでも――
命は吐き気を堪え、曖昧になっていく身体の感覚に恐怖しながらも、光る粉に満たされた体育館棟を進んでいく。
いま――この体育館棟には誰もいないのだろう。そうでなければ、このように異常な状態になっていたら、すぐに気づかれてしまうはずだ。あの娘がこれほど異常な場所を造り出したと思うと心から恐ろしくなった。
「――――」
声が聞こえる。
なんと言ってるのか、わからなかったけれど――たしかにこの光る粉は言語のようなものを発しているように思えた。
光る粉がうねりながらわたしにまとわりついてくる。また、あのときのようなことをされるのではないかと思って、わたしは目いっぱい自分の両手を振り回して光る粉を払い除けた。なにか潰れるような音が聞こえる。なんだろう、と思って手に付着した光る粉に目を凝らして見てみる。
光る粉は――
よく見てみると、小さな人型をしていた。
小さな人型の『なにか』がわたしの手にくっついているのをみて、わたしはいままで感じたことがないほどの気持ち悪さを覚えて、思い切り付着していた光る粉を払い除けた。
払いのけたとき、またなにか声のようなものが聞こえる。光る粉を振り払ったわたしの手には、潰れてぐちゃぐちゃになった人型だった『なにか』が目に入った。
「……っ」
人型だった『なにか』を潰してしまったわたしは、堪えきれなくなってその場に立ち止まって戻してしまった。胃が空になるまで吐き戻したわたしは、袖で口を拭って歩き出す。甘い匂いに満たされた空間に、吐瀉物のすっぱい臭いが混じり、さらに不愉快なものへと変わる。
あたりを満たす光る粉はその濃さをどんどん増していく。気がつくと、上も下も右も左もわからなくなるほど濃くなっていた。わたしは――いま、どこへ歩いているのだろう?
それでも――
前に進まなければならない。
これは――わたしの戦いだ。
大事な夏穂ちゃんを取り戻すための――戦い。
不快で気持ち悪くて怖くて――いますぐにでもここから逃げ出したいと思ったけれど、ここで逃げてしまったら、わたしは一生後悔するだろう。
だから――
逃げるわけには、いかない。
どこに進んでいるのかもわからない状況で、壁らしきものに手をつけたままわたしは前に進んでいく。
「――――」
またなにか光る粉が声を発した。
一体、この不愉快な生物みたいな『なにか』はなんと言っているのだろう? なにを言っているのかわからないせいか、無償に腹が立った。
手に付着した光る粉を思い切り壁に叩きつける。拳に広がるのは鈍い痛みと光る粉が潰れた際に発した断末魔。その断末魔は異様なほど耳に障る。
光る粉を潰したわたしの手は――極彩色に染まっていた。これがあの光る粉の体液なのだろうか? いくら手を拭っても、極彩色の体液は落ちてくれない。どんどんと、わたしの身体は光る粉の体液で汚されていく。
光る粉は――わたしに触れれば潰されるのに、それでも構わずにまとわりついてくる。わたしになにか、光る粉を惹きつけてしまうものがあるのだろうか? なんてことを思うけれど、なにもわからなかった。
不快だ。
不快で不快で仕方がない。
全身を極彩色の体液で汚されようと、わたしの足は前に進むことをやめなかった。
あいつは――どこにいる?
どこだ。どこにいる? 見つけたらあの光る粉と同じように――
「ひどいことを考えるのね」
前も後ろもわからなくなったこの場所に突如としてここに満ちている光る粉以上に甘く聞こえる声が突如として響く。
すると――
あたりに満ちていた光る粉が一ヶ所に集まっていって――
それが少女の姿へと変化する。
そこにいたのは――夏穂ちゃんがいなくなる前にわたしたちのことを見ていた女の子の姿があった。
「あなた、そんな可愛らしい見た目なのに、意外と凶暴なのね。わたしのことを殺してやろうなんて。ああ、ひどいわ。どうして人間ってこんなに凶暴なのでしょう?」
目の前にいたはずの女の子は姿を消し、わたしのすぐ近くに現れて、耳もとに息を吹きかけた。わたしは反射的に手を振り回したものの、わたしの手は虚空を凪ぐだけで、なにかに触れた感触はまったくない。
「でも――そんな凶暴な人間がわたしは大好きよ。少しくらい悪いところがあって当たり前だもの。その程度で嫌いになっては、愛してるなんて言えないと思わない?」
わたしの首もとに息を吹きかけた彼女は、今度は五メートルほど後ろに移動していた。わたしの目の前でなにが起こっているのか、まるで理解できなかったが――いまの体質になってから不思議なことを体感するようになったわたしには、それが紛れもない現実であることは理解できる。
「ねえ、そんなにわたしのこと嫌い?」
彼女はわたしの真正面に移動して、再び強引に唇を奪った。唇が触れ合うと同時に、彼女の舌がわたしの口内に侵入してきて、わたしの舌と歯をねっとりと蹂躙する。なんとも言えない心地よさに思わず身を預けてしまいそうになったけれど、わたしは彼女の身体を思い切り突き飛ばした。
「つれないわね。わたしのキス、気持ちよくないの?」
突き飛ばされた彼女は、少しだけ残念そうな顔をして妖艶な笑みを見せると、音もなく姿が消えてまた移動する。今度は三メートルほど離れた場所にいた。
「でも、やっぱりあなたをわたしのものにしたいわ。だって、あなたを奪われたあいつの顔が見たくて仕方ないんだもの。あなたも、あの人でなしが悔しがるところ見てみたくない?」
そう言うと、彼女の姿は消え、まわりは濃い光の粉に包まれ、また視界が不明瞭になる。
「あなた、わたしの力を弾いているみたいだけど――わたしが与える快感で気持ちよくなっているのはわかっているわ。ふふ。我慢しなくてもいいのよ。それとも、高校生にもなって、性的なことに興味を持っていないのかしら?」
音もなく光る粉が集まって、わたしに背後から抱きつくような形で女の子が姿を現した。そして彼女は――わたしのスカートの中に手を入れて――
「その証拠に――こんなに濡れてるじゃない。我慢しちゃって可愛らしいわ。あなたが望めば、わたしはどんな快感だって与えてあげられるわよ」
そのまま、彼女の手はわたしの下着の上をまさぐっていく。その手つきで与えられる快感はとても心地いい。
「大丈夫よ。これでも女の子を相手にするのは慣れているから。痛いことはしないわ。ねえ、わたしのものになりましょうよ」
彼女は、わたしの耳を淫靡になめずりながら、スカートの中をまさぐり続ける。こんなことされて嫌なはずなのに、とても気持ちよくて、このままでいると、本当になすがままにされてしまいそうだった。
「ふふ、力を抜きなさい。力んでいると、痛くないものも痛くなってしまうわよ。そう。あなた意外と被虐的なのね。優しくするより、少し乱暴なほうがよかったりする?」
彼女が与えてくる快楽に身を任せていると、だんだん息が荒くなって、身体が熱くなる。本当に、わたしは彼女が与えてくる快感で興奮しているらしい。
このまま、身を任せてしまいたい。
そうすれば、この娘はわたしをもっと気持ちよくしてくれる。
だけど――
好きでもない相手に、快楽に身を任せしまうなんて――
そんなの――許されない。
わたしは、ポケットに入っていたボールを取り出して――
そのまま、後ろから抱きついていた彼女にそれを押しつけた。
「なっ……」
押しつけたボールは音もなく弾けると、彼女の身体を後ろに弾き飛ばし、さらにこの体育館棟を満たしていた光る粉をすべて吹き飛ばした。体育館棟が平常の空間へと戻っていく。
ボールを押しつけられた彼女は――
お腹でも刺されたのではないかと思うほど、その顔が苦痛に歪んでいて――
「あなた……どうして、そんなもの、を」
苦しそうにそう言って、膝から崩れ落ちた。
倒した、のだろうか?
よくわからないけれど、これで、夏穂ちゃんは――
「嫌な予感というやつはいつも当たるものだな」
背後から男の人の声が聞こえて、そちらを振り向くと同時に――
後頭部になにか衝撃を感じられて、なにが起こったのか理解する間もなくそのまま意識が虚空へと吸い込まれていった。
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