第127話 妖精の愛11

 人間が発しているとは思えない罵声が聞こえてきた。


 いまここを支配しているのは獣のような罵声と暴力だけ。ある者は理不尽に暴力を振るい、ある者は理不尽に暴力を振るわれる。いまのここは――勉学に励む場所ではない。


 あたしは――なにもできなかった。その理由は簡単だ。あんな風になってしまったクラスメイト達が怖かったからに他ならない。


 完全に理性を失い、怒鳴り声をあげ、無意味に暴力を振るう者の中にはあたしと仲よくしている娘もいた。


 なんとかしたい、はじめはそう思ったけれど――

 仲のよかった娘から――わけもわからないままに暴力を振るわれて――

 結局、なにもできなかった。


 この混乱を治めるどころか――友人だったはずの娘たちを諫めることもできず――あたしはただ再び理不尽な暴力に襲われることを恐れて――教室の隅で縮こまって、待つことしかできなかったのだ。


 情けないと言えばいい。

 どうしようもないクズだと罵倒すればいい。

 それは認めよう。あのときのあたしが情けないクズであるのは間違いない。


 だが――

 そういうお前は、狂気に呑まれて理不尽に暴力を振るうようになった人間を止められるのか?


 止められるのならあたしにそう言う資格もあるだろう。

 できないのにそんなことを言っているのなら――狂気に呑まれた人間の暴力を受けて見るといい。


 飛行機を乗り継いで戦乱の地に行く必要はない。

 ただ少し、治安の悪い場所に行くだけでも構わない。


 あたしのことを笑うのなら――そういうところに言って、そこにいる人たちを止められるか試してみればいい。


 あたしを笑うような奴に――そんなことはできないだろうが。

 学園中を支配していたあの混乱は――警察の介入によって鎮圧され――

 次の日にはまるで何事もなかったかのように元に戻っていた。


 まるで――あの一日だけがおかしかったかのように。

 多くの生徒は、あの混乱が収束したあとは元の通りに過ごしていた。


 だけど――

 あたしにはできなかった。


 あたしには――獣のように変貌してしまったクラスメイト達をいままでと同じように見れなかったのである。


 そんなもの忘れてしまったほうがいい。そう何度も自分に言い聞かせたけれど――結局、あたしは友人たちをいままでのように見れずじまいだった。


 人間には理性があると言われている。

 だが、あたしはその日――その理性とやらは、なにかの拍子で簡単にはがれてしまうことを知ってしまった。


 理性がはがれると――人間はあんな風になってしまうのだということを――知ってしまったのだ。

 あの日以来――世間知らずだったあたしは、少しばかり現実を知ったのだと思う。


 もし――

 普段仲よくしているあの娘は――あの日のようになってしまったらどうなってしまうのだろう? そんなことを思うと、平静にしていられなかった。


 だからあたしは――

 この学園にいたくない、そんな思いが日に日に強くなっていった。


 だけど、あたしが通う月華学園は全寮制だ。校則はそれほどきつくないとは言え、簡単には外出させてくれない。


 ましてや――人間の本質を見てしまって嫌になった、なんて傍から聞いたら馬鹿馬鹿しい理由などでは。


 それに――

 あたしが見てしまったものは――この学園から逃げたとしてもついて回るだろう。あれはたぶん――なにか踏み違えれば、人間社会でならどこでも見れてしまうものだから。


 あたしは逃げたかった。

 しかし、あたしは見たあれは、どこにでも普遍的に存在するものだから、どこに逃げても無意味なのだ。


 あれから逃げるのなら――ここではない場所に行くしかない。

 とは言っても、ここではない場所になんてどうやっていくのかなどわかるはずもないし、そもそもできるはずもなく――


 人間の本質――というものに押しつぶされそうになっていたあたしは――

 そんなのとき、学園の中であの『妖精』を見かけたのだ。



 嫌な夢を見た。

 異界に来る前――この学園で起こった、つばさの心に深いトラウマを残したあの出来事の夢だ。


 ここに来た自分にはもう関係ないことなのに――どうして未だにそれが夢に出てくるのだろうか。あんなところ――戻りたくなんてないのに。


 そこでふと――隣で寝ていたはずの小夢がいないことに気づいた。


 ……どこに行ったんだろう? 少しだけ疑問に思う。

 どうしてかわからないけど――なにか嫌な予感がした。

 つばさは自分のすぐ近くに置いてあったライトを持って立ち上がる。


 そういえば――あいつらに便箋を見せにいったとき、小夢は――薫子に対して熱い視線を向けていたことを思い出す。


 もしかして――

 いや、まさか。そんなはずはない。小夢が自分を差し置いてそんなことをするわけがないじゃないか。小夢はあんなに愛してくれているのに――そんなことをするわけがない。彼女は――そこらにいる娘とは違うのだ。


 隣で小夢が寝ていた場所に手で触れてみる。そこにはもう熱は残っていなかった。


 だが――この異界は時間の流れが早い。だから離れるとすぐに熱は失われてしまう。長い時間、離れているとは限らない。


「……小夢」


 思わず名前が口からこぼれ出た。

 真っ暗で人の絶えた夜の異界を歩くのは怖いけれど――小夢が自分の近くにいないことのほうが心配だ。つばさはライトを点けて歩き出した。真っ暗な人の気配のない場所に人工の明かりが灯される。


 教室を出ようと扉に手をかけたそのとき――

 つばさが扉を開ける前に、扉が開かれた。


「……どうしたの?」


 つばさとは逆方向から扉を開けた小夢がぽかんとした顔を見せている。食べてしまいたくなるほど甘い匂いをいつも通り振りまいていて――それを感じられてつばさは心から安心した。


「小夢……」


 つばさはこらえきれなくなって、小夢の唇を奪った。小夢の柔らかい唇と、体臭と同じくらい甘い味のする彼女の唾液と舌はなんと美味なのだろうか。小夢は、つばさになすがままに口の中を蹂躙され、つばさは満足して唇を離すと――


「どうしたの?」


 と、慈愛に満ちた声でつばさに語りかけてきた。


「ううん。姿が見えなくて、ちょっと心配になったの」

「もう、そんなに心配しなくても大丈夫よ。つばささんたら心配性なんだから」

「どこに行ってたの?」

「目が醒めちゃったから、ちょっと散歩してたの」

「そう。なら、いいんだけど」


 口ではそう言ったものの――つばさの心配はうっすらとこびりついたままだった。


「じゃつばささん。慰めてあげる。一緒に、ね」

「うん」


 つばさは年下の小夢に手を引かれて――夜が明けるまでの短い時間、なすがままにされていた。

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