第123話 妖精の愛7

 その日はじめて、薫子は人の気配が絶えた暗黒の恐怖を知った。


 この異界の校舎は明かりがつかない。なので、外にある(ように見える)太陽が沈んでしまうと、校舎の中は想像を絶する暗黒に包まれる。そこから感じられる恐怖は――言葉に言い表すことは難しい。


 昔――忘れ物をして夜の校舎に入ったことがあった。


 そのとき――暗闇からなにか恐ろしい化物が現れるかも、なんて思って、一歩一歩怯えながら歩いていた記憶がいまもはっきりと残っている。あれほど恐ろしい場所は他にないんじゃないか、なんて思ったりもした。


 だけど――

 いまここを包む暗黒はそれ以上だ。


一メートル先すらも見えない暗黒に包まれたここは人がいていい場所ではない。こんなところで一人でいたら――すぐにどこかおかしくなってしまうだろう。それくらい、この異界に下りている暗黒は恐ろしい。


 だが――

 薫子はこの暗黒が消えるまで一人で過ごさなければならない。


 だって――つばさと小夢は、何故かわからないが、薫子になにか敵意めいたものを抱いていて、「一緒にいて欲しい」などと言っても、断られるだろう。


 そして――

 もう一人いるのはあの『魔女』だ。

 あの魔女が隣にいるくらいだったら――一人の方がまた耐えられる。


 以前――あの魔女と一緒の部屋になったという生徒がいた。無論、この場所ではなく本来の学園の寮での話だ。


 その頃、いま耳にするような『魔女』の話があったのかどうかはわからない。


 しかし――一緒になったその娘は毎晩この世のものとは思えない悪夢を見るようになったらしい。それが原因でその娘は睡眠不足で倒れてしまい、部屋を変えられた。


 それがどんなものかはわからないけれど、睡眠不足になって倒れてしまうくらいだから、とても恐ろしいものだったことは想像に難くない。


 それから何人か『魔女』と同じ部屋になった娘がいたが、同様に『この世のものとは思えない悪夢』にうなされて、結局、『魔女』は本来であれば二人で使うはずの部屋を一人で使っている。


 そんなものを見させられるのはごめんだ。


 それに――

 人を破滅させる魔女が隣で寝ているなんてとてもじゃないが耐えられない。それだったら――この想像を絶する暗黒に襲われていたほうがまだ耐えられる――と思う。


 だが――それもいつまでもつだろうか?

 薫子は決して度胸があるほうではない。人よりも臆病な性質だろう。


 これから脱出するまで――この暗黒に毎日襲われると思うと、恐怖で心が折れてしまいそうだ。


 あの二人はどうしているだろうか? そこでつばさと小夢のことを思い出した。


 あの様子を見る限り二人――なにやら深い関係のようだ。ただの先輩後輩――とは思えなかった。たぶん、この閉ざされた異界で二人きりでいたから仲が深まったのだろう。こんな暗いところでずっといたら――そうなるのも当然だ。


 羨ましい、と思った。

 わたしにも――誰が隣にいてほしい。


 しかし、現実には誰もおらず、同じように一人でいるのは、あの『魔女』という始末。なんて現実は無常なのか。


 どうして自分の次にやってきたのがあの『魔女』だったのだろう。どうせなら、他の娘ならよかったのに――

 だが――いくら薫子がここで悔やんだところで現実はなにも変わらない。

 絶望と敗北感に襲われていたそのとき――


 かたり。


 と、教室の外から小さな物音が聞こえた。その音をはっきりと聞いて、薫子は飛び上がりそうになった。


 なにか――いる?


 この異界には自分たち四人しかいないはずだ。誰か他にいたのなら、一週間近くいたというつばさや小夢が知っているだろう。いくら空腹にも渇きも感じないからと言って、別行動を取っているとは思えない。


 そこまで考えて――

 自分たちをここに導いたあの『妖精』なのでは? と、薫子は思った。


 薫子はハッとして硬い床から身体を起こした。

 どうする――もし、いま聞こえた物音が『妖精』のものだったら――自分はここから脱出できるかもしれない。


 追いかける――べきだろうか?


 いや、待て。

 つばさと小夢はどうする? 彼女たちを置いて自分だけ先に逃げるというのか?


 それはあまりにも自分勝手が過ぎるだろう。そんな卑怯なことをするのは薫子には許せなかった。


 なんとかして――彼女たちも一緒に脱出できるようにしなければ。やはり三人で行動したほうがいいのではないだろうか?


 つばさは嫌がるかもしれないけれど――絶対そのほうが――

 ごくり、と薫子は唾を飲み込んだ。

 ここでは渇きを感じないはずなのに、やけに喉が渇いている気がする。


「……そういえば、水は出るんだっけ」


 どうして閉ざされているこの異界で水が出るのかは不明であるが、出るなら出るでそれがありがたいのは事実。


 空腹も渇きも感じないといっても、なにか飲みたくなるときくらいあるだろう。


 そう思って、恐る恐る教室の扉を開ける。

 そこには――教室と同じように暗黒が広がっていた。たいぶ目が慣れてきて、多少見えるようになったけれど、それでも恐ろしいことに変わりはない。


 どうしよう……やっぱりやめようか。

 別に、水を飲む必要があるわけではない。飲みたくなっても、わざわざいま飲みにいかなくてもいいだろう。明るくなってからだって問題ないはずだ。

 戻ろうか――と思ったそのとき。


 かたり。


 と、廊下の先でなにか物音が聞こえてきた。

 やっぱり、なにかいる? こんなところに、一体なにが? そう思うと、薫子の心臓は破裂しそうなほど鼓動が加速した。


 あの物音は――本当に、『妖精』なのだろうか?

 どうする?


 確かめに行くのは怖いけど――なにか脱出の手がかりになるかもしれない。


 どうする? 本当に行くのか?

 行って、そこにいるのがこの暗黒に住む化物だったどうするんだ?


 いや、そんなはずはない。そんなものがいるのなら、自分たちは全員そいつに食い殺されているだろう。


 壁に手を当てたまま、一歩だけ足を進めた。

 自分の足音がやけに大きく聞こえる。

 やっぱり、なんだかうまく歩けない。


 もう一歩進める。

 物音は――聞こえてこない。暗黒は静寂に包まれている。

 さらにもう一歩、進んだところで――


 曲がり角から、明かりが見えた。


「……!」


 それを目撃した薫子は声にならない悲鳴を上げて、そのまま暗闇に落ちていった。

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