第124話 妖精の愛8
人の姿が絶えた場所を歩いている。どこまで行っても、人の姿はおろか、誰かがいた痕跡すら見つからない。
一体、ここはどこなのだろう? 途方に暮れても足は止まらない。止まったら、ここで終わってしまう気がして、止めることができなかった。
歩く。
歩く。
歩く。
どこまで進んでも人の姿はない。
どうして自分はこんな場所に来てしまったのだろうか? なにか理由はあったような気がするけれど――何故か思い出せない。
それでも――なにかに取り憑かれたように前へと進んでいく。
前に進む理由なんて――なにもないに等しいのに。
たぶん、前に進むのは――この誰もいない場所にいたくないからだろう。こんな誰もいない場所にいたら――たぶんすぐに壊れてしまう。
気がつくと、まったく知らない場所に辿り着いていた。かなり歩いたはずなのに――未だに人の姿は見えない。
もしかして――
自分はこの世界にただ一人だけ取り残されてしまったのではないだろうか? 自分が知っている世界は――とっくの昔に崩壊していて――
そんなことあり得ない、と思うけれど――同時にとても恐ろしく感じた。
自分以外誰も存在しない世界。
なにもかも満ち足りたまま、孤独な世界。
たぶん、それはなによりも恐ろしい。
そんなたわいもないことを考えながら進んでいると――
どこかで見たことのある光の球が目に入った。
あれは――
思い出した。
あれを追いかけていたら、こんな誰もいない世界に来てしまったんだ。淡く儚く輝いている光の球に近づいていく。
光の球に近づいていくと、いつか見たように光の球は自分から逃げるように離れていった。
あれについていけば――戻れるかもしれない。そう思って光の球を追いかけていく。
しばらく追いかけたところで――
淡く輝いていた光の球は消えてしまって――
なにが起こったのか、状況をつかめずにいると――
背後から感じられたのは『なにか』に突き刺される感触。黒くて醜悪なそれは自分の腹から奇妙なオブジェのように突き出していた。
「……っ」
痛みはまったくない。
その代わりにあるのは想像を絶する不快感。自分の身体がなにか得体のしれないものに食われている――そんな感触だけがある。
悲鳴を上げたかったけれど、あまりにも恐ろしくて声も出せなかった。
後ろを振り向くと、そこには――
真っ黒で醜悪さの具現のような存在が襲いかかろうとしていて――
薫子の意識はそこで途絶えた。
「…………」
なにか、とても恐ろしい夢を見た気がする。もうどんな夢だったのか思い出せなくなってしまったけれど、とても恐ろしいものだったのははっきりと記憶に残っていた。あれは、一体――
しかし、こんな誰もいない場所に来てしまったのだから悪夢くらい見ることもあるだろう。なにも明かりのない教室で寝るのは、とても恐ろしかったし。
ふとそこで、自分の後頭部に柔らかい感触があることに気づく。硬い床にそのまま寝ていたはずだけど――
「起きた?」
そんな言葉とともに寝ていた自分の顔を誰かが覗き込んできた。はじめは誰なのか全然わからなくて、しばらく経ってからここに来てしまった小夢であることに気づく。
どうして――彼女がここにいるんだろう? 確か、彼女はつばさと一緒にいたんじゃなかったっけ?
「ふふ、驚かしてごめんなさい」
小夢は薫子の顔を覗き込んだまま、生クリームみたいな甘い声を出して笑う。その姿はやけに艶めかしくてとても刺激的だ。
「あの……なんで」
小夢が、この誰もいない異界にはそぐわない、やけに蠱惑的な笑みを見せているせいで薫子は「どうしてここにいるの?」の言葉が出てこなかった。
「どうしてって……そんなの決まってるじゃない」
そこで一度言葉を切って、目が離せなくなるほど蠱惑的な笑みを見せたのち――
「あなたに会いに来たの」
「え……」
予想だにしていなかった小夢の言葉を聞いて、薫子はさらに混乱した。会いに来た――というのは一体どういうことだろうか?
「どうしてそんな顔してるの? わたしのこと嫌い?」
「そんなこと……ないけど」
「ならいいじゃない。わたしはあなたとお話したかったの。いいでしょ?」
「でも、その……先輩は?」
ここでの様子を見ている限り、小夢とつばさは、ただの先輩後輩の仲ではないはずだ。その先輩を差し置いて、薫子と話をしにやってくるなんて――
「つばささんは寝てるわ。寝てるからここに来たんだけど。正直なことを言うとね、最近あの人ちょっと迷惑なのよ」
「迷惑?」
薫子は小夢の言葉を繰り返して小首を傾げた。
「だって、わたしのことすごく束縛するんだもん。あなたたちがやってきてからさらにひどくなったわ。わたしのことを自分のものかなにかとしか思ってないみたい」
かわいらしさとともに不安を露わにする小夢。
「ここに来てからは頼りなるなんて思っていたけど、いまはもう鬱陶しいだけ。わたしはあの人のペットじゃないのよ。そう思わない?」
思わない、と言われても、小夢とつばさが二人でいるときになにをしているのか薫子にはまったくわからないから、なにも言いようがない。
というか――
この娘――こんなに喋る娘だったのか。ずっとつばさの影に隠れていたから、もっと大人しい娘だと思っていた。
「ねえ、あの二人を出し抜いて、わたしたちだけでここを脱出しない?」
「え?」
小夢がなにを言っているのか、薫子には理解できまかった。
「正直、あの人に恋人ずらをされるのはもううんざり。あなたとのほうがうまくやれると思うの。だから――」
「いや、でも……」
魔女はともかく、つばさを置いて脱出するなんて――
「なんで? 別にいいじゃない。あの人はここから脱出したくないみたいなのよ。わたしはこんなところにずっといたいなんて一度も思ったことないし、それに付き合わされるのはごめんなの。あなただって、早くここから脱出したいでしょう?」
「うん……」
「ならいいじゃない。わたしたち二人だけで脱出しても。どうせ、ここにいる間はお腹も減らないし喉も渇かないんだから大丈夫よ」
「そう……かな」
小夢の声は渇いた砂地に滲みこむ水みたいだ。薫子の言葉を聞いて、小夢は無性に情欲を掻き立てる笑みを見せた。
「でも、今日はそろそろ戻るわ。まだあの人に感づかれたくないし。それじゃ、これは約束の証ね」
そう言って、小夢は薫子の唇に唇を重ねてきた。唇を重ね合わせたあと、小夢は舌を入れて薫子の口の中を蹂躙する。小夢の唇は同じ人間のものとは思えないほど柔らかく、甘い味がした。気がつくと、薫子の身体はなにか薬でも飲まされたみたいに弛緩してしまっていた。小夢の蹂躙はまだ続いている。
二十秒ほど唇と舌を絡め合わせたところで、やっと薫子は小夢の蹂躙から解放された。いきなりこんなことをされたというのに、不快感はまったくない。こんな感覚は生まれてはじめてだった。
「それじゃあね」
小夢はそう言って、薫子の身体からどいたあと、横に置いてあった懐中電灯を持ってぱたぱたと歩き出した。
「…………」
薫子はしばらく呆然としていた。唇と口内には、まだ小夢の唇と舌の感触が残っている。
小夢はつばさに懐いているように見えていたが、どうやらそうでもないらしい。
どうするべきか? そう悩んでいると――
「……お楽しみだったようね」
背後からそんな声が聞こえて――薫子はハッとして振り向いた。そこには――昨日とまったく変わらない様子の『魔女』がいた。
「み、見たの?」
「まあ、ちょっとだけ。別にどうとも思ってないし、気にしないでいいわよ」
完全に人間味が失せた声で『魔女』は言う。その口調は――無性に癇に障るものだった。
「というか、なに?」
「いや、ちょっと気になることがあって。とりあえず一番近くにいるあなたに話そうかと思ったんだけど」
「……なに?」
せっかくいい気分だったのに台なしだ。もうちょっといい気分に浸っていたかったのに――と、薫子は『魔女』に対して心の中で罵声を浴びせた。
「ここなんだけど――時間が経つの早くない?」
「……え?」
『魔女』の言葉を聞いて、薫子が窓の外に目を向けると――
そこには――すっかり明るくなった外が見えた。
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