第118話 妖精の愛2
これは――一体なにが起こったのだろう? 薫子は突如として自分のまわりに現れた異常さに困惑するしかなかった。
まず――人間の気配がまるで感じられない。
普段から人の出入りがある場所なら、いまその瞬間に人の姿がなかったとしても、そこには人の気配が残っているものだ。
しかし――
いま自分がいるこの場所は――間違いなく見知っているはずの場所なのに――人の気配の残滓があって当たり前のはずなのに――それすらもなかった。あとにも先にも人がいたことがないとしか思えない場所――そこがいまいる場所だ。
とは言っても、学園から別の場所に転移したわけではない。いま薫子がいる場所は月華学園の校舎であること間違いないだろう。なにしろ、学園とまったく同じ造りである。どこもかしこも見た覚えのある場所だ。そんな場所が、異世界であるはずがない。
だが――
人の気配が一切感じられないここは、どこも同じでありながらまったくまったく別の場所としか思えなかった。
なにがどうなっているのか、まるでわからない。
さっき、校舎を歩いていて、光る人型の――妖精みたいな『なにか』を見つけて、それを追いかけていただけなのに――
いや、もしかして――
あの妖精によって薫子はここに誘われたのだろうか?
そんなこと――起こり得るのだろうか?
いくら、この学園がおかしなものを見たりおかしな体験をする人が多くいる場所だからといって――学園とまったく同じ異世界に行ってしまうなんて――
そこまで考えたところで――
一瞬だけ変な世界に行ったことがある、なんてことを言っていた知り合いがいたことを思い出した。
その話を聞いたのはいまから八ヶ月近く前の春――学年が変わる節目の時期だったと思う。
けれど――
その娘から聞いた限りではおかしな場所にいたのは一分にも満たない時間だと言っていた。そのとき、薫子は「見間違えたんじゃないの?」なんてことを言っていたけど――いまならば、八ヶ月前に聞いた話は本当だったのでは? と思えてくる。
だって――
こんな人の気配が失せた場所、すぐにいままで自分がいた場所と違うなんてこと、すぐにわかってしまうから――
自分がいままでいた世界とは違う場所に来てしまったことを自覚して、今度は別の不安が生まれてくる。
これから、自分はどうすればいい?
こんな――誰もいないのが明らかな場所で、生きていけるわけがない。
誰もいないのなら、食べ物や飲み物だってないだろう。それはどうする?
確かに薫子は学園から逃げ出したいと思っていた。いまでもそれを否定するつもりはない。
しかし――誰もいない場所になんて行きたいとは思ったことはないし、そもそもただちょっと付き合っていた相手と別れてしまって、その思い出がたくさん残っている場所にいたくないと思っていただけだ。こんなの――全然望んでない。
薫子は人の気配が失せた学園とまったく同じ造りの異界を歩き出した。
この校舎の外はどうなっているのだろう――そう思って窓の外に目を向けてみる。そこには――普段、学園から外を眺めたときに見える風景と同じものがあった。見渡す限り、明らかにおかしいと思えるものはなにもない。
まずは落ち着こう。そう思って薫子はゆっくりと深呼吸をする。これからどうするかを考えるのは気持ちを落ち着けてからだって遅くない。変に焦っていては、状況が悪くなるだけだ。何故かうまく歩けない気がする。平衡感覚がどこかおかしい、ように感じた。人の気配がない以外にもなにかあるのだろうか? どうだったとしても、とりあえず落ち着いて冷静になれなければ。
十秒ほど足を止めて、深呼吸すると――いくぶんか気持ちは落ち着いてくれた。それから、再びゆっくりと歩き出した。
自分の歩く足音がやけに大きく聞こえた。恐らく、ここに誰もいないせいだ。誰もいない場所だと――歩くだけでこんな大きく聞こえるのか――なんて他人事のように思う。
近くの教室の扉を開けてみた。
当然のことながら、誰の姿もない。誰もいないはずなのに、机と椅子は同じようにたくさん整然と並べられていて、それがたまらなく不気味さを醸し出している。やっぱり、学園とまったく同じ場所としか思えない。
そこで、自分がスマートフォンを持っていることを思い出して、慌てて取り出した。
だが――
スマートフォンは薫子がこの異界に足を踏み入れた時刻で完全にフリーズしていて、すべての操作を受けつけない。電源すら落とせなかった。誰かにメッセージなりを送って、助けを求める――というのはできないらしい。
それを理解して、薫子は落胆した。思わずため息が漏れる。
これから――どうすればいいんだろう? これからずっと、この場所で暮らしていかなくてはならないのか? そんなの――絶対に嫌だ。薫子は頭を振って、自分に襲いかかる最悪を否定した。こんなところにずっといることになるなんて――そんなのあるわけないじゃないか、と。
とりあえず――
餓えや渇きは凌がないといけない。なにかないだろうか――悪いとは思ったけれど、机の中を覗き込んでみる。しかし、餓えや渇きを凌げそうなものはなにもない。中にあるのは誰かのものらしいノートや教科書や文具だけだ。
ひと通り机の中を見て、なにもないのを確認したところで――
隣の教室から、なにか物音が聞こえてきた。
誰もいるはずもない隣から突如聞こえた物音に、薫子は飛び上がりそうなほど驚いた。
もしかして――誰かいる?
でも――
変な奴だったらどうしよう?
こんな場所で――変な奴に襲われたら――
しかし、自分一人ではどうすることもできない。誰かいるのなら、協力すべきではないのか? 自分一人ではできなくても――二人、三人ならなんとかなるかもしれない。
そう思って、薫子は恐怖を振り払って、歩き出して隣の教室へ向かう。隣の教室にはすぐに辿り着いた。扉の前で、どうするか逡巡する。
本当に開けて大丈夫なのか?
もし、いたのが化物だったら――
扉の前で躊躇していると――
突如、扉が開かれて、薫子はそれに驚いて思い切り尻もちをついてしまった。
扉を開けたのは――
自分と同じ制服を着た女の子二人だった。どちらも知り合いではないことだけは理解できた。
「…………」
扉から現れた女の子は不満そうな顔をして薫子に視線を向けている。彼女の服装は少しだけ乱れている、ように感じられた。
「……なんでここにいんの?」
「なんでって、気づいたらここにいて……」
薫子はもごもごと口ごもりながら言う。そんな薫子を見て、彼女は明らかな舌打ちをしていた。いまここではじめて会ったのに、どうしてこんな態度を取られているのか、薫子にはまったく理解できなかった。
そんな彼女の影から、もう一人の女の子の姿が目に入る。こちらの様子をびくびくと窺うような態度だ。
「ふーん。あんたも妖精を見つけてここに来たってわけね。まあいいわ。こんな状況で、あなたのことを仲間外れにしても仕方ないから、協力しましょうよ」
「協力って……あの、なにを……」
「決まってるでしょ。ここから出る方法よ。あんたが戻りたくない、邪魔をするなっていうならあたしらはあんたのことを無視するけど」
「そ、そんなこと、ないです。協力、してください」
薫子がそう言うと、彼女は再び舌打ちをしたのが聞こえた。
なにがどうなっているのか、薫子にはまるでわからなかった。
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