#9
第117話 妖精の愛1
百地薫子は失意に襲われ、なにもかもから逃げ出したいと思っていた。
こんな場所にはもういたくない――だってこの場所は、あの娘との思い出がたくさんある。そこにいるだけで思い出してしまう。
しかし――
薫子が通っている月華学園は全寮制だ。全寮制学園にしては校則がゆるいと言われているけれど――長期休み期間以外の外出にはそれなりに厳しい。だから、気分転換にちょっと学園を離れる――なんてことはなかなかできないのだ。
本当にどうしよう――ここ数日、そればかり考えている。
ここにいるのは――本当につらい。
どうして、こんなつらい思いをしないといけないのだろう? そんな悪いことをした覚えなんてないのに――
思い出されるのはあの娘の顔――
「陽菜……」
口から漏れ出たのはついこの間まで付き合っていた娘の名前。
彼女――陽菜と過ごす毎日はとても楽しかった。彼女と一緒にいると、小学校からずっと通っていて、目新しいものなんてなにもなくなってしまった学園内でも輝きに満ちていると思えたほどだ。
それはまさしく、夢のような日々。かけがえのない――大切な時間。彼女のためなら、どれだけ時間を――そして自分のことを割いても構わないと思えるほど――尊いと思える存在だった。
なのに――
「どうして……別れる、なんて」
ある日、突然言われた言葉を思い出すと、過呼吸を起こしてしまうほど息が苦しくなる。
つい、三日ほど前、薫子は陽菜から別れを切り出された。「他に好きな人ができたから、別れてほしい」そんなことを彼女から言われた。
それを言われたとき、薫子はなにかの冗談かと思った。そうとしか思えなかった。
だって――薫子と陽菜はかけがえのない時間を過ごしていたはずなのに――この関係がずっと続くと思っていたのに――陽菜だって自分のことが大好きだったはずなのに――そんなことを言うなんてとても信じられなかったからだ。
でも――
何度問い質してみても――陽菜は冗談でそう言っているわけではなかった。
本当に――わたしとの仲を終わらせたいと思っている――そんな顔を、していたのだ。
どうして――と薫子は陽菜に問い質した。どうして? わたしのことが嫌いになったの? なにか悪いことした? と。
だけど――陽菜は「ただ、薫子より好きな娘ができた」と言うだけで、なにが嫌だったのかとか、どうして嫌になったのかとか、具体的なことはなにも答えてくれなかった。
薫子はその日――生まれてはじめて、絶望をいうものを知った。
一番大切だった相手に見放される――それはなんて悲しいことなのだろうか。薫子がそのとき知った失意は――言葉では言い表すことはできない。なにもかも嫌になって、死のうとすら思ったほどだ。
それから――寝込んでなにもできなくなった。
なにをしても、別れを告げられたときのことを思い出してしまって――どこか自分の身体がおかしくなってしまったのではないかと思うほど――正常な思考ができなくなっていた。
自分は無価値などだと。
自分は無意味なのだと。
そう思ってしまって――
陽菜との思い出が染みついているこの場所から――逃げ出したい、と思った。
しかし、全寮制学園に通う身ではそれも叶わない。二年生のこの時期に「付き合っていた娘と別れたから転校したい」なんてことを厳しい両親が許してくれるわけもなくて――薫子は、にっちもさっちもいかなくなった。
自分でも――かっこ悪いとは思っている。
だけど――あれだけ好きだった相手をすぐに忘れるなんてできるわけがない。さっさと忘れろ――そんなことを言えるのは、心から誰かのことを好きになったことがないからだ。薫子と同じくらい誰かのことを好きになったのなら――誰だって自分のようになるだろうという確信がある。
それでも――いつまでも寝込んでいるわけにはいかないと思って、部屋を出て日常に戻ろう、そう思ったとき――
わたしの大好きな陽菜が――まったく知らない娘と仲良さそうにしているのを見かけたのだ。
それを目撃した薫子を襲ったのは、自分を捨てた陽菜や陽菜と一緒にいた娘に対する怒りや憎悪ではなく――自分は、もう陽菜にとってなんでもない存在であると理解してしまったことによる――絶望だった。
どうして、こんなことになったのだろう?
あれだけ想っていたのに――どうして陽菜は「他に好きな娘ができた」のかまるでわからない。
薫子が考える限り――陽菜が嫌になることをした覚えはまったくない。別れを告げられた前の日だって、あんなの楽しそうにしていたのに――
やり直せるのなら、やり直したいと思う。
だけど――
現実では、過ぎてしまった出来事をやり直せるはずもない。時間は一方向にしか流れてくれなくて――進みはしても戻ってくれないものだ。
だから――
いくら自分が過去に戻ってやり直したいと願ったところで――その願いは叶わない。タイムマシンは理論的には不可能ではないなんて言われているけれど――薫子が生きている間にそれができるようになる日はこないだろう。
なら――
この別れは、薫子には避けられないものだった。そう思うしかない。
それでも――気持ちの整理などできなかった。
ここから一秒でも早く逃げ出したいと思った。
だが――全寮制学園に通う自分にはここから逃げ出すことすら叶わない。
本当に――どうすればいいんだろう。
今日も失意に襲われている薫子は、ただ一人呆然と校舎の中を歩いていた。
逃げたくても逃げられなくて――なにかしようとしてもできなくて――どこに行くわけでもなく、ただ漫然と校舎の中を進んでいる。こんなことをしていても、なにも変わらないなんてことは理解しているのに――そうせずにはいられなかったのだ。
そのとき――
「あれ?」
薫子が立っている位置から、十五メートルほど先の空中になにか光るものが目に入った。ふよふよと動く光は、まるで自分を呼んでいるように思えた。
「なんだろ」
そう思って、薫子は宙に浮かぶ光に近づいていく。光は、薫子が近づいてきたのがわかっているのか、逃げるように離れていった。
しかし、その速度は薫子が歩く速度よりも遅い。光と薫子の距離はどんどん縮まっていく。
気がつくと、薫子は手で振れられる距離にまで光に近づいていた。
この光は一体なんだろう――そう思って光を注視してみると――
光の中には、可愛らしい小さな人の形をした『なにか』の姿があった。
これは――もしかして、妖精――なのだろうか?
手で捕まえられるほど小さな人型をした生物なんて――実在するわけがない。
それに――この学園はよくおかしなものを見たり、おかしな体験をしたりする人が多い場所だ。
妖精くらい――いてもおかしくはないだろう。
ちょっと、触ってみよう――そう思って光に向かって手を伸ばしてみると――
薫子の手に触れた途端、光も――その中にあった小さな人型も弾けるように消えてしまった。
「…………」
なにが起こっているのかまるで理解できなかったが、妖精は逃げてしまったらしい。
仕方ない、今日は部屋に戻ろう――そう思ったとき――
薫子は、いま自分がいる場所が学園ではないことに気づいた。
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