第116話 災厄を呼ぶ悪性17
泣いている女の子からなにかどろどろとした赤黒いものが流れ出している。女の子の身体から漏れ出すそれはどう考えても彼女の体重を超えていた。視界に入るものすべてがその赤黒い『なにか』で塗り潰されているからだ。
女の子はその場にうずくまって顔を伏せ、弱々しい声を上げてすすり泣いている。彼女が泣いている間も、彼女の身体から漏れ出す赤黒い『なにか』は止まらない。それはまるで、泣いている彼女をあざ笑っているかのように思えた。
あの赤黒い『なにか』はどこまで埋め尽くしているのだろう? そう思って外に視界を向けてみた。
そこには――この世のものとは思えない地獄が広がっていた。
夜の街を無慈悲に侵食する赤黒い『なにか』は溶岩流のようにその勢力を広げながら、触れた人を融かしていく。融けた人が最期の瞬間に発した悲鳴を延々と残響させながら進んでいく様は恐怖と吐き気を覚えるものだった。このままその光景を見ていたら、すぐに精神が崩壊してしまいそうなほど濃密な地獄――どこを見渡してもその光景しか目に入らない。どこまでこの地獄は続いているのだろう? そんなことを思った。
赤黒い『なにか』に触れて融けてしまった人たちには願いがあっただろう。喜びもあっただろう。悲しみや怒りだってあったはずだ。
だけど――
あの赤黒い『なにか』はそれらをすべて否定する。
なにもかも否定して――否定し尽くして――そのすべてを無慈悲に、そして無意味に奪いつくして殺していく。貴様らにはそこに在る価値すら存在しない――そう言っているかのようだ。
なんて――ひどい光景。
一人だけ――赤黒い『なにか』に浸されたまま動かなくなっている娘がいた。まだ小学校に上がったばかりの幼い娘だ。生きている人がいた――そう思って、その娘に近づいて顔を覗き込んでみると――見てはいけないものを見てしまった気がした。
その娘は――なにもかも否定され、ただ生きているというだけでしかない。生きながらにしてすべてを否定されるという、殺されるよりも恐ろしい責め苦を味わっているのだと理解できてしまったからだ。この赤黒い『なにか』が退いたとしても、あの娘が失ったものはなにも返ってこないだろう。なにもかも失って、空っぽのまま生きていくのなんてあまりにもつらすぎる。
その娘と同じようになっている誰かを何人か見つけた。だけど、みなすべて否定され、生きながらに死んでいるも同然の状態だった。これじゃあ――助けたって意味がない。ここでとどめを刺したほうが慈悲と言えるだろう。
だが――
結局それも自分にはできないのだ。
彼女すら救えなかった自分に――見ず知らずの人間を救えるはずがない。自分は――正義のヒーローにはなれないのだと知ったのはいつの頃だっただろうか? つい最近にも、同じような出来事があったような気がする。
先ほどの場所に戻ると、泣いている彼女からは相変わらず赤黒い『なにか』が漏れ出していた。一切の音も立てることなく、すべてを否定する呪いは荒れ狂う濁流のように流れている。
泣いている彼女がこちらに顔を向けた。よく知っているはずなのに、名前が出てこない。
「――――」
彼女はなにか言った。だけど、なにを言ったのかよく聞き取れずもう一歩近づいた。
「殺して」
涙に濡れた目をこちらに向けて言った言葉は、今度ははっきりと聞き取ることができた。よく知っている声だと思ったのは何故だろう?
殺して――彼女は間違いなく自分にそう言った。
そう言いたくなるのも無理もない。だって、自分が原因でこんなことになってしまったのなら、誰だってそう思うだろう。赤黒い『なにか』には包丁が浮かんでいた。あれで、ひと思いに――
だが――
彼女のために殺してやるのが慈悲だとわかっていても――身体は縫いつけられたみたいに動いてくれなかった。
殺しを躊躇しているのか、それとも――
動けないまま、いまもなお赤黒い『なにか』を放出している彼女に目を向ける。彼女の目には心からの絶望が浮かんでいた。そんな目をしないでほしい――心からそう思った。彼女に対してなにも言えない自分がもどかしい。どうしていつもこうなんだろう? 気の利いたことなんて、なに一つとしてできなかった。
硬直したまま敗北感に襲われていると――彼女は赤黒い『なにか』の上に浮かんでいる庖丁を手に取って――
そのまま、自らの首を――思い切り――
目を覚ますと同時に丈司が感じたのは言いようのない焦燥感だった。
先ほどまで見ていた夢のことを思い出す。つかさからとめどなくあふれ出る赤黒い『なにか』――そしてそれによって人が融けていく地獄のような光景――
いまでもはっきりと記憶に残っている夢の中での光景を思い出すと心からぞっとする。
つかさを放置しておくと――本当にあんなことが起こるのか? 街にいる人間がすべて融けてしまうようなことが――本当に、起こってしまうのだろうか?
言いようのないほど不安が感じられて、気がつくと丈司はサンダルを突っかけて、寝間着のまま下宿先を飛び出していた。
走る。
焦燥感に襲われているせいなのか、全速力で走ってもまったく息が切れない。
走る、走る、走る。
つかさの住む下宿先に行かなければならない――なにもできないことなんて理解しているのに、行かずにはいられなかった。
あんな夢を見させられて――平然となんてしていられるか。なにもできなくたって――
気がつくと、丈司はつかさの住むマンションに辿り着いていた。マンションを見る限り、なにかあったようには見えない。
だけど――
マンションからは――あるはずのものが一切感じられなかった。
人の気配――外からでもそれがわかってしまうほど、この場所は人の気配が失せている。その失せ方は尋常なものではなかった。
なにが起こっているのかまるでわからない。
だが、なにか起こっているのは明らかだ。
丈司は扉を開けてマンションの中に足を踏み入れた。
「……っ」
中に入ると同時に感じられたのは強烈な死臭。しかし、死臭を放つものはなにもない。なにもないのに死臭が感じられる――そのあり得ない現実がとてつもなく恐ろしく思えた。
「う……」
あたりに満ちる死臭に耐えきれなくなって、丈司はその場で吐き戻していた。胃が裏返ってしまったのではないかと思うほど、胃の中身をその場にすべてぶちまけても足は止めることはできなかった。
エレベーターは使わずに階段でつかさの住む階に向かう。一歩一歩、ゆっくりと階段を上がっていく。自分がいま立っているのかどうかもわからない。それでも、前に進んでいく。
階段を上がるごとに――いや、正確にいえば、つかさの部屋が近づくにつれ、死臭は強くなっていった。死臭は強くなるのに、人の気配はまるでない。この世に地獄があるのなら――いまこの場所がまさにそれだろう。こんな場所――地獄でなかったらなんだというのか。
つかさの住んでいる階に辿り着く。辿り着いて足を踏み入れると――
「く、う……」
いままで感じられたものとは比べものにならないほど強烈な死臭が感じられた。しかし、先ほど胃液すらもすべて戻してしまったので、口からはなにも出てこない。それなのに、丈司の身体はまだなにかを吐きだそうとしていた。この場所があまりにも異質すぎて、身体がおかしくなってしまったのかもしれない。
ずぶり、となにか柔らかいものを踏んだような感触が足もとに広がった。丈司は足もとに目を向ける。
しかし、そこには無機質なコンクリートの床が広がっているだけだ。柔らかい感触がするものなんてなにもない。なにもないのに――
なにかが、足もとで蠢いているように思えてならない。
それでも――引き返そうとは思えなかった。
なにもかも異質となったマンションを進み、やっとのことで丈司はつかさの部屋の前まで辿り着いた。
その先から感じられるのは、窒息そうなほど濃密な死臭と異質な感触。ここで起こっている事象の中心はやっぱりつかさなのだとわかってしまった。
頭がいたい。
それでも――手と足は止まらない。扉を引いてみると――鍵はかかっておらず、何事もなく扉が開かれた。開くと同時に――津波のように押し寄せてくる異質さと死臭を堪えながら、丈司はつかさの部屋の中へと入っていった。
短い廊下を進み、扉を開けると――
そこには――首もとに赤い花を散らしながら、動かなくなっているつかさの姿があった。
「あ……あ……」
丈司はつかさのもとに駆け寄った。まだ生きているかもしれない。そう思ったけれど――つかさの身体からはすっかり熱が失われていた。身体のどこを触れても、なにも熱も感じない、反応も返してくれない。切り裂かれた頸動脈からは中に残っているわずかな血を垂れ流しているだけだ。彼女がもう死んでいるのは明らかだった。医学の心得などなくともわかってしまうほどに。
どうして――どうしてこんなことになった? つかさはなにも悪くないのに――悪いことなんてなにもしていない彼女がどうしてこんな目に遭わなくてはならないんだ。彼女をこんな風にした奴らも――彼女を救えなかった自分すらも憎たらしい。
絶対に――許さない。
相手が千年続く魔術師だろうが怪物だろうが知ったことか。つかさをこんなふうにした報いを必ず――
受けさせてやる、そう思ったところで――
つかさが死んだら、その死体を回収するという藤井の言葉を思い出した。
ここに死体が放置されているということは――事態を察知して藤井がここにやってくるまでまだ多少の時間はある。
あの鬼畜どもがつかさの死体をどのように利用するのかはまったくわからない。
だけど――
死してもその尊厳を侮辱されるのはどうしても耐えられない。救われなかった彼女が死してもなお救われないなんてあまりにも哀れじゃないか。
どうすればいい?
どうすればそれを防げる?
なにか――方法は――
色々な考えが浮かんでは消えていった。
一つの答えを得た。
「そうか。食べちゃえばいいんだ」
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