第104話 災厄を呼ぶ悪性5

 閉ざされた箱庭の中に娘がいる。年端もいかない小さな娘だ。まだ小学校に上がったばかりと思われる小さな娘。明るく快活で、気立てのいい娘。あと十年もしたら、すごい美人になりそうな――とても可愛らしい娘である。


 その娘は――彼女が暮らすその家に囚われていた。どうしてそう思ったのかはよくわからない。どういうわけか、自分にはそう見えたのだ。


 囚われている、といっても――彼女は一見なに不自由なく暮らしているように見える。望むものはすべて与えられ――自由だってある。どこからどう見てもそれは幸せな満ち足りた生活のはずだ。


 それなのに――

 どうして囚われているなんて思ってしまうんだろう。


 空から彼女に目を向ける。


 箱庭の中で一人遊びをしている彼女は幸せそうだ。自分がこの場所に囚われている――なんて思いもしていない顔。満ち足りた、どこにでもいそうな小さな娘の笑顔。


 でも――それが異様なほど痛ましい。


 幸せそうな笑顔を見ていると――見ているこちらがつらくなってくる。全身を針で抱かれているような錯覚さえ覚えてしまうほどだ。


 彼女は徹底的にあの家に囚われている。

 この箱庭に囚われていなければ生きていけない。


 だって、あの娘は――


 気がつくと、その娘は少しだけ成長していて――囚われていた家とは別の場所に佇んでいた。


 そして――彼女の身に変化が訪れる。

 彼女からなにかが漏れ出していた。


 醜悪な色をした、形のない存在。彼女から漏れ出すそれは、すべてをその醜悪な色で音もなく染め上げて侵食していく。醜悪なそれに侵食されると、岩も草木も生物も黒くなって朽ちていく。そんなものをあんな小さな娘が自覚なしに吐き出している光景はとても恐ろしかった。


 醜悪なそれによって浸食され尽くしたものは――彼女と同じように醜悪なそれを吐き出すようになる。


 気がつくとまわりはすべてそれによって浸食されていた。そこにはもう――無事なものはなにもない。


 まるで呪いだ。


 彼女は、そこにいるだけでまわりを不幸にする。彼女の意思は関係ない。彼女の在り方がどうあったとしても、彼女から漏れ出すそれは徹底的にまわりを不幸にする。


 なんてことなんだろう。

 あの箱庭から出ただけで――こんな風になってしまうなんて。

 まわりを不幸にし続ける彼女は――気がつくとしゃがみ込んで泣いていた。


 当たり前だ。自分のせいで、まわりの世界があんな風になってしまったら――泣きたくもなる。


 だけど――


 いくら彼女が涙を流しても――彼女から吐き出される醜悪な呪いは止まらない。泣いている彼女をあざ笑うかのように醜悪な呪いは身体から吐き出され続ける。


 泣いている彼女を心配して近づいてきた大人がいた。顔は見えなかったけど――彼女くらいの娘を持つ女性ではないかと思う。


 しかし――


 彼女から吐き出される醜悪な呪いによって、その女性もまわりのものと同じくすぐにくちて、物言わぬ呪いを吐き出す人型のオブジェと化してしまった。


 それから、何人も近づいてきたけれど――結果はどれも同じだ。最終的には呪いを吐き出す朽ちたオブジェに成り下がる。その呪いは留まることを知らない。際限なく、ただひたすら無意味に、呪いを吐き出す朽ちたオブジェへと変えていく。


 気がつくと、まわりのどこを見渡しても朽ちたオブジェと、そこから吐き出される呪いに満たされていた。無事なものは――もうなにもない。


 ひどい――それしか言葉が出てこなかった。


 どうしてあんな小さな娘にこんな運命を背負わせたのだろう。それはあまりにも重すぎる。


 どうにか――ならないのか?


 あの娘を助けてあげたい。彼女に近づこうとすると――

 醜悪な呪いは自分も侵食し始めていた。


 身体の感覚がなくなり、黒く朽ちて自分が崩壊するのがとてもリアルに感じられた。それは、ただ死を迎えるよりも恐ろしい。


 痛みはなかった。

 苦しみもなかった。


 ただ、身体が朽ちていく実感があるだけ。その感覚には、ある種の優しさすらも感じられる。けど、その優しさがとてつもなく恐ろしい。


 どれだけ恐怖を抱いても――醜悪な呪いの侵食は止まらない。


 気づけば――自分も彼女に近づいた人たちと同じように真っ黒に朽ちた醜悪な呪いを吐き出す存在になって――


 終わるのだろう。


 自分にはあの娘を救うことはできない――という絶望を抱いたところですべてが暗闇に閉ざされた。



「…………」


 なにかよくわからない夢を見た――気がする。よくわからなかったけれど、なんだかとても悲しい夢だったような――


 寝ぼけた頭でそんなことを考えていると、隣から甘い匂いが感じられて丈司はどきりとした。


 そちらに目を向ける。


 自分の隣にはつかさがすやすやと寝息を立てて眠っていた。そこで、昨日つかさが自分の下宿に泊っていったことを思い出した。お互い服を着ているので、なにかしたわけではなさそうだけど、起きぬけに異性が隣にいるというのはとてもびっくりする。あまりにもびっくりしたせいで目が覚めてしまった。


 どうしよう――隣で小さな寝息を立てているつかさにもう一度目を向ける。起きる気配はない。起こすのもちょっと悪いように思えた。


 時刻は朝の七時――ここから大学まで歩いて五分ほどなので、時間は充分にある。もう少し寝かせていても大丈夫だろう。


 丈司は歯を磨いて顔を洗い、それから朝食の準備を始めた。朝食といってもたいしたものではない。インスタントの春雨スープにお湯を入れるだけである。近くのホームセンターで買った安物のヤカンで湯を沸かして待っていると――


「…………」


 眠そうな目をしたつかさが身体を起こした。二度三度、あたりをきょろきょろしたあと、丈司のことを見つけて――


「……見た?」


 と、眠そうな目でそんな質問をしてくる。


「見たって……なにも見てないよ。一緒に寝てたからといっても、寝てる女の子に手を出すなんて、その……」


 少なくとも、自分のが覚えている限りでは――一緒の布団で寝た以上のことはやっていないはずである。


「……そ。それならいいんだけど」


 起きたばかりで機嫌が悪いのか、つっけんどんな態度である。普段、こういった態度をすることはないので、なんだか不安な気持ちになった。


「……シャワー浴びていい?」

「あ、ああうん。タオルとか歯ブラシとか洗面所に予備のやつがあるからそれを使っていいよ」

「ありがと」


 つかさは一度大きく伸びをしてから立ち上がった。


「なにか食べる? といっても、春雨スープかカップスープしかないんだけど」

「それじゃ、カップスープ。種類はなんでもいいわ。丈司くんに任せる」

「わかった」

「それから――」


 風呂場へ向かう途中でつかさは丈司のほうに振り向いて――


「見たっていうのは、そういう意味じゃないからね」


 なんて、わけのわからない言葉だけ残して、脱衣所に入っていった。


「そういう意味じゃない――ってどういうことだ?」


 シャワーの音すらも聞こえる狭いアパートの一室で、先ほどつかさが言ったことがなんだったのか考えてみたけれど――結局よくわからなかった。

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