第105話 災厄を呼ぶ悪性6
朝食を食べたあと、丈司とつかさは何事もなく外へ出た。もちろん、大学に行くためである。
朝起きてからどうにも調子がおかしかったつかさは、いつの間にかもとの様子に戻っていた。いつも通り、元気で快活で、丈司のことをからかってばかりだったけど――どこか翳りのようなものが感じられた。
それに、なんとなく漠然とした不安を感じながらも――特に気にすることもなく午前九時前の明るい街を進んでいく。
街を歩いているうちに――朝起きたときに感じていた漠然とした不安のことなんてすっかり忘れていた。
大学生にとって、午前九時は早すぎる時間だけど――世間一般ではそうではない。すでに会社に行って仕事をしている人も数多くいるだろう。午前九時というのは、そういう時間だ。
街の風景はどこにも変化はない。いつもと同じだ。
もし、なにか変わったとするならば、それは街ではなく自分のほうだ。ちょっとした時間で、街という大きなものが簡単に変化するわけがない。そんなの、当たり前のことである。
なのに――
変わったのは自分のほうなのに、どうして世界のほうが変わってしまったと錯覚してしまうのだろう?
世界も文明も歴史も――変化はしても根本にあるものは変わっていないというのに。
これも――人間が持つ傲慢なのだろうか?
自分が変わるわけがない。変わったのは世界のほうだ、なんていうような――
そんなことを少しだけ考えてみる。
だけど――
よく、わからない。
「……どうしたの?」
隣を歩いていたつかさが丈司の前に出て話しかけてきた。丈司は歩く足と止める。上目遣いでこちらを覗き込んでくるその姿は少しあざといけれど、気取ってはおらず、とても可愛らしい。やっぱり、そんな彼女と目を合わせるのはちょっと恥ずかしかった。
「ちょっと考えごと」
「どんな?」
「どうして変わったのは自分のほうなのに、世界が変わったなんて思うのかなって」
「なにそれ、変なの」
「そうかな?」
「そうだよ。だって彼女と一緒に歩いてて考えることじゃなくない?」
「あー。そうだね。なにも気の利いたことが話せなくてごめん」
「いいって別に。あたしは丈司くんのそういうとこ好きだよ」
一切気取ることなく急に『好きだよ』と言われて、耳まで発火したのではないかと思うほど顔が熱くなった。どうしたらいいのかわからなくなってしまう。
つかさを見るのは恥ずかしくて――彼女から目を逸らすと――
「どうしたの?」
丈司の様子が変わったのを目撃したつかさが首を傾げた。
「あの人――」
丈司がそう言うと、つかさも振り向いてそちらに目を向ける。
そこには――昨日、大学内をゾンビのようになって徘徊していた男の姿があった。
しかも――
昨日見たときよりも、その異様さはさらに増していた。
なにか見間違えや錯覚でないのなら――彼の身体からなにか黒い粒子のようなものが出ているのだ。その黒い粒子が出ているのを見ていると、どういうわけか丈司の心は不安に包まれる。
なにがどうなっているのか?
人間から黒い粒子が出るなんて――あり得ない。
そして、それ以上に――
人間から黒い粒子が流れ出る光景を――どこかで見たような気がする。
そんなもの――どこで見たのだろうか?
「あの人、大丈夫かな?」
やっぱり、あれは普通ではない。彼はなにかとんでもない事件に巻き込まれているのではないか?
丈司がつかさのほうに目を向けると――
「…………」
彼女は、顔を蒼白して押し黙って彼に視線を注いでいた。
その視線は――以前彼を見かけたときのものとは明らかに違う。
それはまるで――
なにか見てはいけないものを見てしまったかのような――
目をしていた。
「大丈夫?」
「…………」
つかさは反応しない。黒い粒子を放出する彼によって視線と足もとを縫いつけられてしまったかのよう動かない。
「ねえ、大丈夫?」
丈司はもう一度つかさに語りかけた。
だけど――彼女は押し黙って、彼に視線を向けたまま硬直している。
黒い粒子を放出する彼が、硬直してしまうほど美しいものだとは思えなかった。
彼女はなにか知っているのか?
それとも――
「ねえってば。どうしたんだよ」
丈司は意を決してつかさの細い肩を持って揺さぶってみた。すると、硬直したままだったつかさがやっと反応を返す。
「……あ、ごめん。ちょっと立ち眩みしちゃって」
それが本当だとはどうしても思えなかった。
しかし――それを言い咎める勇気は丈司にはなく、「大丈夫なら、いいんだけど」と返した。
気がつくと、黒い粒子を放出する彼の姿は消えていた。曲がり角に消えたのかもしれない。彼が出していた黒い粒子だけがその場に残り、それはすぐに風に流されて嘘みたいに消えていく。黒い粒子が巻き上がって散っていく光景は――そこはかとなく不吉を感じさせた。
なにがどうなっているのだろう?
まったくわけがわからない。
でも――その光景がどうしても自分には関係ないものだとはどうしても思えなかった。何故かはわからないけれど――そう感じられたのだ。
それから――丈司とつかさは無言で大学まで歩いた。お互い別々の授業だったから、別れ際に最低限の挨拶だけして――それぞれの授業を行う教室に向かっていく。
それから――つかさとは顔を合わせなかった。
丈司もつかさも携帯電話もPHSも持っていなかったし、何百人もの学生がいるキャンパス内では偶然顔を合わせる確率はそもそも小さい。
漠然とした不安を感じながらも――時間だけはただ過ぎていく。今日ばかりは、どうして時間の流れは止まってくれないのだろう、と自然の摂理を少しだけ恨んだ。
結局、今日の授業はまったく身に入らなかった。授業が終わり、オカルト研究会の部室に顔を出す時間になっても、朝に抱いた漠然とした不安は残ったままだ。
なにもかも身に入らないまま部室を訪れると――
見慣れない学生が一人いて――
その代わり、つかさの姿はどこにも見当たらなかった。
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