#8
第100話 災厄を呼ぶ悪性1
もうそこに彼女はいない。亡骸もなく、わずかに残るのは少しばかり零れた血の跡だけだ。
僕はもう二度と彼女には会えないのだと、自分がなにをやったのかを――理解したとき――僕はどうしようもないほどの慟哭と絶望に襲われた。
僕は――
僕の選択は正しかったのか?
彼女を――■■■しまったのは。
こうするしかなかった。
それは――事情を知らないものが聞いたら言い訳のように聞こえるだろう。僕だって、自分が当事者でなかったのならそう思うはずだ。
だけど――
死してもなお尊厳を侮辱される可能性を潰すのなら――これ以外僕にできることはなかったのだ。
僕の選択を笑えばいい。
鬼畜だと蔑めばいい。
自分がなにをしたのかなんて、自分が一番理解している。
これが――人として許されないことだなんて、嫌というほど――理解しているのだ。
すべてを理解して――僕はこの選択を選んだ。
彼女を守るために。
彼女の尊厳を守るために。
彼女の欲しかった自由を守るために。
こうするしか――なかったのだ。
他の誰からどんな罵倒をされようと――自分の選択は正しかったのだと、胸を張ろう。死を選んだ彼女の守るために、その亡骸をすべて食らったという選択を。
なにも使わず、自らの顎だけで彼女の亡骸を食らいつくした僕は顎の骨が砕け、口がどうなっているのかもわからない。五十キロ以上の肉をすべて胃に無理矢理押し込んだというのに、満腹感はまるでなかった。
そこに彼女はいない。
だけど――僕の中に彼女はいる。
彼女を守るために――僕はこうするしかなかった。
これ以外、方法など残されていなかった。
僕は――正しい。
間違っているのは――彼女にあんな役目を負わせたあいつらのほうだ。
少し前に聞かされた彼女の実家の話を思い出して――その身を焦がしてしまいそうなほどの熱が身体の奥から湧き上がってくる。
正義は僕にある。彼女を守りたかった僕は――間違ってなどいない。間違っているのなら――こうするしか救えなかった運命の方だ。
彼女をすべて食らってから――そう思ったのは何度目だろうか?
「ははは」
疲労しつくして感覚がなくなった口から笑い声が漏れている。そりゃあ笑いたくもなるさ。人間を――自らの運命を呪い、死を選んだ彼女を食らいつくしたのだから。
「うっ、お、ぐ、え」
人間を食べた――その事実を思い出してしまった僕は急に気持ち悪くなって、その場に嘔吐してしまった。
この部屋が自分の反吐で呑まれてしまうのではないかと思うほど吐いて、やっと嘔吐はおさまってくれた。
自分の吐いた反吐は、おかしな色をしていた。蛍光塗料の入った絵具のような色をしている。こんなもの――人間が吐くものではない、と思った。
けど――
人間が吐くものではないのを吐いて当たり前だ。
僕は――人間を食べた。
致し方なかったとはいえ、それは事実だ。
だから――人を食べた僕は――もう人間じゃないのだろう。
五十キロの肉を胃に押し込める奴が人間とは言えない。
僕は鬼だ。
人を食らった鬼。
そして――復讐に囚われた鬼だ。
それでもいい。鬼だろうが悪魔だろうがなんとでも言えばいい。そんなの、お前らの勝手だ。僕の知ったことじゃない。
この世に存在する壮絶な悪意を知らないお前らに――当たり前のように幸せに生きれるお前らに――僕の怒りは、慟哭は、絶望はわかるはずもない。
ここにはもう用はない。
部屋を見渡す。
ごく普通の――独り暮らしをしている女子大学生の部屋だ。先ほどまであった『なにか』は彼女を食べている間に消失したらしい。
ここには、楽しい想い出がいっぱいある。ここで過ごした日々は――決して忘れることはない。
そして――
身勝手な思いで彼女を食らった僕は――いつまでもここにいたら押し潰されてしまうから。
それに――
この部屋の主だった彼女は僕の中以外にはいなくなってしまった。
だから――ここにいて生まれるのは、悲しみだけだ。
悲しんでなどいられない。
僕は――あいつらに復讐しなければ。
あの――無責任にも彼女にあんな運命を背負わせた彼女の実家の人間たちを――殺し尽くさなければならないのだ。
この身を――犠牲にしても。
僕は立ち上がる。
身体が異様なほどの熱を持っていて、頭がふらふらした。その原因が、五十キロの人肉と骨と臓物を食らいつくしたせいなのかはわからない。
だが――止まるわけにはいかない。
僕の敵は強大だ。強大な敵に立ち向かうには準備がいる。
何年かかってもいい。
なにを失っても構わない。
扉を開けて部屋を出る。
そこは――まだ暑さの残る日常が広がっている。もう朝になっている。朝陽に照らされながら、僕は歩き出した。相変わらず――いや、身体に襲う熱はさらにその激しさを増していた。
それを見て――僕は「どうしてこんなことになった」と思った。
少し前まで普通に暮らしていた僕が――どうしてこんな目に遭わなきゃいけないのだろう。
悪いことは――なにもしていなかった。
そんなに彼女を守るのは悪いことだったのか?
そんなのは――間違っている。
僕一人だけしかいなくとも――この感情は絶対に忘れてはならない。
そんなことをしたら――悪意に呑まれて死を選び、その亡骸すらも食べられてしまった彼女があまりにも可哀想すぎるから――
身体が熱い。
細胞の一つ一つがなにか別のものに変異しているかのようだ。
本当にどこかおかしくなってしまったのかもしれない。
いや――おかしくなっていなければ――人間を一人食べることなんてできないはずだ。
きっと、人から鬼に変わりつつあるのだろう。
それでも構わない。
あいつらに復讐できるのなら――鬼でも悪魔でもなんでもいい。
僕は――彼女の亡骸をすべて食らいつくした僕は――あいつらへの復讐を誓ったのだから。
夢を見ていた。自分が鬼に落ちた日の夢――この宮本丈司という人間を決定的に変えてしまった日の出来事。
あの日から二十五年が経過した。
もうすでに、あのときの熱さはこの身体には残っていない。
だけど――
止まるわけにはいかない。
止まってしまったら――あの日、丈司に食われてしまった彼女があまりにも不憫すぎるから。
そして――
その目的の達成も目に見えてきた。
まだ未熟な少女を利用しての復讐――その所業は鬼に身を堕とした自分に相応しい。
残るカードは二枚。
里見夏穂に白井命。
彼女らを犠牲にして――私は私の目的を達成しよう。
それ以外、丈司にはなにも残されていないのだから。
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