第101話 災厄を呼ぶ悪性2
なにかとんでもない夢を見ていた気がする――なんだかすごい内容の夢だった、と思う。よく覚えていないけれど、夢に出ていた男はとんでもなく悲しそう――いや、心から絶望をしていた。なにがあればあんなことになるのだろう――と、授業中に居眠りをしていた宮本丈司はまだ眠さの残る頭でそんなことを考えた。
「どうしたの? 居眠りなんて珍しい」
そう言ったのは隣に座っている結城つかさだ。別段怒っている様子はない。ただ不思議そうにしていた。彼女と丈司は、三ヶ月ほど前から付き合っている。
丈司は男子高出身なので、女性を付き合うのはこれが初めての経験だった。だから、まったく勝手がわからなくて、たびたび困ることも多いけれど、自分的には楽しくやれている。彼女も同じように楽しいと思ってくれていればいいんだけど――女性がなにを楽しいと思うのか、丈司にはいまいちわからない。
「なんだか眠くってさ。ちゃんと寝たはずなんだけど――」
「ま、そういうときもあるよね。退屈な授業だし」
つかさはシャープペンをいじりながら軽く言って笑った。自分とは少し違うイントネーションの言葉に丈司は少しどきりとしてしまう。
つかさは京都の出身だ。しかも噂によると、なんだかすごい名家であるらしい。
改めて丈司はつかさを見てみる。
うん。
確かに、すごい名家の出身だというのはわかる。気取ってはいないけれど、普段纏っている雰囲気とかいうものが一般家庭の人間とは明らかに違う。とても優雅で、気品がある。しかし、その優雅な気品は鼻につくものではない。ちゃんと表現するのは難しいけれど、そんな風に思う。
「なに? あたしの顔になにかついてる?」
「い、いや。なんでもない」
「ふーん」
つかさは丈司のことをからかうような口調で悪戯っぽい笑みを見せる。なんだか自分のことを見透かされているみたいで恥ずかしい。別に、邪なことは考えていなかった――んだけど。
なんとも言えない恥ずかしさに襲われ、言葉を返せずにいるとチャイムが鳴って、ギリシャ哲学についての授業は終わりを告げる。今日はプラトンだったっけ?
教授が去っていくと、生徒で埋まっている大教室がだんだん騒がしくなっていった。
つかさは大きく伸びをして――
「いやあ、毎度のことだけど退屈な授業だったね」
「そうかな。僕は結構楽しんでいるけれど」
確かに、哲学の話は小難しくて、わけのわからない話が多いけれど、丈司は結構好きだった。なにしろ、二千年も前の人間が現代にも通用する考えをしていたのだ。そんな大昔にそれだけの思索ができるなんてすごいと思う。哲学科に入ったのは、成り行きみたいなものだったけれど――悪くない選択であった。
「寝てたのに?」
「そりゃあまあ、今日は寝ちゃったけどさ。だからといってつまらないってわけじゃないだろ?」
「ま、丈司くんが楽しんでいるのならあたしはなんにも言わないけど。そういうの口に出したくないし。あたし、彼氏の趣味には寛容なタイプだから」
彼氏――と言われて、自分はつかさと付き合っているのを改めて実感した。何故、彼女は自分と付き合っているのだろう、とだんだん不思議になってくる。
「あ、どうして自分なんかと付き合っているんだろう? って顔をしてる」
「な……」
またしても自分の思考を見透かされてしまって恥ずかしくなった。どうしてつかさは自分が考えていることがわかるんだろう? なんてことを思う。
「やっぱり。自分なんて――とか思っちゃ駄目だよ。あたしの彼氏なんだからもっと堂々としてよ。それともあたしが彼女なのがそんなに恥ずかしい?」
「いや、その――恥ずかしいは思っていないけど――なんだろう、別の意味で恥ずかしいというかなんというか……」
歯切れの悪い言葉しか出てこない。どうして口っていうのは回ってくれないんだろう。
「別の意味で恥ずかしいってどういうこと?」
「いや、えっとその……」
丈司はもごもごと口ごもる。つかさに視線を向けると、やっぱり丈司をからかうような笑みを見せていた。
――からかわれてばっかりだ。彼氏らしいことなんて一つもできていないような気がする。まあ、正直なところ、付き合う前からこんな風にからかわれていたのだけど。
「じゃ、恥ずかしくないのならキスしよっか」
「え?」
つかさの思いがけない言葉に丈司は驚愕する。
彼女はいまなんと言った? 丈司の耳がおかしくなっていなければキスとか言ったと思うのだが――
「い、いまなんて……?」
先ほど聞いた言葉が本当とは信じられなくて、丈司は問い返していた。
「キス。しないの?」
「しないのって……こんなところで、その……」
というか、まだ大教室には何十人といる。こんなところでキスなんてできるわけがない。そもそも、デートのとき手を繋ぐのだって恥ずかしくて死にそうになるのに、公衆の面前でキスなんてできるはずもなかった。
「へえー。あたしとキスしたくないんだ」
「そ、そうじゃない、けど……」
「けど?」
つかさは首を傾げて言う。その動作がまた可愛らしい。
「こんなに人のいるところじゃ……無理」
「…………」
丈司の言葉を聞いて、つかさは無言で満面の笑みを浮かべている。またからかわれている気がする。
「じゃ、人がいないところだったらいいんだ。じゃ、今度のデートで人のいない裏路地とかでしよっか?」
「…………」
気がついたら外堀を埋められていることに丈司は驚愕した。なんだか、いいように右に左に振り回されている。
「じゃ、キスの確約もとれたし、ご飯食べに行こ」
つかさは軽く言って立ち上がった。いつの間にか、ノートやら教科書はすべて鞄にしまっていた。
「ちょ、ちょっと待ってよ」
丈司は急いでノートと分厚い教科書を鞄にしまって立ち上がった。
立ち上がると――つかさの手が丈司の手に絡められて――
変な声を出しそうになったけど、それはなんとか抑えることができた。
「どうかした?」
「なんで手を握ってるの?」
「なんでって、付き合ってるんだし、手を繋ぐのくらい普通でしょ」
細くて白い手でつかさは丈司のことを引っ張った。さっきからずっといいように手玉にとられてばっかりで、情けなくなってきた。
丈司とつかさは手を繋いだまま歩き出して、教室の外に出る。教室の外は昼休みらしくとても騒がしい。なにか変な目で見られていないだろうか、なんてことを思うけれど、特に気にする者は誰もいない。キャンパス内にカップルなんていくらでもいるのだからそれは当たり前なのだが。少し自意識過剰になり過ぎだと自分でも思う。
「ねえ、あの人」
つかさのその言葉を聞いて、彼女が見ている方向に目を向ける。
そこには――
まるでゾンビみたいな足取りで歩いている男がいた。その様子は、明らかに普通ではない様子で――
「大丈夫かなあの人。なんか魂抜けたみたいになってるけど……内定取ったのに単位が足りなくて留年確定でもしたのかな?」
それはきつい。きついと思うけれど――彼はそういうことがあって、魂が抜けたみたいになっているとは思えなかった。
「心配だし、声かけてみる?」
「うん」
丈司とつかさは、ゾンビたいな足取りで歩いている彼に近づいて話しかけてみた。
だけど――
彼は大丈夫大丈夫と、とても大丈夫には見えない様子で繰り返すばかりでまるで要領を得ない。無理矢理なにかするわけにもいかないので、丈司とつかさは煮え切らない感情を抱いたまま、彼のもとを離れた。二人が離れても、彼の様子はまったく変わらなかった。本当に大丈夫なのだろうか?
「ま、なにかあったら警察なり救急車なり呼ぶでしょ。
ところで――丈司くん、今日はサークルに顔出す?」
「うん。特にやることもないし。今日は四限まであるからちょっと遅くなりそうだけど」
「じゃ、お昼食べたらお別れだね。あたしは図書室で暇潰してるから。授業サボるつもりなら遠慮なく声かけて」
「いまのところサボるつもりはないけど――気が変わったらそうするよ」
丈司とつかさは、かっちりと指を絡めたまま、学食へと向かっていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます