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第85話 透明人間の逆襲1

 父が倒れた――その話を聞いたのは秋休みが終わってすぐのこと。


 夏に帰省したときにはぴんぴんしていたはずの父が倒れた――それは私にとってとてつもない衝撃だった。人生百年時代と言われるようになった昨今、父はまだ五十にもなっていないのに。


 父が倒れた原因はガンであった。


 ガン――未だ人類が克服できぬ重病――現代における主要な死因の一つ。少し前まで健康そうにしていた父がガンになったなど、最初はまったく信じられなかった。


 だが――


 学園に届けを提出して、父が入院している病院に赴き、ガンに侵された父を見たとき、それが紛れもない現実であることを理解した。


 理解せざるを得なかった。


 ガンに侵された父はもともと痩せていた体形だったが、さらにやせ細ってしまい、顔色も悪く、誰が見ても父が病人であるとわかってしまうほど弱っていたからだ。


 わたしは――心配になって――同時に、とても怖いと思った。ガンという病を――心から。


 私はどうすればいいのかまったくわからなくなった。はじめは就職したほうがいいだろうかと思ったけれど、三年の秋になって高校を中退して就職をするわけにもいかない。そもそも月華学園は進学校だ。


 国立大、難関私立大への進学実績は多くあっても、就職の実績はほとんどなく、教師の多くも高校生の就職に関するノウハウは持っていないはずだ。さらに言うなら、生まれてバイトもしたことのない私がこの時期に就職活動を始めても卒業までに就職などできるはずもない。


 そもそも、こんな時期に中退なんてしたら、いままで払った学費だってすべて無駄になってしまう。


 幸いなことに、父の手術は成功した。

 いまでは体力も戻りつつあり、仕事にも復帰している。


 しかし――十年以内に転移して再発する確率は高く、その場合は覚悟してください、と医者から説明された。それは――死の宣告に等しい。再発したときに就職して自立できていればいいが――そうでなかったらどうしよう。そうなったとき、私が選ぶべきものはなにか? いくら考えても――


 なにが正しい選択なのか、まるでわからない。

 夏が終わり、受験も近づいてきた時期に――私は暗黒に襲われた。


 なにをすべきなのか――

 なにをしたらいいのか、まるでわからない。

 なにを選択しても間違いに思えてしまう。


 本当に――どうすればいいのだろう?


 わたしにできることはなにもないのか? なにもないことはわかっていたけれど――なにかしなければならない気がしてならなかった。


 父は私と弟に「ちゃんと大学を卒業させてやる」と言ってくれたけど、それでもやっぱり、なんとかして父の負担を軽減させたかった。


 できそうなこととして思いついたのは――志望校の変更だ。私は進路を私立大に決めて受験勉強を進めていたが――いつガンが再発するかわからない父への負担を減らすために、自宅から通える距離の国立大に第一志望を変更した。


 だが――突然の変更ということもあり、とても安泰とは言えない。S大学の判定はBで、自宅から一番近くにあるT大学に至ってはCだ。父の負担を減らそうとして志望校を変更して浪人になったら意味がない。なんとしても、現役で合格しなければと思う。もともと勉強自体はちゃんとやっていたから、本試験まで三ヶ月しかなくともなんとかなりそうだが――こればかりは実際に受けてみないとなんとも言えないところである。


 だから私は――父のこと、そして突然の進路の変更で焦っていた。


 そんなとき――私の耳に舞い込んできたのが、『願いを叶えてくれる悪魔』の話だ。


 なにしろ噂によれば――どんな願いも叶えてくれるらしい。


 はじめは馬鹿馬鹿しいと思ったけれど――知り合いやクラスメイトからいくつも『本当に願いが叶った』なんて話を聞いているうちに――


 もしそれで父のガンを完治させられるのであれば――これに縋ってもいいのではないかと思った。


 いや――ガンの転移しない完治は――『悪魔』に願うより他にない。『悪魔』に願って父を治せるのなら、それでいいと思った。それくらいしか、私にできることなんてなかったから。


 だけど――


『悪魔』に願いを叶えてもらうには、なにかやる必要があって――それがなにか私には全然わからなくて――さらに焦っていった。口止めされているのか、願いを叶えてくれた娘たちもその『なにか』について誰も教えてくれなかった。


 不可能を可能にできるかもしれない手段があるのに、それができない――それはとても口惜しくて歯がゆくて――


 どうして自分にそれがわからないのかと、嫌になっていく。

 嫌になってイラついて、私はさらに焦っていった。


 私が二の足を踏んでいるうちに――学園中で大混乱が起こって――それが治まると、『悪魔』の噂はぱったりと途絶えてしまった。


 まるで、『悪魔』そのものがいなくなってしまったみたいに。


 せっかく『悪魔』に願いを叶えてもらうために必要なことを知れたのに――私の望みを叶える術は完全に断たれてしまったのだ。


 私は絶望して――

 同時に、強い怒りを覚えた。


 しかし、無力な私になにかできるはずもなく――

 絶望と怒りに震える私の前に現れたのが――あいつだった。


 学園にいる数少ない男性教師のはずだけど、そのときだけは何故か名前が出てこなくて――


「私に協力してくれるのであれば、きみに協力しよう」


 男性教師は唐突にそう言った。

 協力――一体この男はなにを望んでこんなことを言っているのかまるでわからない。


 だけど――


 黒い憎悪と怒りと絶望に襲われている私は、それに縋るしか道は残されていないと悟り――「協力ってなにをすればいいの」と男性教師に訊いていた。


「なに、たいしたことではない。私が与える力を使って、ある生徒を襲ってくれればいい。その生徒は――」


 男性教師はその名前を告げた。


 そいつは――間違いなく私の望みを断ったあいつの名前だ。そうだ。あいつさえいなければ――私は父を救えたのに。


 悪いことをする――それに対する罪悪感はまるでなかった。


 願いを叶えられるのであれば、あの男性教師が『悪魔』以上に悪辣な存在であっても構わない。


 そうでなければ、私の願いは叶わないのだから。


「では、きみに力を与えよう。目を瞑っていたまえ」


 私は言われた通り目を瞑って、なにかにかまれる感触と異物が入り込んでくる感触が広がって――


 私は、復讐を成し遂げる力を手に入れた。

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