第67話 略奪の悪魔21
小さな女の子が真っ黒な闇の中で倒れている。どこかで見た覚えのある娘だったけれど――よく思い出せない。
でも、自分ではないことは確かだ。自分には――あんなものに浸かった記憶なんてなかったから。
だってあれは――
そこで気づく。
あれは――なんだろう?
あの娘にまとわりつく真っ黒な闇は一体なんなのか?
少なくとも――生物には見えないし、生物とも思えなかった。そう思いたくないほど、あの真っ黒な闇からは禍々しさが感じられる。あんなものが生物であるはずもない。あれは――別の『なにか』だ。
まったくわからないけれど――いいものでないのは確かだと思う。
そんなものが、まだ小学生になったばかりくらいの小さな娘を食らっている――その光景はとてつもなく恐ろしかった。あんなものにずっと触れていたら――
死んでしまう、そう思った。
だけど、どれだけ手を伸ばしても自分の手はその娘には届かない。空を切り、触れられず、無慈悲に闇に食われるあの娘を見ていることしかできなかった。それがとても悔しい。
泣けなくなってしまうほどつらい思いをしているあの娘をどうして自分は助けられないのだろう? 自分は、なに一つとして特別なものを持っていないからだろうか?
あの娘を助ける資格がないとでも言うのか?
ひどい目に遭っている誰かを救うのになにか必要なのか?
まったく理解できない。どういうことなんだろう。こんなの理不尽じゃないか――
自分の無力を嘆いている間も、あの娘は真っ黒な闇にその小さな身体を蝕まれ続けている。あの娘は死んでいるかのように動かない。見開いたままの目は彼方へと向けられ、光は完全に消えている。あそこにはもうなにも映っていない。
あの娘は、真っ黒な闇からどんな苦しみを味わわせられたのだろうか?
自分には想像もできない苦痛をいまも受けていることは明らかだ。自分よりも十歳は年下と思われるあの娘はなにをしたのだろう?
ただの理不尽であんな目に遭っているのだとしたら、あまりにも惨すぎる。
どれだけ自分の無力を嘆いても――
どれだけ自分の無力を悔いても――
真っ黒な闇の中にいるあの娘は自分の目の前で苦しみ続ける。
一切反応しなくなってしまうほど――
死んだも同然になってしまうほど――
地獄のような苦痛をあの真っ黒な闇から受け続けるのだ。
自分になにかできたのなら――
自分に力があったのなら――
いまここで、手を伸ばせたのなら――
あそこで苦しんでいるあの娘を――助けられたかもしれないのに。
どうしてできないのだろう?
それができれば――彼女の未来を変えられたかもしれないのに。
普通の女の子としての人生を歩めたかも――しれないのに。
もし、次があるのなら――
あの娘を助けられるだけの力がありますように、と願うことしかできなかった。
「あれ……」
いままでなにをしていたのだろう? 意識を取り戻したきらが思ったのはそれだった。まわりにあるのは机と椅子。この場所がどこかの教室らしいことはわかった。
だけど――
先ほどまで自分は寮にいたはずだ。どうして校舎にいるのだろう? まったく身に覚えがない。というかここに来るまでなにをしていたのか、その記憶が完全に抜け落ちている。それをはっきりと自覚してしまって、きらは少しだけ恐ろしくなった。
「……っ」
身体を起こすと同時に感じられたのは妙な臭い。それが教室中に充満しているようだ。腕で鼻と口を覆って、できるだけその臭いを遮断する。一体なんの臭いだろう? あたりを見回しても、臭いを放つようなものはない。
「あ……」
きらから五メートルほど先のところに誰かが倒れている。色の薄い髪の毛が見えて、それが誰なのかすぐにわかった。
あそこで倒れているのは間違いなく――
と、そこで背後から扉が開かれる音が聞こえてくる。
真っ暗な教室で突然聞こえてきたその音できらは飛び上がりそうになった。きらは恐る恐る背後を振り向く。そこにいたのは――
命だった。
どういうわけか、命は驚きを浮かべていた。明かりの乏しい教室でお互い沈黙したまま立ち尽くす。
一体なにがどうなっているのか、なにもわからない。
自分がどうしてここにいるのか――
命がどうしてここに来たのか――
そして――
自分の目の前で夏穂が倒れていたのか――
なにもかも、わからない。
なにもわからなかったけれど――それをわかってはいけない気がするのは何故だろう?
もしかして自分は――
そこで感じられたのは自分よりも遥かに温かな体温。ふと目を向けると、自分の手を命が握っていた。きらの手を両手で握りながら、彼女は無言できらを見上げている。
やっぱり、喋ってくれなかったけど、この娘がなにを言いたいのかわかった。
「んー」
背後から気の抜けた声が聞こえてくる。どうやら倒れていた夏穂が目を覚ましたらしい。きらと命は手を繋いだままそちらに振り向いた。
「あれ」
どういうわけなのか、きらの顔を見た夏穂の顔はやけに驚いているように見えた。そのうえ、彼女の手足は結束バンドで拘束されている。
どうしてさっきからこんなに驚かれているのだろうか、ときらは疑問を感じた。なにがどうなっているのだろう?
「あの、どうかした?」
「……いや、無事だったんだって思って。ま、別に気にしなくていいわ。無事なら無事でいいわけだし」
「?」
夏穂がなにを言っているのかまったくわからなくて、きらは首を傾げるしかない。
でも、気にしなくてもいいというのはなんとなく納得できた。
「えっと、大丈夫?」
「うん。でも、これを外してくれると助かるな」
いつも通り、まるで人らしさが感じられない口調で夏穂はそう言った。
でも、結束バンドを外せるものなんて――と思っていると、ポケットの中になにかが入っていることに気づいた。
ハサミだ。
どうして都合よくハサミなんて持っているのだろう?
疑問に思ったけれど、それについては考えてはいけないような気がして――とりあえず、それを使って、夏穂の手足を拘束している結束バンドを切った。
拘束を解かれた夏穂はすぐさま立ち上がる。
なにがどうなったのか、彼女に訊こうか迷っていると――
「おい。こんな時間に誰かいるのか?」
と、声が聞こえてきて――
すぐに声の主が教室に顔を覗かせた。ライトを持って現れたのは夏穂たちの学年主任である。学年主任は顔をしかめて、きらたち三人に視線を向けた。
「なにをやっているお前たち」
「いやあ、ちょっと忘れ物をしてしまいまして。それでこっそり開いてる窓から忍び込んだんですけど――あ、でも、そっちの二人は暗い校舎に一人で入るのが怖かったんでついてきてもらっただけでなにも悪くないので、怒るなら私だけにしてくれませんか?」
一切思ってもいないことを夏穂は滔々と学園主任に述べた。
「……まあいい。今日は色々とあったからな。見逃しておいてやる。さっさと寮に戻れ」
そう言った学年主任はかなり疲れている様子だった。
無理もない。つい何時間か前まで、学園中で混乱が起こっていたのだ。色々と対応していたことは伺える。
「それじゃあ失礼しまーす」
気の抜けた声で夏穂はそう言って歩き出した。きらと命も学年主任に一礼して、彼女の後ろについていく。
しばらく歩いたところで――
「阿黒さん。今日のことは本当に気にしないほうがいいわよ。世の中には気にしなくてもいいことってたくさんあるし――今日のこともその一つね。そもそも、あなたが悪いわけではないし」
「…………」
夏穂が言ったその言葉に、きらはどう反応すればいいのかまったくわからなかった。
きらがなにも言えないままでいると――
「今日のことは気にしなくていいけれど――あなたが構わないのなら、これからも命と仲よくしてくれると嬉しいかな」
そんなの――当たり前だ、と言おうとしたけれど、その言葉は口から出てくれなかった。
「それと、一つだけ謝っておきたいのだけど――寮に帰るまでに変なものに襲われたらごめんなさいね。私も命も、夜に外出すると変なものを呼び寄せてしまう体質だから。夜って、怪異の時間でしょう」
「え?」
なにかの冗談と思ったが、その数分後、校舎の外でべたべたした謎の液状の存在に襲われてしまったのも――気にしないほうがいい話なのだろう。
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