第20話 嫉妬の夢魔10
絶対にばれない犯罪ができてしまうのは相当に人間をゆがませる――私はその甘美なる猛毒にやみつきになっているらしい。
自分はいけないことをしているのだと、悪いことをしているのだという実感と意識は確かにあった。私が夢でなにかをやれば、いまのところ完全に再現されないとはいえ、それは実現してしまうのだ。こんなの悪いことに決まっている。
――だが。
悪いことをしている自覚はあっても、私はこの誘惑をはねのけることはできなかった。
それほどに、悪いことをしたときに感じられる味は美味なのだ。
それに抗えないのは、私が特別弱いからではないと思う。きっと、多く人間が私と同じ機会に恵まれたのなら、同じことをするはずだ。絶対にばれないのなら、ほとんどの者は魔が差すに違いない。
誰にでも悪しき感情はある。そこに例外は一切ない。聖人と呼ばれる誰かであっても、悪の一面は必ず存在するはずだ。悪を持たぬものは人ではない。である以上、誰であっても悪はなしえる。それは絶対に避けられない。それが人間という生き物だ。
私が手に入れたこの力は、その隙に入り込んでくる。
誰もが持っている、悪い部分を増大させて。
呪いのように、心の中を真っ黒く染め上げていく。
きっと――何日か前の私はいまの私を軽蔑するに違いない。
平然と悪いことができるようになったいまの私を心から――
軽蔑すると思う。
それでも――
私は今日も夢を見る。
現実では絶対できない、悪いことをするために。
ころころ変わる非現実的な世界を次々と渡っていく。
最近、夢をどうやって渡ればいいのかコツもつかめてきた。それを言語化できないけれど、私は確かに夢の扱いが上手くなっている実感が間違いなくあった。
色々やって、わかったことがある。
私は夢の中では神に等しい存在であるらしい。
なにしろ、夢の中では自分が望むことをなにもかも起こせてしまうのだ。
なにもないところから自由に物を創り出すことも、自分が殺した誰かだって蘇らせることができる。
現に――
いま私の目の前で、私からあの愛しき人を奪った小娘の死体がある。見るも無残な姿になって、物言わぬ骸と化していた。大量の刃物が全身に突き刺さっていて、滑稽なオブジェとなっている。ついさっきまで車に轢かれたカエルみたいに動いていたが、いまはまったく動かなくなった。その姿は前衛芸術といえるだろう。
今日だけで私は何度こいつを殺してやっただろうか。
もう回数も覚えてない。五回目くらいまで数えていたけれど――次第に面倒になって数えるのもやめてしまった。少なくとも、十回は殺したのではないだろうか。
何度も殺しても、私の中で燃える憎しみは消えることはない。
それぐらい、私から里見さんを奪ったこの娘を憎んでいる。
無数の短い刃物が根元まで刺さってサボテンのようになった死体の頭部を思いきり蹴りつけてみた。実際の感触はどんなものかわからないけれど、それはとてもリアルに感じられた。なかなか生々しい。
だが、それすらもいまの私にとっては愉悦である。少し力が強すぎたらしく、蹴られた頭部は胴体から千切れて飛んでいった。それなりの蹴り心地である。何メートルか飛んだあと、熟れ過ぎたトマトが地面に落ちたときのような音を立てて汚らしく潰れたのが見えた。とても愉快な光景だ。
しかし、悪に堕ちたとはいえ、これ以上損壊するのは少しだけ気が引けた。もとに戻してもう一回殺してやろう。そう私が考えると、無残に損壊されていた小娘が元通りになった。身体中に突き刺さった刃物はすべて消え、大量に流れていた血も、蹴られて千切れ飛んで潰れた頭部も、傷口からはみ出ていた内臓ももと通りだ。実に素晴らしい。
もとに戻ったその姿を見て、私はさらに嫉妬の炎を燃え上がらせた。この娘がただそこにあるだけで私には我慢ならない。どうしてこんな奴が里見さんの隣にいるのだろう。おかしい。そんなの絶対に間違っている。間違いは正さなければならない。そんなのは当たり前だ。常識と言ってもいい。
どうせ、この場所において命は安い。私はちょっと思考するだけでなにをしようが、どんなものでも思い通りだ。思い通りにできるものに価値なんてあるはずがない。
それに――
これだけ殺してやったのだから、きっとあの娘はそう遠くない日、現実の世界でひどい目に遭ってくれるだろう。死ぬまで何度でも夢の中で殺してやる。
やがて訪れるその現実が楽しみで仕方ない。こんなにもたくさん殺してやったのだから、何回も愉快な姿を見せてくれる――私はそんな確信を持っていた。
いままでは凶器を使って殺していたけれど、今回は自分の手だけで殺してみよう――そんなことを私は考えた。
あの汚らわしい小娘に触るのは不愉快だけれど、一度くらい自分の手に殺した感覚があってもいいのではないかと思ったのだ。
何度も殺している私が近づいても、あの小娘は木偶のように動かない。なんて愚かなのだろう。きっとなにもかも悪いに違いない。
私は小娘の首をつかんで――
両手に力を込めたそのとき、
「え?」
とても柔らかくて不気味な感触のものを握った感覚が手の中に広がって――
不気味すぎる音を立ててそれは潰れ、潰れたそれは真っ黒なものに変化して、そいつは、私を――
「……っ」
私はいつの間にか現実の世界に戻っていた。間違いようがない。四年半暮らしている寮の部屋である。カーテンの隙間からは光が差し込んでいた。もう朝になっている。当然、自分の思った通りに世界を動かせない。ここでは私はただの人間だ。悪いことができるようになってしまっただけの、無力な人間。
私は夢での出来事を思い出し、自分の両腕に視線を落とす。
夢の最後、万能にして全能であったはずの私をすべて埋め尽くしたあの黒い『なにか』は影も形ない。私の身体に一切の異常がないのは確かである。
だが、あの黒いものをつかんだときの感触はいまだに私の手に残っていて――
あれは、なんだ?
自分に押し寄せてきた『あれ』を思い出すだけで、背筋が凍るほどの恐怖を抱いた。あれは見てはいけないもの――いや、見たら必ず死んでしまうものだろう。私は夢の中でとはいえ、そんなことをしてしまったのだ。
なにがあっても絶対触れてはいけないものに、触れてしまった――
それを思い出すだけで、底知れない恐怖で震えが止まらなくなってくる。
まだ残暑が厳しい季節のはずなのに、寒くて仕方なかった。この寒気は、身体的な不調によって発生しているものではないのは明らかだ。
この世のものとは思えないほどの黒さを持ち、『なにか』を特定する部分を徹底的に排し、顔も形も一切持たない――人間には形容できない異質な存在。
何故あんなものが私の世界に現れる? 私はあの世界において、神にも等しい存在であったはずなのに。
そんなこと、あっていいはずがない。
私の中には恐怖と怒りが混ざり合った混沌とした感情の渦が巻き起こる。それは複雑極まりない暴風であった。混沌と荒れ狂う暴風は私の中から溢れ出しそうになっていた。
神にも等しい存在にたて突く存在など許されていいわけがない。
そんなの、当たり前じゃないか。
あそこはあらゆる事象が私の手に委ねられているのだ。そこで私のことを無視していい理由など一厘もない。あの世界で私に逆らうというのは、この世界で物理法則を無視するのと同じことなのだ。
だけど――
怒りを燃やし、感情を奮い立たせても、あの黒い『なにか』に対する恐怖は消えてくれなかった。
あの世界でなら、どんなものだろうと思うままにできるとわかっているのに。
あの黒い『なにか』に対して抱く恐ろしさはまったく消えてくれない。
未だに、その恐怖は増大を続けている。
私の内部を食らいつくす獰猛な獣のように、あの黒い『なにか』に対する恐怖はどこまでも身体の中を浸透し、そして縦横無尽に音も立てずに駆け巡る。しかも、ものすごい速さで。現実の世界においても、私の身体はもうすでに夢の中と同じようにあの黒い『なにか』に侵食されているのかもしれない。
夢の中と同じように、私の身体は黒い『なにか』をつかんだときと同じく、真っ黒に染まっているのではないか? 気づいていないだけで、私はもう私でなくなっている、そんなことを思ってしまう。
正体がわからない。それだけでここまで怖いものなのか。その事実は、全能感に満たされていた私を愕然とさせた。
――震えているわけにはいかない。
得体がしれなかろうと、あれは私の邪魔をしてきたのは事実だ。それは絶対にあってはならないことである。
今後も現れるようなら、どうにかしなければいけない。
夢の中で、自由気ままに悪さをするために。
あの小娘を――殺してやるために。
だが――あの正体のわからない『なにか』をどうにかできるのだろうか? そんな弱気が私の心に現れてしまった。あれにはすべてが無意味としか思えない。どのように考えたって、夢の中にいる人間と同じように殺せるはずがないのは明らかだった。
――どうしてそんな弱気になっている?
私は自らを罵倒した。
私はあの世界において、すべての事象を思うままにできる全能者なのだ。
だから――できるはずだ。
相手の正体がわからなかろうと、私は夢の中では全能である以上、どうにかできて当然である。できなければいけないのだ。
自分で自分の能力を狭めるな。そう自らを戒める。
それはわかっていた。わかっていたはずなのに――
あの黒い『なにか』を撃退できるビジョンは一切浮かんでこない。
どのようにやっても、夢の中と同じように――
その日、私は久しぶりに授業中に夢を見なかった。
あの黒い『なにか』を撃退できる手段を思いつかなかったからだ。
再び、夢の中にあの黒い『なにか』が現れると思うと、とてつもなく怖かったからである。
またあれと遭遇して、どうにかできる自信はなかった。
しかし、あれをどうにかできなければ、私は夢の中で全能者として振る舞えなくなる。そんなのは嫌だ。せっかく、すべてを凌駕する娯楽を手に入れたのに、それができなくなるなんて我慢ならない。あっていいはずもない。
どうにか、しなければ。
どうすればいいのだろう?
正体がわからないものをどうやって殺せばいい?
いや、そもそもあれは殺せるのか? どのように見たって、あれは生物ではないはずだ。生物ですらないものどうやって――
殺せば、いいのだろう?
恐怖と怒りと嫉妬と困惑が混沌と渦を巻く中、授業が終わり部屋に戻ると――部屋の扉に紙が挟まっているのが見えた。
不審に思ってその紙を抜き取って開いてみる。
そこには――
お前が悪夢を見せていることは知っている。明日の朝、八時に体育館裏に来い
と、個性の欠片もない文字が印刷されていた。
その文字を見て、私は少しだけ動揺し――
そのあまりにも不遜な態度に怒りを感じた。
これは、あの黒い『なにか』からの挑戦であり挑発だ。
いいだろう。受けてやろうじゃないか。
そうやって自分を奮わせると、私の心に現れた恐怖は弱まってくれた。
私の邪魔をするのはどういうことなのか――それを思い知らせてやる。
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