第19話 嫉妬の夢魔9
頼られてしまった以上、なんとかしてやらねばなるまい。昨日の夜、怯えながら夏穂のベッドの中にもぐり込んできた命のことを思い出した。
いまのところ、命には夢で起きた出来事と類似する事故は起きていない。
だが――夢で起こったことが現実に影響するのなら、そう遠くない日になにか起こってもおかしくないだろう。夢の中で誰かが落下死するのを目撃した次の朝に、現実において同じ人物が実際に階段から落下したのだから。
――少し考えてみよう。
いまのところ、夢が現実に及ぼす影響はそれほど大きくない。夢の通りになるのなら、階段から落ちた生徒は夢と同じく死んでいるはずである。しかし、そうならず、階段から落下した生徒は頭を打って軽く出血して、脳震盪を起こしただけだ。それは、夢から現実に及ぼす影響力がまだ弱いことを証明している。
恐らく――
まだ、慣れていないのだ。
やがて現実化する悪夢を見せている誰かは、ここ最近になってその力を手に入れたことに間違いない。だから、現実には強い影響を及ぼせないのではなかろうか。夢での出来事と現実で起こる出来事のギャップがその証明と言える。少なくとも――いまはまだ。
この怪異をこのまま放置していれば、その力は増して、夢と現実のギャップは小さくなっていくはずだ。
そうなると――
夢の中で殺された人間が、夢と近い形で現実でも殺されてしまうのは火を見るより明らかである。
それに、『選別現象』に遭遇して体質が大きく変化した命と夏穂の場合、普通の人間よりも遥かに怪異の類との反応をしてしまう。夢でなにか起こった場合、自分たちが普通の人たちよりも強い影響を受けることは可能性として充分考えられる――夏穂はそれほど問題ではないが、命にとってはそうではないだろう。
である以上、さっさと解決したいところだが――あいにくと悪夢を見せている誰かに心当たりはまったくない。昨日、寝ているときにちょっかいを出したが、あまり効果はないだろう。その程度で済むのなら、何度も夢の中で殺したりしないはずだ。
さて、どうしたものか。
いまのところ、夏穂にこの怪異を解決する手段があるわけではない。できる可能性はあるものの、そこには運が絡んでいる。確実性なんぞまったくない。だが、いま行える手段はこれだけだ。
駄目だったら、駄目だったときになにか他の手段を考えればいい。
それだけの話である。
それに――準備があるから、この手段がうまくいったとしても解決は明日だ。そうなると必然的に、最低でもあと一回――今日の夜も悪夢を見てもらわなければいけない。そこだけはいただけないところなのだが。
そんなことを考えながら、夏穂が向かっているのは一年生の教室だった。
一年生の教室に向かう理由はただ一つ。夏穂の話を聞いてくれる知り合いがそいつしかいないからである。
夏穂が頼ろうとしているのは、後輩の清瀬姫乃だった。
あいつに頼ると面倒なことになるのは確かだ。しかし、それに目をつぶってでもいまは一つでも多く手と足の数を増やしておきたい。たいしたことは一切しないものの、単純に作業量が多いからだ。
夏穂が姫乃のいる一年生の教室の中に入ると――
「あ、先輩じゃないですかもしかしてあたしにご用でしょうか? それともあたしを誘拐にしにきたのでしょうか? ええどうぞお願いします。あたしのことなんかゴミのようにひどい扱いをして攫ってください! 先輩の頼みであれば、どんな変態プレイにも応じますので! どうぞ。早く。ハリーアップ」
夏穂の姿を目撃するなり、黄色どころか極彩色の声で一気にまくしたてながらこちらに近づいてくる姫乃であった。その声は共感覚の人間が聞いたら卒倒しそうなほど明るくて眩しくてうっとうしい。
「…………」
「どうしたんですか黙っちゃって。もしかしてあたしがあまりに可愛いせいで……」
「あほか」
埒が明かないので、夏穂は鼻息荒く近づいてきた姫乃に蹴りを入れる。蹴りを入れられた姫乃はどういう思考回路をしているのか、「いやーん」とかいう、極めてあほくさい嬉しそうな声をあげていた。
「ああん、先輩ったらひどい。でも、そんな塩対応してくるところが素敵……」
蹴られたにもかかわらず、何故か顔を赤らめる姫乃であった。どういう風に育ったら、思考回路がこんなヘンテコになるのだろうかと夏穂は思う。
普段なら姫乃の戯れに付き合ってもいいが、あいにくといまはそんな時間はない。
「そういうのあとで付き合ってあげるから。ちょっと手伝ってほしいことがあるんだけど」
「なんでしょう。この姫乃、先輩の奴隷ですのでなんなりとご命令ください。というか、付き合ってくれるって言いました? 言いましたよね?」
姫乃の目は星が飛び散らんばかりに輝いている。
「はいはい。言った言った。でも、いまちょっと面倒に巻き込まれてるからあとでね」
「えー。まあいいでしょう。言質取りましたし、我慢してあげましょうじゃありませんか。あ、ちくしょう。録音してねーや。ま、これを反故にするつもりなら地の果てまで追いかけてやらせるつもりなのでそこんとこよろしくお願いしますね」
「……仕方ない」
……面倒を減らそうとして、違う面倒が増えた気がする。
しかし、人望どころか一緒に昼を食べる友達もいない夏穂にはこいつ以外に頼れる人間がいないのは事実であった。
それに――
この後輩は馬鹿な発言ばかりしているが、本当に馬鹿だから馬鹿な言動をしているわけではない。
演じている――のかは不明だが、姫乃の普段の言動には意図的に馬鹿に見せている節があるのは間違いなかった。
本物の馬鹿は救いがないが、なにもかも理解したうえで馬鹿を演じている奴は性質が悪い。この後輩はそういう類の人間である。
不快ではないが、あまりかかわりたくない。それが清瀬姫乃という後輩だった。
「ふむ、先輩に面倒を巻き込むとはどこの不届き者ですか? 教えてくださいよ。ちょっとぶっ殺してくるんで自分」
「やめなさい。というか、面倒に巻き込まれてるのは確かだけど、私も相手が誰なのか知らないのよ」
「ほう」
そう言った姫乃は目から星を飛び散らせつつも、少しだけ真剣な表情を見せた。
「ということは、そいつをあぶり出すために友達のいないぼっちな先輩はあたしを頼ってきたと? そういうことでよろしいのですね?」
「……話が早くて助かるわ」
「そして、先輩が自分のことであたしに頼るとは思えないので、面倒に巻き込まれているのは先輩ではありませんね?
「最近ご一緒にいられる泥棒猫――じゃなかった、転校生のかたですか? なかなか可愛い先輩好みの女の子ですよね! 確か白井命さんと言いましたか。お話したことはありませんが、存じ上げております。
「あたしの次くらいの可愛いので愛人にしたいところですね」
「……あんたみたいな勘のいいガキは嫌いだよ」
というか、泥棒猫ってなんだ。
「いやあ、そんな風に褒められちゃうと照れますねえ」
「褒めてない――というか、あんた命のこと知ってるの?」
「そりゃあもう。愛しい先輩のことですから。日頃からリサーチは欠かしません。事故かなにかの後遺症でちょっと他人とのコミュニケーションが難しくて、その世話を三神先生から頼まれてるってことも知ってますよ。安心してください」
「…………」
この後輩、どこでそんな情報を手に入れたのか。京子と姫乃は春の一件で、ただのスクールカウンセラーと生徒の関係ではなくなっているが――だからといって京子が姫乃に治療すべき患者でもある命の事情について漏らしたとは思えない。
となると独自で調べたのかこいつ。姫乃がどんな手段を使ったのか見当もつかないが、こいつには高校からの進学した一年とは思えないくらい人心掌握に長けている。これが人間性能の差というやつなのか――現実は無慈悲である。
「知ってるなら助かるわ。いまちょっとした嫌がらせを受けてるのよ。それをなんとかしようと思ってるってわけ」
「それはなかなかの不届き者ですねえ。ええ、いいでしょう。そういう陰険なことを平気でする輩は全員死ねばいいと思っていますし。あたしは正義ウーマンなので。
「あっ、面倒ですし、ひと部屋ずつ爆破していって、手っ取り早く終わらせません? 昔、暇潰しに爆弾の作り方を調べたことがあるのでそこそこのやつ作れますよ」
「やめろ」
「冗談ですよ。そんな犯罪者みたいなことするわけないじゃないですか。清く正しい姫乃ちゃんでございますよ。名前の通り」
「…………」
頭悪そうな感じで舌を出す姫乃――その顎にアッパーでも入れてやろうか一瞬だけ悩んだ夏穂であった。
「許可出したら本当にやるだろうが、お前」
命に性質の悪い悪夢を見せているのは確かに不愉快ではあるが、できれば穏便に済ませたいのである。
荒事はあまり好きじゃない。
好きじゃない、というか面倒臭い。
どうせやるなら――悪いことをするのなら、完全犯罪のほうがいいに決まってる。
「どうせやるなら、完全犯罪のほうがいいですもんね。さすがに前科者にはなりたくありませんし」
「…………」
どうして、こういうところに限ってこいつと意見があってしまうのだろう――夏穂は少しだけ疑問に思う。
「まあ、とにかくことを大きくしたいわけじゃないの。ぐだぐだ面倒くさいこと言ってないでさっさと付き合えこのスカタン」
「いやん。先輩ったらそんな強引に……」
身体をくねくねさせて顔を赤らめる姫乃である。
……やっぱり気持ち悪いなあこいつ。
「あたしマゾなので、そんな蔑む目で見られると気持ちよくなるじゃないですかーもう。もっとお願いします。ぎぶみー」
「……早く終わらせたいからいい加減にしてくれない?」
「もう、わかりましたよう。で、なにをやればいいんですか?」
「わりと時間かかりそうだから、午後の授業サボることになるけどいいかしら?」
「いいですよ。先輩の頼みより優先する授業なんてありませんし。というかあたし、学年主席の秀才なので一回くらい授業出なかったところで、そんなもん地球にやってくる重力波より影響は小さいのですよ」
「そういえばあんた、頭はいいのよね……」
なんというか、現実は何故こうも残酷なのだろう。
「で、どこに連れていってくれるんです? トイレですか? 体育倉庫ですか?」
「図書室」
「じゃあ行きましょう」
といって、クラスメイトに向かって「あたし午後の授業サボるのでそこんとこよろしく」などと赤道直下の太陽みたいに眩しすぎる笑顔で言って、何故か夏穂の手を引いて教室を出て進んでいく姫乃であった。こいつの手も温かい。
しばらく進んだところで、
「というか、あれですね。白井さん、すごく羨ましいです」
と、少しだけ悲しそうな表情になって姫乃は言葉を継いだ。
「なにが?」
「だって先輩、なにもかもに無関心じゃないですか。なんだかんだ私に付き合ってくれますけど、無関心なことに変わりありません。
「だから、先輩の心を響かせるものなんてないと思っていたんですけど――それなのに白井さんのことには、他のことよりも少しだけ関心があるように感じられたので。正直なところを申し上げますと、かなり嫉妬してます。なにかあったんでしょうか?」
「そうね……」
夏穂は少しだけ考えて、
「私とあの娘は同じものを見ているから、かしら」
と、正直に言った。
夏穂の言葉を聞いた姫乃は「そうですか」とだけ小さく言って、それ以上なにも言わなかった――少しだけ、心底悲しそうな顔をして。
この後輩、こういう恥ずかしいことを平気で言えるから人望があるのかもしれない――と夏穂は手を引かれながらそんなふうに考えていた。
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