第17話 嫉妬の夢魔7
一限目の授業が始まる前に、生徒が階段から落ちて救急車が呼ばれるというハプニングがあって、一時的に騒がしくなったものの、二時間も経過すればその騒がしさも収まっていつも通りの日常に戻っていた。
それはまるで、階段から落ちて怪我をした事実そのものが消えてなくなったかのように思えてしまう。薄情だと思うが、人間なんてそんなものである。喉もとを過ぎれば熱さを忘れてしまうのは、人間が人間として健全に生きていくために不可欠な機能なのだから。
『妙な感じがする』と、オーエンが言ったのが少し気になったので、夏穂は昼休みにもう一度あの階段に行ってみた。
だが昼には、朝そこにあったはずの『妙な感じ』はなくなっていたらしい。
果たしてこれはどういうことなのだろう。なにか引っかかる。
てっきり、あの場所になにか仕掛けていたのだと思っていた――が、昼には消えていたとなると、『妙なもの』はあの場所に仕掛けられたわけではなかった、ということになるが――
それから、倒れているのを目撃した命の態度も妙だった。あのあと、明らかに彼女は夏穂になにか言いたそうにしていたのだ。
夏穂が命の世話をしている以上、それについてちゃんと聞き出しておくべきであるが――あの娘は結局言おうとしてくれなかった。
もしかしたら、まだ警戒されているのかもしれない。無理に聞き出す必要もなかろう――夏穂はそう考えて、それ以上なにも言わなかった。向こうが言いたくなったら、聞いてあげればいい。人間関係というやつは距離感が大事なのだ。
そして、いつも通り授業が終わり、夕食を食べ、風呂に入って、消灯時間が来て、しばらく暗い部屋でボーっとして、一日が終わろうとしていたそのとき――
命が夏穂のベッドの中に入り込んできて、いきなり抱きついてきたのだった。
「どうしたの?」
相変わらず無表情であったが、夏穂のベッドに入り込んで抱きついていたときの命にはただならぬ雰囲気だった。身体も少し震えている。それを見れば、とても怯えているのに間違いなかった。しばらくの間、命は夏穂に抱きついて、それから――
夏穂の掌に『怖い夢を見た』と指でなぞった。
「どんなの?」
夏穂がそう訊いてみると、命は少しだけ躊躇したのち、『笑わないでね』と指でなぞった。
「笑わないよ。ちゃんと言って。できることならやってあげるからさ」
夏穂がそう言うと、命はほんのわずか表情を嬉しそうに変化させた。それから夏穂の掌を指でなぞって、なにが起こったのかを伝えていく。
命は――自分が殺される夢を見たらしい。それも一回ではなく、何回もだ。焼かれ、刺され、斬られ、殴り殺され、色々な手段で殺されては蘇らせられるのを何回も繰り返す夢を見たのだと言う。
自分が殺される夢――というもの自体それほど珍しくない。だが、一度の眠りでそれを何回も見るのは異常だ。
それに。
どれほど怖い夢を見たところで、夢の中で起こったことは、覚醒してから五分も経たずに忘れてしまうのが普通である。
命がただならぬ様子で夏穂のベッドに入り込んできたのを考えると、夢の中での出来事は覚醒したいまもはっきりと思い出せるのだろう。
「それだけ? 他になにかある?」
ついでに、朝に妙だったことも聞き出してしまおう。
夏穂がそう訊くと、今回はすんなりと掌に指をなぞり始めた。少しだけ、その指には震えがある。
どうやら命は昨晩――今日の朝、階段から落下した生徒が――どこかの建物から落ちて死ぬ光景を夢で見たのだという。それを聞いて、夏穂は命が朝あれほど慌てていたことにも合点がいった。
夢の中で起きたことと同じようなことが現実で起こったのだ。驚いて当然だろう。
となると――
昨日、見た夢もはっきりと記憶に残っているはずだ。
しかし、それはさっき見た夢とは性質が違う。
恐らく、昨日見た夢は――命のものじゃない。別の誰かが見ていたものだ。
『選別現象』に遭遇して生き残った人間は、ヒトの身でありながら限りなく怪異に近づいてしまう。怪異に近づきすぎた結果、怪異に対し極めて反応しやすくなり、自分の意思と怪異が混線してしまうのだ。それは意識が落ちている睡眠中に起こることが多い。
ならば――
誰か生徒がよくないものに憑かれた可能性がある。さっき聞いた話からすると――憑かれたそいつは夢に干渉して、夢で起こったことを現実でも引き起こしているってことなのだろうか。
だとすると、夢で落下死した生徒は、現実では階段で落ちて頭を打って多少出血しただけで済んでいるので、いまのところ現実に及ぼす影響力はそれほど強くないはずだ。少なくとも、いまはまだ。
そしてそいつは――
明確な悪意を持って、命に干渉をしている。
夢の中でとはいえ何度も殺すなんて悪意と敵意がなければできることではない。そのうえ、夢の中で引き起こしたことを現実でも引き起こせるとなれば、そこに悪意や敵意があるのは明らかだ。
あまりにも露骨である。転校してきたばかりで、夏穂以外とろくにかかわりのないこの娘に恨まれることなどないと思うのだが――
夏穂に抱きついたまま、命は震えていた。彼女から自分より遥かに温かい体温とともに震えが伝わってくる。命の顔は夏穂の胸もとにうずめているからよく見えないが、恐らくそこには恐怖の表情を浮かべているだろう。
それが感じられて、いまの里見夏穂にわずかに残された感情に火がついて、その炎は緩やかだけどそれは確かな勢いを持って、燃え上がり広がっていくのが感じられた。自分の裡からなにかが漏れ出している。
それを感じ取ったのか、命は先ほどとは違った怯えの表情を浮かべて、夏穂の顔を見上げていた。その目には『怒ってるの?』と書いてある。
「うん。ちょっと。怖がらせてごめんなさい。怒りかたなんてとっくに忘れたと思ってたけれど、案外残っているものね」
もしかしたら――
京子はこういう狙いがあって、命を任せたのではないだろうか? そんなことを夏穂は思った。生きるために、ヒトであることをすべて諦めてしまった里見夏穂を少しでも修復するために。
やはり、三神京子は口も態度も悪かろうと医者なのだ。
「それとも、春叔母さんに対する義理なのかな」
夏穂のつぶやきを聞いて、命は不思議そうに首を傾げる。
「なんでもない、こっちの話。明日も学校あるんだし、早く寝ましょう。一緒にいてあげるから。怖くて寝れないのなら、話も聞くわ。どうせ無理の利く身体だから」
そう言うと、命は『話すより話が聞きたい』と夏穂の掌をなぞった。
「話が聞きたい――わかった。たいした話はないけれど。そういうのならなにか話しましょうか」
とはいっても、夏穂の話は命の健全な復帰にあたって色々と聞かせにくい話ばかりである。怖いからとベッドに入り込んできたのに、怖がらせる話をしてはなにも意味がない。
さて、なにを話したものか。
なにを話すにしても、怖がらせないようにうまく脚色するしかなかろう。
それはなかなか難しいことだが――
たまには、こういうのは悪くない。
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