第16話 嫉妬の夢魔6

 ――私は夢を見ている。


 いま目の前に広がっているのは支離滅裂で意味不明な光景ばかり。

 明るかったり、暗かったり、暑かったり、冷たかったり、都会だったり、田舎だったり、山だったり、海だったり、空だったり宇宙だったり――刻々とまわりの世界は目まぐるしく変化していく。


 同じ風景はまったくなかった。似ていても、必ずどこかに違いがある。これが夢でなかったら、なにが夢というのだろう。


 ころころと変化していく不思議な世界の中を私は進んでいる。今度、辿り着いたのはたくさんの書架が並んでいる場所だった。図書館だろうか? 見える範囲のすべてに書架が並んでいて、果ては見えない。近くの書架から本を一冊抜き取ってみる。やけに分厚くて大きいハードカバーの本だった。


 ずっしりとしたその重さと紙の質感はとても夢とは思えない。おかしなほど現実的である。見たこともない文字で書かれているため、タイトルはわからない。一体なんの本だろう。気になって適当に開いてみたものの、タイトルと同じく見たこともない文字で埋め尽くされていて、一瞬で読む気がなくなってしまった。書架に本を戻す。


 本を戻すと、再びまわりが変化していく。


 ぐにゃりと空間がゆがみ、私以外のなにもかもが混ざり合って溶けていく。それなのに、私の足もとには地に足のついた感覚は消えていなかった。すべてが曖昧になっているのに、その中を進み歩いている私は確かにそこにあると感じられた。私だけは、すべて混沌とした世界において確立された存在なのだと思う。その根拠はわからないけれど。


 ふと気がつくと、私は高い場所にいた。


 下を見ると、そこはコンクリートだった。建物の屋上だろうか? でも、それが夢であることは間違いない。だって、屋上なのに柵が一切ないのだ。そんな危険な場所、現実世界にあったとしても作業員でもなんでもない私には入れないはずである。


 別の方向に視線を向けると、うちの高校の制服を着た女の子が立っているのが目に入った。誰だろう――ここからでは顔が見えない。しかも、彼女はなにを考えているのか、柵のない屋上の縁に立っていた。


 危ない――そう思って、その娘に声をかけてみる。しかし、女の子はこちらに気づいていないのか、振り向く素振りはない。


 私は少し近づいて、もう一度声をかけてみる。さっきよりも大きな声を出して――そんなところに立っていると危ないよ、と。


 それでも女の子は反応しない。私の存在にまったく気づいていないように思える。


 私はさらにその女の子に近づいていく。手が届く距離まで近づいても、彼女は私のことなど一切気に留めずに、屋上の縁に佇んでいた。

 私は、屋上の縁に佇む彼女の手を引こうとして、指先が彼女の腕に触れると――


 その女の子は、私の手に弾かれたかのように屋上の縁から落下していった。


 数秒後、なにかが潰れる音が聞こえて、恐る恐る下を覗き込んでみる。

 その下には予想通り、先ほどまで屋上の縁に佇んでいた女の子の残骸があった。四肢は、本来曲がらない方向にひしゃげ、砕けた頭から脳みそと血をこぼして汚くも鮮やかな模様を下の地面に描き出している。それはグロテスクなはずなのに、どこか美しいと思えた。


 そのまましばらく覗き込んで、それからやっと自分がなにをしたのかを気づいた。

 気づいて、しまった。


 ……違う。


 私はなにもしてない。

 私は目の前に広がった光景を否定したくて、一歩後ろに下がって首を振った。


 あの娘と落とすつもりなんてなかった。ほんの一瞬、指先が触れただけじゃないか。私はなにも悪くない。そもそも何回も危ないと声をかけたじゃないか。それを無視していたのはあの娘だ。あの娘は落ちたのはあの娘が私のことを無視したからだ。私が負うべき責任などなに一つない。あるわけがない。あっていいはずがない。勝手に無視して、勝手に落ちて、それで私にだけ罪が問われるというのか? そんなのおかしい。絶対おかしい。なにもかも間違っている。いや、そもそもこれは夢じゃないか。ここで落ちて死のうがなにがどうなるわけでもない。落ちる夢なんてよく見る夢じゃないか。私は悪くない。悪くない。悪いわけが――


「大丈夫?」


 誰かが私の顔を覗き込んでいる。しばらくの間、なにが起こったのか、まったく理解できなかった。


「…………」


 ここは、夢の世界ではない。

 私が生きている現実の世界だ。

 普段暮らしている自分の部屋――顔を覗き込んでいるのはルームメイト。それに間違いなかった。


「ああ、うん。大丈夫」

「そう。ならなにも言わないけど――そろそろ朝ごはんよ」

「準備するから先に行ってて」


 私がそう言うと、ルームメイトは少しだけ心配そうな顔を見せて、ベッドから降りて部屋を出て行った。

 私は歯を磨いて顔を洗って、着替えてから食堂に向かった。


 起きてからもずっと――あの光景が頭から離れなかった。

 夢の中でビルの上から落ちていった女の子のことである。夢の中で起きたことなのに、覚醒したいまもそのときの記憶は明瞭だ。なにかおかしい。落ちたときのことも、落ちたあとどうなっていたのかもはっきりと思い出せてしまう。


 潰れてひしゃげた女の子。

 あの、グロテスクな光景を。

 現実で起こった出来事のように、思い出せてしまう。


 そんなことを考えていたせいか、朝食は箸が進まず、ほとんど残してしまった。

 ルームメイトに心配されたけれど、あんな夢のこと言えるはずもない。なにしろ夢である。見た夢のせいえ思い悩むなんて馬鹿馬鹿しい。私はもう高校生だ。それに、内容だって人に言えるものではない。


 朝食をろくに食べられなかった私は、部屋に戻って登校の準備を始める。起きてから時間が経ったにもかかわらず、夢の記憶は消えてくれない。あまりにも明瞭に思い出せるので、あれは現実で起こったことなのではないかと思えてきた。本当にあれは――あの出来事はなんなのだろう。


 ルームメイトと一緒に校舎へと向かった。ルームメイトとはクラスが別なので、階段を上がったところで別れた。


 教室はいつも通りの光景が広がっている。朝礼前の騒がしい時間。どこまでも日常の風景だ。私はあんなものを見てしまったのに、世界はなに一つ変わっていない。それにおかしさを覚えた。私がなにを見たところで、世界を回す歯車には一切影響しないのだというのを実感せざるを得なかった。


 それから、私自身もいつもと同じように、仲のいいクラスメイトと話したり話しかけたりして過ごし、日常に埋没していく――そのはずだった。


 予鈴がなってしばらくしても、担任がやってこない。うちの担任はいつも時間通りに来る教師なのに。なにかあったのだろうか? そんなことを思っていると――

 教室の窓から、救急車が入ってくるのが目に入って、それから数分後に――


「なんか階段から落ちた子がいるんだって」


 クラスのどこかから、そんな言葉が聞こえてきた。誰が言ったのかはわからない。

 それを聞いて、私の心臓は破裂すると思ってしまうほど鼓動が加速していた。


 ――落ちた。

 誰かが落ちる夢を見た日に、誰かが階段が落ちる。

 これは、一体――

 ……違う。

 あれは夢だ。階段から落ちた誰かとその夢に関係あるはずがない。


 それでも――


 いてもたってもいられなくなって、私は立ち上がって、クラスメイトからそのことをついてそれとなく聞き出したのちに現場へと向かった。


 そこには――


 里見さんと仲よくしているあの娘が、頭から血を流す誰かの頭にハンカチを当てていて――


 そして――


 落ちた誰かは、夢の中で屋上の縁に佇み、そして地面の叩きつけられて潰れてひしゃげて無残に死んだ女の子と同一人物であった。


 間違いであってほしい――そう思った。だが、どういうことなのか、ここで血を流している娘と夢で落ちた娘が同じであることが私には理解できてしまったのだ。


 私は、恐ろしくなって、

 笑いながら、その場をあとにした。

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