第15話 嫉妬の夢魔5

 誰かの世話をするのなんて初めてだけど、やってみれば案外なんとかなるものらしい――夏穂はそんなことを思った。


 いまのところ命と夏穂の関係は良好だ。命も夏穂のことを信頼してくれている――たぶん。相変わらず命はまったく喋らないので、こればかりは測りづらいところであるが。


 新学期が始まっての自己紹介はどうなるだろう――なにか対策が必要だろうか――と夏穂は考えていた。なにしろ命は喋らないのである。


 自己紹介の場でまったく喋らなかったらなんとも印象が悪い。それを見て、命をいじめようと考える輩は間違いなくいるはずだ。人間が二人以上集まれば、虐げたり虐げられたりと諍いが発生する。人間はそういうものである。


 そういった命の態度は、自分と違うことが我慢ならない輩からすれば格好の標的になるだろう。最終手段として、夏穂が代わりに紹介しようと思っていたのだが――


 結果的にその必要はなかった。


 確かに命の声は聞き取るのが難しく、喋りもたどたどしかったけれど、自己紹介そのものは問題なかった。あれくらないなら、自己紹介などが苦手な引っ込み思案の娘――という認識になってくれるだろう。


 ついでに、高校生になると滅多に遭遇しなくなる転校生というイベントで、命にちょっかいを出してくる者も懸念であった。


 普通ならほっとくところだが、命の場合は事情が事情である。いまの状況では言いたくないこともあるだろう。転校生にちょっかいを出してくる者には悪意はないが、ときに悪意のなさは人を平気で傷つける。夏穂以外とのコミュニケーションを取るのは『彼女を治す』という目的を考えればいいことなのは確かだろう。


 とはいっても、いきなりは難しい。あまりにもひどいようなら、それもなんとかしてやらないといけないかと夏穂は考えていた。


 しかし、それも特に必要なかった。


 命が夏穂に懐いていることがわかったら、他の生徒はまったく近づいてこなくなったからである。里見夏穂というのは、とんでもなくここの生徒から嫌われているらしい。その自覚はあったが、まさかここまでとは思わなかった。やはり自分の予測などアテにならん。


 新学期も始まって三日。


 この三日で転校生の白井命は里見夏穂を慕っている、という構図は確立できたはずだ。鼻つまみ者の夏穂に懐いているのなら、変な手出しをする奴もいないだろう。悪意を持って手を出しているのなら、それなりの対処をしなければならなくなる。それは『選別現象』に襲われてなお、生きようとしている彼女の復帰を妨げるものだ。それは少し許せない。


『許せないたあ――お前がそんな感情を抱くとは驚きだ』


 頭の中に響くオーエンの不思議な声。いつも通り性別も年齢もなにも判然としない。自らの裡にいる『なにものか』は相変わらず茶化すような声であった。


「いまの私にだって許せないものはあるわよ」

『悪意か?』

「そうね。どこも正常に動かなくなった私に残されているのは、悪意に対するわずかな怒りだけ。馬鹿らしいし、嘘くさいと思うけど」


 悪意に対する怒り。

 それが『選別現象』によってすべてを否定され、ヒトとして死んでしまった夏穂にわずかに残されたヒトらしさだ。


 何故そうなったのか、自分でもよくわからない。


 それが、『選別現象』に遭遇する前の夏穂が持っていた一番強い感情だったからなのか――ほぼすべてのヒトらしさを失っても、それだけは必要だったから残ったのか――まあ、どちらでもいいだろう。


 いまの夏穂にわずかな怒りしか残っていないことに変わりはない。


 そもそも、その残っている怒りだってまともなレベルではないだろう。急須の底にへばりついた出がらしの茶滓みたいなものだ。急須の底に残った出がらしの茶滓では茶を淹れられないのと同じように、夏穂の怒りは普通の人たちから見ればまともとは思えないはずである。


『しかしあれだ。お前のことだから、あの娘のこともすぐ投げ出すかと思ったが、しっかりやってるのな』


 オーエンは夏穂の脳内に不思議な笑い声を漏らしながらそんなことを言った。


「あんた、私のことなんか勘違いしてない? これでも私、進学校に中学受験するくらい真面目で成績優秀なのよ。面倒だからって投げ出すわけないじゃない。途中で投げ出すのなら、はじめからやらないわ」

『お前がやるっていうなら、俺はなんも言わんが……どうだ?』

「どうだって、なにが?」

『あの娘のことさ』

「最初に思ったより手はかからないわね――ぶっちゃけ言うとかなり楽」


 いまのところ全然喋らないので、コミュニケーションは取りづらいのは確かだが、目立つ問題はそれくらいである。


 自分のことはちゃんと自分でできるし、なにかわからないことがあればちゃんと聞く。物事の善悪も、倫理観にも逸脱した部分は見られない。『選別現象』に遭遇するまでは普通の家庭で育ってきたことは確かである。


 人見知りで臆病で口下手なところはあるが――それは正常の範囲内だ。


 掌に書かれる文字を読み取るのはまだ難儀しているが、いまはそこそこ慣れてきたので掌にそれほど苦ではなくなった。将来的には、そのあたりもいずれ治していかなければならないが――喋らないことにかんして一番の解決は時間の経過だろう。強制するほうがよくないはずである。


「なにより、可愛いのがいいわね。二次元みたいで最高」

『お前って見た目はいいけど、それ以外最悪だからな。人として』

「うるせえ黙れ」


 減らず口を叩くオーエンは放っておこう。


 そういえば――命はどこに行った? ふと横を見ると、いつの間にか席から命の姿が見えなくなっていた。


 一緒に登校してきて、先ほどまでいたはずだ。トイレかなにかだと思うが――そろそろ朝礼の時間だ。探しに行ったほうがいいだろうか――そんなことを思っていると――


 小走りで教室に入ってくる命の姿が目に入った。命はすぐに夏穂のもとに向かってくる。いつも通り表情は乏しいが、どことなく慌てているように感じられた。どうしたのだろう。なにかあったのか。


「なにかあったの?」


 夏穂がそう言うと、命は困った表情へと変わり、なにか伝えようとしているのか、しばらくあたふたとなにかジェスチャーをしていた。それから思い出したように夏穂の手を取って、掌を指でなぞっていく。


 しかし、相当焦っているらしく、いつものようにゆっくり書いてくれなかったため夏穂には彼女がなにを伝えたいのかよくわからなかった。


「落ち着いて。それじゃわからないって。ゆっくりお願い。できる?」


 夏穂はそう言うと、命は少しだけ表情を変化させた。どうやら、自分の伝えたいことが伝わらなかったことにショックを受けているらしい。だが、すぐに命は気を取り直して、今度はわかるようにゆっくりと夏穂の掌を指でなぞり始めた。


「誰かが血を流して倒れてる?」


 夏穂はまわりに聞かれないように小声で言った。命は何度も頷く。この娘がこんな嘘をつくとは思えない。


「じゃあ、連れてって。もしかしたら危ないかもしれないし」


 夏穂がそう言うと、命はまたしても少しだけ表情を変化させた。嬉しそうにしている。転校してからずっと、命とつきっきりだった夏穂には、彼女の乏しい表情の変化の機微が理解できるようになっていた。


 夏穂は命に手を引かれながら、教室を出て、廊下を進んでいく。そろそろ朝礼の時間なので、廊下に出ている生徒の数は少なくなっている。他の誰かに見られると、騒ぎになって面倒だ。状態だけ見て、誰か教師を呼んでこなければ。場合によっては、救急車も呼ぶ必要もあるだろう。


 トイレの先にある、校舎の端にあるせいかあまり使われていない階段で、生徒が頭から血を流して倒れていた。倒れている彼女の近くには転ばすようなものはないので、なにかの拍子で足を滑らせたのだろう。いきなりこれを目撃したのなら、命でなくなってテンパってしまうのは当然だ。


「落ちるところは見た?」


 夏穂は命に質問する。命は困った表情を浮かべながら首を横に振った。


「見たところ、額をぶつけて出血して、気絶してるだけのようだけど――頭を打ってるみたいだから動かさないほうがよさそうね。


「先生を呼んでくるわ。できるだけ頭は動かさないようして、これで血を拭いて、傷口に当てておきなさい。一人になるけど――できる?」


 ハンカチを差し出しつつ言った夏穂の言葉に、命は少しだけ躊躇する様子を見せたものの、意を決したように頷いた。命は差し出されたハンカチを受け取る。


「それじゃあ、お願いね」


 そう言って、夏穂は生徒が倒れている階段から離れていく。

 とは言っても、命を一人にしておくのは心配だったので、一番最初に目に入った名も知らぬ同級生に、


「はーい、ちょっとそこのあなた。あっちの階段に行ってくれない? 生徒が血を流して一人倒れてるの。もう一人いるけど、その娘だけだと心配だからあなたもついててくれないかしら。よろしくね」


 と、いきなり声をかけ、相手にはなにも言わせず、自分の言いたいことだけ言って夏穂は立ち去った。少しだけ先に進んでから背後を確認すると、夏穂の目についてしまった不運な生徒は言われた通り階段に向かっていた。協力的でなによりである。


『妙なことになったな?』


 職員室に向かう道中、いきなりオーエンがそんなことを言い出した。そこにはいつもの茶化す雰囲気ではなかった。


「なにが?」

『あれ、ただの事故だと思うか?』

「知らないわよそんなの。誰だって足を滑らせて階段から落ちることくらいあるでしょう。猿も木から落ちるんだし――なにかあるわけ?」

『あの階段のあたり、空気が妙だ。普通じゃない。なにかあるぞ』

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