第8話 透明人間と暴食7

 そのとき、はじめの視界は文字通り真っ赤に染まっていた。


 目の前には首を切り裂かれ、壊れた水道のように鮮血をまき散らす里見夏穂の姿がある。人間の身体にはこれほど大量の血液が詰まっているのかと、実感せざるを得なかった。その血液は当然、はじめにも降りかかっている。生温かい。ふん。どうやら、魔女であっても冷血ではないらしい。


「あなたもお友達みたくなりたくないでしょう?」


 その言葉は、はじめが抱いていた夏穂に対する怒りの臨界点を超えさせるのには充分すぎた。

 首を切り裂くなんて凶行をしたのにもかかわらず、罪悪感は一切生まれなかった。夏穂からまき散らされた血液を浴びて、多少の冷静さは取り戻したのは確かであるが。


 その言葉を聞いて、怒りが臨界点を超えてしまったはじめは、透明人間が出てくるようになってからひそかに護身用として持ち歩いていたナイフであの魔女を衝動的に斬りつけていたのだから。


 だが、こんな凶行に及んだのにもかかわらず、いまだに罪悪感は生まれてこない。それどころか、血液を浴びて、多少の冷静さを取り戻したにもかかわらず、はじめの身体は脳と乖離したかのようの動きが止まらなかった。


 いまだ壊れた水道のように鮮血をまき散らしている夏穂をそのまま張り倒して馬乗りになり、ナイフを両手に持ち替えて思い切り突き刺した。


 ざくざくざく。

 ナイフで肉を貫く音は、とても安っぽい。


 制服の上からだというのに、安物のナイフは簡単に夏穂の身体を刺し貫いた。人間の身体って結構柔らかいんだな、という印象を他人事のように抱いていた。


 その程度の事実は、はじめを止めるにはあまりにも弱すぎた。はじめは止まらない。ナイフを引き抜き、位置を少しだけずらして再び振り下ろした。突き刺したときに聞こえる音はやけにチープだ。現実感がまるでない。手には感じられたことのない感触が広がっているのに。武光を突き刺しているのと同じように感じられた。


 何度も何度も突き刺す。

 ざくざくざく。


 動かない夏穂に刃物を突き刺すたびに、制服には血がにじみ、引き抜くと血液が飛んできた。やっぱり血液は生温かい。さっきあんなに血液をまき散らしていたのに、止まる気配がまるでなかった。身体にはまだ残っているらしい。もはや、いまのはじめにとって、こうしてナイフを突き立てて、返り血を浴びるのも日常と化していた。どれだけ返り血を浴びても、まったく気にならない。


 いまだ激しい怒りに突き動かされるはじめは止まらない。止まるつもりもなかった。


 夏穂は最初に首を切り裂かれた時点で死んでいたのにもかかわらず。

 はじめの両手は、制御装置が壊れたおもちゃのように、すでにもの言わぬ骸と化した夏穂に向かっていまだナイフを振り下ろしていた。


 ざくざくざく。


 壊れたおもちゃのようにナイフを突き刺す装置と化していたはじめが止まったのは単純な理由だった。何度も突き刺して腕が疲れてきたせいか、突き刺そうとしたナイフが制服のボタンに弾かれて、持っていたナイフを落としたからであった。さすがに、落とした刃物を拾って、もう一度突き刺そうとするほど、はじめは我を失ってはいなかった。


 夏穂に馬乗りになっていたはじめは立ち上がった。あたりを見回すと、そこは学校の中とは思えない光景が広がっている。大量の赤いペンキをぶちまけたかのように、周辺は真っ赤に染まっていた。廊下は、はじめが凶行に及ぶ前と一切変わっていないはずなのに、まったくの別物と化している。まるで異界だ――はじめにはそのように感じられた。


 自分が行った凶行を自覚してなお、はじめには罪悪感はまったく抱いていない。それどころか、達成感すらある。友人を破滅させ、あのようにした当人に報いを与えたのだからそれは当然であった。衝動的に取った行動だったとはいえ、はじめは成し遂げるべきことを成し遂げたのだ。きっとはじめはこれがやりたかったに違いない。


 本来の目的であった透明人間についてはなにも解決されていない。


 だが、奴を殺せたのだから、あの透明人間だってなんとかできるという自信と確信があった。もうはじめは透明人間に対して恐怖など持っていなかった。


 次に出てきたらこいつのように殺してしまえばいい。それでいいじゃないか。何故そんな単純なことに気づかなかったのだろう。恐怖というやつは、判断力を低下させるらしい。


 そこで、透明人間のことについて相談したスクールカウンセラーの三神京子のこと思い出した。


 はじめは少しだけ考え、問題ないと判断する。


 彼女は余計なことに首を突っ込んで、あほみたいな悦に浸るタイプではない。生徒との距離の取りかたを弁えている。生徒からなにか相談されるか、よほどの事態が起こらない限り、自分から生徒に事情には首を突っ込まない。透明人間の件だって、相談したはじめが『解決した』と言えば、それ以上はなにもしないはずだ。


 解決に道筋は見えた。

 復讐も達成した。

 これではじめはいつも通りの日常に戻れる。

 怖がることなんて、もうなにもない。

 探偵なら『ご清聴ありがとうございました』なんて言うところだ。


 血まみれになってしまったし、さっさとシャワーでも浴びてさっぱりしよう。魔女の血なんて汚くてしょうがない。正当な行いであったとはいえ、これを見られたら大変だ。誰にも見られないようにしないと――


「あ――」


 はじめは思わず声を漏らした。

 背後を振り返る。


 そこには、拷問部屋のように真っ赤に染まった空間と、見るも無残な有り様となった惨殺死体が転がっている。


 それを見て――見てしまって、先ほどまで自分に満ちていた充実感と達成感と多幸感が急速に焦燥感と恐怖へと変化していくのを自覚した。


「死体を、どうにかしなきゃ」


 休み中とはいえ、校舎には誰かしらいる。放置するわけにはいかない。仮にこのまま休み中、発見されなかったとしても、休みが明ければ、当然このあたりにも生徒がやってくる。見つかるのは当然だ。


 いや、そもそも――


 寒くなってきたとはいえ、こんなところに放置していたら、二日も経たずに異臭を放ち始めるのは間違いない。職員室から離れているものの、ここの近くで活動している文化部があるはずだ。このまま放置していたのでは、休みが明ける前に確実に見つかる。これが見つかったら、大変なことになるのは誰の目からも明らかだ。


 どうする――はじめの焦燥感はさらに加速していく。


 どこか見つからない場所に移動させるか? 駄目だ。しばらく見つからなそうな場所はあるかもしれない。


 だけど、誰にも見られずに死体を移動させるのは不可能に近い。文化部は不明だが、今日はサッカー部とソフトボール部が活動中だ。どちらも部員が多い。死体を担いだまま外に出たら、そのどちらかの部員の誰かに姿を見られてしまうのは確実だ。


 それに、はじめは人間を一人、担いで移動させるのはとても困難だ。これをどこかに移動させるのなら、まずは移動しやすくするために加工しなければ――


 しかし、いまはじめが持っているのは安物のナイフだけだ。人を殺すには充分かもしれないが、死体を持ち運びやすくできるものではない。どう頑張っても、指を切り落とすのが限界だろう。安物だから、それでもう使い物にならなくなる。持ち運びしやすいように腕や足を切断できるはずがない。やるなら、のこぎりくらいないと――


 授業で使うから、のこぎりの一本や二本、探せばすぐ見つかるのは確かである。だが、ここを離れるわけにはいかない。離れるのは死体の始末を終えてからじゃないとだめだ。のこぎりを探している間に誰かがここを通りかかって、この死体が見つかってはなにも意味がないのだから――


 考えれば考えるほど、いまの状況が八方ふさがりであることが理解できる。理解できてしまう。

 もう、この場で死体を食べるか溶かすかして始末するしかない。


「食べる……」


 それは、

 かつての自分が抱いた、

 おぞましき願望であった。


「ああ、そうか。そうすればいいじゃないか」


 死体さえ食べてしまえば、あとはなんとか始末できる。警察が出てきたら難しいが、生徒や教師にここで誰かが殺されていたのを隠す程度なら大丈夫だ。行儀は悪いし汚いけれど、床にまき散らされた血も啜ってしまえばいい。死体を見つからないようにできるのなら、その程度は耐えられる。


 食べるとなると、一番問題なのは量だ。


 奴の体重がどれくらいか知らないが、仮に五十キロだとすれば、それだけの肉を自らの胃袋に押し込む必要がある。常識的に考えれば、一度に五十キロの肉など食べられるはずがない。一キロだって無理だ。果たして、食べきることができるのだろうか。


 人を食べることに忌避感はまったくなかった。

 それどころか、かつて自分が抱き、ついさっきまで忘れていた願望を叶えられると思うと心が躍る。

 あいつが言っていたことを思い出す。


『きみの持つ願望は叶えられないと思っているかね? それは違う。ただ、常識に縛られているだけだ。どうせきみの願望は常識に縛られていては絶対に叶えられない。ときには、常識を忘れてみるのも重要だ』


 いまなら、あいつが言っていたことが理解できる。

 人間を食べてはいけない。

 五十キロの肉なんて食べきれない。

 そんなもの、どこにでもあるありふれた常識だ。馬鹿が馬鹿のために考えた、馬鹿みたいなものである。


『私には目的があってね。きみが協力してくれるのなら、きみのその願望を叶える手助けをしよう。どうかね?』


 それを了承し、それからはじめはあの透明人間を見るようになった。あんなものを見るようされたのは気に入らないが、いまとなってはどうでもいい。


 手助けをする――それを完全に信用したわけではなかったが、いまのはじめには五十キロの肉を食べきれる確信と自信があった。


 気に入らないのは――

 最初に食うのが、あの気色悪くて不愉快な魔女であることだ。


 まあしかし、ゲテモノはうまいと言われている。どうせ死体の処理をしなければいけないのだ。文句は言っていられない。選り好みは次にしておこう。


 未だに血液をまき散らし続けている死体に近づいていく。当たり前だが、微動だにしない。

 そこで、はじめは夏穂が殺されたときに悲鳴をまったく上げなかったことを思い出した。


「不気味な奴……殺してせいせいしたわ」


 そう吐き捨てて、はじめは再び夏穂に馬乗りになった、どこから食べてやろうかと考えたそのとき――


「あ、がっ……」


 はじめに広がったのはなにか異物が入り込んでくる感覚。この世のものとは思えない不快感が全身を揺るがした。はじめは声にならない呻き声を上げながら、夏穂から離れて転げ回った。全身を這い回る不快感で、今朝食べたものをすべて吐き戻した。


「な……に、これ……」


 なにが起こったのかまったく理解できなかった。自分の身体が吐瀉物まみれになっても、いま自分の身体に広がっている不快感のせいでまったく気にならない。なんだこれは。なにが起こっている?


 これは――

 気が狂いそうな不快感の中、自分の身体を見ると――


「ひっ」


 返り血を浴びた部分が、この世のものとは思えない暗黒に包まれていた。

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