第9話 透明人間と暴食8

『おら、いつまで寝っ転がろがってんだ、さっさと起きろ』

 オーエンのそんな声が頭の中に響いて、夏穂は目を覚ました。途中から記憶がなくなっているが、一体なにが起こったのだろう。夏穂は服をはたきながら素早く立ち上がった。


「えっと、途中から記憶がないんだけど、なにされたの?」

『頸動脈のあたりをナイフでざっくりとやられて、そのあとめった刺しにされてたぞ。なかなかいい経験したな』

「いい経験って……確かになかなかできないとは思うけどさ」


 夏穂が倒れていた近くには安物っぽいナイフが落ちていた。これを放置しておくわけにはいかない。刃を折り畳んでブレザーの胸ポケットにしまう。


 ほのかに異臭が漂ってきて、そちらに近づいてみると、ゲロまみれで倒れ、言葉にならないうわ言を延々と呟いているはじめの姿があった。ついでに失禁もしている。


 夏穂は自分の身体を嗅いでみた。どうやらゲロも小便もかかっていらいらしかった。夏穂にしてみれば、ゲロを浴びようが、小便まみれになろうが、クソをぶちまけられようがたいしたことではない。


 だが、自分が構わないからといって、それで出歩いていいとは思わない。社会で生きていくのなら、死んでいようと最低限のTPOを弁えるのは大事である。


「そうならないように、他の手段を考えようと思ったんだけどなー」


 とは言ったものの、哀れな姿になったはじめを同情する気持ちは夏穂にはまったくなかった。ああなってしまったのは間違いなく彼女の責任だ。とっくの昔に、そんなことを気にする人間ではなくなっている。


『よく言う。手っ取り早く済ませたくて、わざとあんなこと言って挑発したのかと思ったぜ』

「挑発って……なんか言ったっけ?」

『自覚なしとか最悪だな。怨みを持ってる奴の口からから〈お友達みたいになりたくないでしょう?〉なんてなんて言われりゃあ、逆上もするだろ。まあ、首切り裂いてめった刺しはやり過ぎだと思うが』

「そうなの? あれ、そういうつもりで言ったんじゃなかったんだけど」

『お前以外の誰が聞いても、そういうつもりだったと答えるだろう。お前が毎度そういう目に遭う原因はそういうところだと思うぜ俺は』

「ふーん」

『どうでもよさそうだな』

「だってどうでもいいもの。もう終わったことだし。起きてしまったことを気にしてもなんにもならないじゃない」

『間違いない』


 夏穂はゲロまみれでほのかに異臭を放ちながら倒れているはじめを指で突いてみた。反応はない。どこか異世界を見つめたまま、言葉にならないうわ言を呟き続けている。今回はあまり幸せそうではなさそうだ。


『なにしてんだ、さっさと行くぞ。これを見られると面倒になるぞ』

「そうね。行きましょう」


 夏穂は踵を返し、倒れているはじめに一瞥もくれずに歩き出した。

 最悪でも二、三日の間に見つかるだろう。屋内だから、そのまま放置されても特に問題ない。彼女をどうするかは、倒れている彼女を見つけてしまった運の悪い誰かに任せておこう。面倒ごとは知らないふりをしているのが一番である。


「ところで、訊きたいことがあるのだけれど」

『なんだ?』

「あの透明人間、あの娘だとは言ったけど、どうしてあんなものを見たのかしら。彼女、私や命みたいにああいうのを見る体質だったとは思えないし」

『そりゃあ、よくないものに憑かれてりゃ、自分の幻像くらい見るだろ』

「やっぱりそうなんだ」

『やっぱりって……わかってたのか』

「確証はなかったけど、最初に押し倒されたとき、やけに力が強かったから、もしかしたらって思ってたくらいだけど」


 だが、それだと疑問が残る。


「でも彼女、どこでそんなものに憑かれたのかしら。確かにこの学校、怪異の噂はよく立つし、それなりに発生もするけれど、普通の人間には影響を及ぼすほど強くないんじゃなかったっけ?」

『あの娘に憑いてたのは、ここにあるものじゃない。というか、そもそも自然発生したものですらない。悪夢のとき同じだ』

「自然発生したものじゃないって……」


 それは――


「誰かに、意図的に憑かされたってこと?」

『もしくは、あの娘が望んだか――だが、どっちでも同じだろう。どこの奴だが知らんが、それをやった奴は本物だ。あいつに憑いていたものは見事に加工されていたからな。いんちき霊媒師の類じゃない』

「本物……」


 本物ということは、京子と同じような誰かってことになる。

 京子以外に、誰がそんなのが学園にいるというのか。

 誰か別にいるのなら、京子がなにか言うと思うのだが――


「ここで考えても仕方ないわね。面倒なことになりそうな予感がするけど――これだけの情報ではどうにもできないし、考えても仕方なさそうね」


 夏穂は相変わらず静寂に包まれた校舎を歩いていく。


「それはそれとして――彼女があの透明人間を見た原因が、よくないもの憑かれていたのだとして、何故自分の幻像だったのかしら」

『そりゃあれだろ。よくないものに憑かれて、なにかよくないことをしようと思っていたあいつに警告でもしたかったんじゃいのか? そんなことするの、やめたほうがいいですよ、って』

「…………」

『もしくは、よくないことをしようとどこかで考えていたあいつの良心が無意識に映したもの、とかな。鏡だし、あれ』

「なにそれ。あほくさ」


 夏穂は率直にそう切って捨てた。


『人でなしのお前はそう思うだろうな』

「人でなしとは失礼な。女子高生に向かって」

『ゲロまみれで失禁して、廃人と化した同級生を平然と放置してる奴はどう考えても人でなしだろ』

「残念だけど、その通りね」


 運のいいことに、未だ夏穂は誰ともすれ違っていない。ここに広がっているのは、休み期間の学校の日常である。


『というかお前、それで部屋に戻るつもりか?』

「それでって……ああ、それもそうね」


 めった刺しにされたらしい夏穂は、制服がボロボロになっている。これはこれで悪くないが、こんな格好をして帰ってきたら、命を怖がらせてしまう。


「とりあえず、京子さんのところに行くわ。あそこなら着替えぐらいあるだろうし。ナイフも持ち歩きたくないしね。それに文句も言いたい」


 あの若作り、こうなることを見据えていたに違いない。

 言ったところでどうにもならないだろうが。

 夏穂としても、それをたいして気にしていない。


「毎度毎度こうなるのは避けたいところね」

『よく言うよ、ほんと。学ばない奴め』

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