第7話 透明人間と暴食6
透明人間は左手に鉈を持ち、右手に犬を引きずりながらこちらへと近づいてくる。透明人間はその名の通りうっすらとしたシルエットしかないのに、何故かその手に持っている犬と鉈は現実のものと区別がつかないほどはっきりとその存在が感じられた。夏穂はそのギャップに妙なものを感じる。
透明人間は夏穂たちから五メートルほどの位置で止まり、右手で引きずっていた犬を無造作に離す。やはり死んでいるのだろうか。犬はまったく動かない。左手に持っていた鉈を両手に持ち替えて――
透明人間は、そのまま犬に向かって思い切り鉈を振り下ろした。
振り下ろされた鉈は犬の胴体に当たり、聞くに堪えない嫌な音とともにその中に詰まっている赤い血と、纏っている栗色の毛をまき散らした。
当然、一番近くにいる透明人間にもその血は降りかかる。だが、透明人間はどこに返り血がつこうが気にする様子はない。ぼやけたシルエットが、自らの行為によって赤黒い色に徐々に染まっていく。
透明人間は犬の胴体を両断しようとしているのか、何度も何度も同じような位置に鉈を振り下ろしている。顔がないのでよくわからないが、その動きからは必死さが感じられた。
しかし、透明人間が下手なのか、それとも鉈の切れ味が悪いのか、犬が両断される気配はない。透明人間が鉈を振り下ろすたびに、そのぼやけたシルエットとまわりの床が赤黒く濁った血に汚れ、毛がまき散らされていく。
地面に押し倒されたままだった夏穂は立ち上がって、一緒にこちらまで来ていたはじめの方に視線を傾ける。
はじめは地面に縫い付けられたかのようにその場を動かず、蒼白な顔色をしたまま、無言で透明人間のあまり上手とはいえない解体ショーに目を向けていた。
透明人間はこちらの様子など一切気にすることもなく、犬の解体に力を注いでいる。透明人間がかなりの力を注いでいるのは明らかだが、身体表面の傷が増えていくばかりで、胴体の両断は未だ遠い。あれが小型犬だったのなら両断できていたかもしれないが、それなりの大きさがある中型犬ではそうもいかない。
気がつくと、透明人間のぼやけたシルエットはその半分近くが赤黒い犬の血で染まっていた。それはなかなかグロテスクな姿である。透明人間は身体だけではなく、顔にも犬の血は降りかかっていた。
それで透明人間の顔がわかるだろうか、と夏穂は思ったが、顔のところに血が降りかかっても、ぼやけた半透明のシルエットが赤黒くなっているだけだった。そこには凹凸もなにもない。どうやら顔がないのは本当のようだ。
必死になって動かない犬に向かって鉈を振り下ろし続けた透明人間だったが、疲れたのか、急にその動きを止め、傷だらけで赤黒く染まった犬を放置したまま踵を返して歩き出した。十メートルほど進んだところで透明人間の姿は煙のように消失する。
透明人間が消えると、夏穂たちの近くで何度も刃物を振り下ろされて傷だらけにされた犬も消失した。そこらにまき散らされていた毛と血もいつの間にかすべてなくなっている。先ほどまで、あれだけはっきりしていたというのに。先ほどまで見ていたあの光景はすべて嘘だったのだと思うくらい、綺麗に消失していた。
夏穂ははじめのほうに視線を向ける。
相変わらずはじめは尻もちをついて硬直したまま、先ほどまで透明人間が犬を解体していた場所を注視していた。恐怖の表情を浮かべ、少しだけ身体が震えている。これほど近くであんなものを見てしまっては、そうなっても無理もない。常識的に考えれば、なかなかショッキングな映像であったのだから。
「大丈夫?」
夏穂は、未だに硬直を続けているはじめに声をかける。反応はない。恐らく、夏穂を無視しているわけではないのだろう。
もしかして目を開けたまま気絶でもしているのかと思って肩を揺すろうとすると――
「……大丈夫よ。触らないで」
と言って、夏穂の手を汚いものを押しのけるような手つきで振り払った。
「それは失礼」
彼女が大丈夫というのなら、夏穂が手を出す必要はない。憎まれ口を叩けるのなら大丈夫だろう、という判断である。
「ところであんた……」
「ああ。うん。見た見た」
どうやらはじめは本当に、いきなり現れては犬を殺す――いや、あの犬はもう死んでいるようだから――損壊を始める透明人間を見ているらしい。
「……ずいぶんと平然としているのね」
忌々しげな口調ではじめは呟いた。
「まあ、死んでるっぽい犬が解体されるだけのグロ映像でしょ。そんなもんじゃないの?」
「……ほんとあんたって不愉快ね。どうかしているとしか思えない。ふん。それで、解決できそうなの?」
「解決――ああ、そうだった。ちゃんと解決しないとね」
そういえばこの一件は京子から頼まれていたのだった。京子には世話になっているし、恩を売っておいてこちらに損はない――恩とか気にするような人ではないけれど。
「解決――というか実際にあれを見ていくつか気になったことがあるんだけど、いいかしら?」
ちゃんと解決するならもう少し調べたほうがいい気もする――だが、この予想が当たっていたのなら、もう少し調べようがなにしようが同じだ。それなら試してみたほうがいいだろう。
「……なに?」
少しだけ怪訝そうな目をはじめは向ける。相変わらずそこには夏穂に対して友好的なものは欠片も感じられない。昨日今日、名前を知ったばかりの相手にどう思われようが知ったことではないが。
「こういうと、あなたは怒るかもしれないのだけど――」
そこで夏穂は一度咳払いをして――
「あの透明人間、あなたでしょ?」
「…………は?」
はじめは、夏穂がなにを言っているのかまったくわからない、という困惑を浮かべていた。夏穂の言葉は、はじめにとってはそれだけ予想外のものだったらしい。困惑の表情を浮かべたまま、足に根が張ってしまったかのように硬直していた。
しばらくの間、曇り空のような沈黙が誰の姿も見えない校舎の中を満たしていく。
外からは運動部のかけ声だけが聞こえてくる。わずかに聞こえてくるその声だけが、いまこの瞬間、ここと外が繋がっていることを示す唯一の証拠であった。
休みの校舎というやつはなかなかの異界だ。普段いる人間がいなくなるだけでここまで異質化する場所が他にあるとすれば、病院くらいだろう。
であるなら――
いまここでなにか起こったら、助けに入ってくる者は誰もいない。
活動中の文化部やその顧問がいるはずなので、この異界と化した校舎の中にも誰かしらはいるだろう。
誰かいたとしても、なにか起こったときすぐには気づかない。大声を出しても、ここに誰も来てくれないことは明らかだ。
もしも、ここでなにか起こり、夏穂とはじめ以外の『誰か』が通ったときには――間違いなくすべて終わっている。
残念なことだが、これが現実だ。
「……それ、どういう、ことよ」
「どういうことって、そのままの意味だけど? もう一回言ったほうがいいかしら」
「そういうことを言ってんじゃない!」
はじめは怒鳴り声とともに壁に向かって拳を叩きつけた。拳を叩きこまれた壁は鈍い音を響かせる。
「まあまあ、そういきらないでよ。誰か来たらどうするの。落ち着いていきましょう。私だってなんの根拠もなくあの透明人間があなただって言ってるわけじゃないのよ」
「そう言えば私の気が治まるとでも思ってるのかしら」
「いいやまったく」
夏穂の悪びれもしないその言葉を聞いて、はじめはさらに怒りを強くした。このままいくと本当に殺しにきそうだ。説明するのだから、落ち着いてほしい。
「というわけで、あの透明人間があなたであることについて説明しましょうか。名探偵みたく上手にできないと思うけど、そこは勘弁してね」
問答無用で襲いかかってくるかもしれないと思っていたが、意外にもはじめは大人しくしている。探偵によって犯人を言い当てられたとき、犯人が大人しくしているのは案外本当のようだ。
まあ、でも。
いま襲いかかってきたのなら、それはそれで問題ない。面倒が一つ減るので、夏穂としてはそれでも構わないのだが――疑念が本当か確かめないと、ほんの少しだけおさまり悪い。明日、目を覚ましたら忘れていると思うけど。
「まず、おかしいと思ったのは、どうしてあの透明人間はあなたにしか見えないのってことなのよね。普段なら見えないもの――怪異の類を見てしまうときって、見るに足るなんらかの原因があるの。場所だったり、見た人間であったりね。私みたいに原因もなにもなく見えてしまう人もいるけれど、それはごく少数。
「で、透明人間を見た原因が場所であったのなら――つまりこの学園そのものが原因だとするなら、あなた以外、誰も見ていないのはあり得ない。
「無論、怪異の類が見えるかどうかって体質に依存しているから、よくない場所にいても一切見えないも人もそれなりにいるけど――ここは学校。高等部には生徒と教師と事務員を合わせれば四百人近く人間がいる。それだけの人間が集まっていれば、あなた以外にあの透明人間を見ているほうが必然でしょう?
「いきなり現れて、犬を解体し始めるなんて、それなりにショッキングな映像を見せられるわけだし、記憶には残るのは間違いない。
「でも、あなたは自分以外にあの透明人間を見ていないと言った。それは恐らく本当だと思うわ。噂好きな年頃の女子高生があんなものを見たのなら、正確に伝わらなかったとしても、似たような話が噂になって学園内に広まるはず。あれだけわかりやすい異常だから、私みたいなハブられてる奴のところにもその噂が入ってくるでしょう。
「話を聞いた限り、最初に見たのは秋休みに入る前のようだし、私の耳にも入るくらいには噂が広がる時間は充分にあったんじゃないかしら。
けれど、そんな様子はない。休みに入る前も、休みに入ってからも、いつも通りの日常が続いている。
「である以上、透明人間が出てきた原因は場所である蓋然性はとても低い。
そうなると――
あの透明人間を見る理由を持っているのは、見た本人にしかないってことになるのよね」
「……待ちなさい。さっきあなただってあれを見たんじゃないの? もしかして、私を騙すために――」
「騙すなんてとんでもない。あなたを騙そうと思って見たふりなんてしてないわ。そんな演技なんて私にはできないし。ええ。しっかり見ましたとも。ユーチューブじゃ絶対見れない刺激的な映像でしたね。
それにほら、私は他人を騙すなんてとてもじゃないけどできないし――」
「よくもまあ、そんな口を叩けるわね。魔女のくせに」
はじめはいまにも殴りかかってきそうな勢いであった。その身体からは、まわりの風景がゆがむほどの熱を持った怒りを発散している。まわりの温度が数度上昇したように感じられるほどだった。
「でもね、私が見たってのはアテにならないのよ。怪異の類はね。さっきも言ったけど、私って十年前の事件のせいで胸ぐらいまで怪異みたいなものになってるから、近くにいる誰かが変なものを見ただけでそれに引きずられてしまうの。
「怪異におけるハロゲンみたいなものかしら。なんでもいいけれど。私が見たんだから、透明人間があなたにしか見えないものである、という答えを退けるのなら、私のことをまともな人間だっていうことになるのだけれど――それはいいの?」
「……っ」
はじめはさらに表情を歪めて、歯をぎりぎりと鳴らした。拳は血がにじみそうなほど強く握りこんでいる。よくもまあ、そこまで他人に憎しみを抱けるもんだ――疲れないのか、なんて夏穂は思った。
「で、特定の誰かにしか見えないってことは、それを見た誰かにしかその原因がないってことになる。見た誰かにしかその原因がないのなら、それは見た誰かをなんらかの形で写したものってことになるのではと思いまして。
「そうやって考えていくと、あの透明人間はあなた、もしくはあなたを写したなにかであるという答えに行き着いてしまう。とても残念だけれど」
夏穂ははじめに視線を向ける。はじめは、先ほどまで浮かべていた怒りがすべて消え、能面のような無表情と化していた。
「それで、あなたにしか見えない透明人間があんなことをしてるってことは、むかし犬でも殺したことがあるかしら? なかなかやんちゃしてるわね。犬を殺すのってどんな気分?」
「…………」
はじめはなにも言葉を返さない。能面のような無表情のまま押し黙っている。
「そんな怖い顔しないでほしいわ。こっちも、そんなに悪気があったわけじゃないし」
しばらく沈黙があたりを貫く。相変わらず誰かが通りかかる気配はない。死んだようにこの場所は沈黙を続けている。
「……それで、あんた、どうするつもりなの?」
はじめは、その声からも一切の感情が消えていた。ただ静かに、そして穏やかに言葉を紡ぐ。
「どうするつもりって?」
「あんた、三神先生から透明人間のこと、頼まれてるでしょうが」
「忘れたわけじゃないんだけど――どうしたもんかと思ってね。あの透明人間の原因があなただと、うーん。どうしよう」
「なにか困ることでもあるっていうの?」
「私は困らないけど――あなたが困ると思って」
「どういう、意味?」
「だって、あなたもお友達みたいな目に遭うの、嫌でしょう?」
そのとき――
なにかが、壊れる音が聞こえた気がした。
「私としても、できるならそういう手段は取りたくないし、どうしようかなって思って。あなたなにか――」
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