第6話 透明人間と暴食5

 朝食を終えて少し時間を置いたのちに、夏穂は三階の十二号室に足を傾ける。部屋に訪れた夏穂の応対したのははじめのルームメイトだった。


 そのルームメイトもはじめのように、夏穂に対して嫌悪感を抱いているのかと思ったが、そんなことはなく彼女は普通の応対をしてくれた。


 恐らく、彼女のルームメイトは夏穂にかかわっておらず、そもそも夏穂のことなんて知らないのだろう。ひと学年に百何十人もいれば卒業まで一切かかわったことのない、知らない顔のほうが多くて当たり前だ。


 しかし――

 場合によってはこのルームメイトもはじめのようになるわけだが。


 そんなことが起こらないようにしたいところだけど――この世界の事象などなるようにしかならない。自分で決められることなどたかが知れている。人間なんてそんなもので、そういうもんだ。そうなったのなら、そうなる以外ほかに道はない。適当に諦めてしまったほうが楽できる。それに、誰かに恨まれるのなんてたいしたことではない。やりたければ勝手にやらせておけばいい。


「……来たのね」


 再び扉が開かれると、相変わらずはじめは夏穂に対して親の仇のような視線を向けてくる。


「来ないほうがよかった?」

「当たり前でしょ。顔を見たくないし、同じ空気を吸うのだって我慢ならないわ」

「お褒めの言葉、どうもありがとう」

「……っ!」


 はじめは夏穂の胸倉をつかんで、そのまま張り倒してそのまま馬乗りになって顔の形が変わるまで殴りつけてきそうな勢いであった。円滑にコミュニケーションをとるための冗談だったが、彼女にはあまり冗談が通じないらしい。


「……ふん。今日は一人なのね。てっきりあの娘も連れてくると思ってたけれど」


 だが、はじめはそれを実行しなかった。夏穂に対する激情を飲み込んでくれたらしい。よかった。そんなことになったら面倒ごとが減って、別の面倒が一つ増えてしまうかもしれないところだった。


「そりゃあね。危ないことになるかもしれないし。そういうものを観測するとき、人数が多いと厄介だしね。


「あの娘も私も余計なものを見すぎてしまう体質だから、面倒なことになるのよ。あなたが遭遇したのもたぶん、その存在は他者からの観測に依存している。


「だから観測できる人間が増えれば増えるほど、その存在感は増すんじゃないかしら。見てみないと不明ではあるけれど。その存在感が増した結果、力が大きくなって、近くに来て存在しない犬を殺すだけだったのが、こっちに襲いかかってくるなんてことになったら嫌でしょう?」


 それに、幻影とはいえ犬を解体するところなんてあの娘には見せるべきではない。なにしろあの娘は、夏穂と違って踏み外していないのだ。生きるために踏み外さなければならなかった夏穂とは違って。


 命はこの世に蔓延する理不尽に巻き込まれた不幸な被害者だ。余計なことにかかわらせて、踏み外す必要のない道を踏み外させるわけにはいかない。それはなかなか難しいのであるが。


「……詳しいのね」

「必要だったからね」


 必要だった。

 あの『選別現象』に遭遇してなにもかも奪われた夏穂が生きるためには、それらに関連する基礎知識は不可欠だった。


「必要だったって……どうしてそんなもん必要なのよ」


 怪訝そうな声を出すはじめ。その疑問はもっともだ。別に隠すことでもないし、答えよう。


「十年前に起こった、日本を含んだ三十の国で同時多発的に起こった怪死事件、知ってる?」

「そりゃまあ、知ってるけど。あのときはまだ小学生に上がったばっかりだったし、詳細は知らないけど――それがなに?」

「私、あの事件に遭遇して運悪く生き残ったの」

「……え?」

「で、あの事件の原因が、いま私たちが調べようとしているものと同質のもの――怪現象の類なの」

「う、うそ。だってあれ、生物兵器によるテロだって……」

「世間ではそういうことになってるようね。妥当ではあるけれど。核兵器や化学兵器よりは整合性があるように見えるし。でも――」


 少しだけはじめに視線を送る。彼女からは明らかな恐怖が見て取れた。


「人間の原型がなくなるほど溶かしてしまう、ウイルスや細菌なんてあると思う?」


「それ――あんた――」


 はじめは一度言葉を切り、ゆっくりと深呼吸してから、


「それを、見たの?」


 得体のしれない恐怖に声を震わせながら、はじめはその言葉を絞り出した。


「見た。誰が誰かもわからなくなった血のスープの中に指一本動かすこともできず浸かったまま、家族の誰かが溶けていくのをそれはもうはっきりと」

「…………」


 はじめは青ざめた顔をして言葉を失っていた。無理もない。怖がらせるつもりはまったくなかったが、夏穂が自分の話をするにあたって、これは避けて通れない。まともな女子高生が聞いていい話じゃないことは承知しているが。


「不愉快な話をしてすまなかったわね」

「…………」

「……どうしたの?」

「……なんでもない。というかあんた、そんなものを見たのに、どうしてそんな風に平然としていられるのよ」

「まあ、十年前だし。十年もあればそれなりに整理できるでしょ」

「……あんたやっぱりどうかしてる」

「それは否定できませんな」


 あんなものを見てしまったから――遭遇してしまったから、こうなったというか。こうでもならないと生きてられなかったというか。どちらにしても、それが正常でないのは承知している。


「で、その怪現象に曝されて体質が変化したってわけ。鉄が強い磁界にさらされて磁石になった――いや、強い放射能にさらされて変質したってほうが正しいかな。ま、どうだったとしても、私は十年前にそういう体質に変わってしまいましたって話ね」

「懇切丁寧にクソ不愉快な話をしてくれてどうもありがとう」

「…………」


 ここでなにかジョークを返しても、はじめを逆上させるだけだと思ったので、夏穂はなにも言わなかった。なにも言わなくても問題ない。


 寮の下駄箱で靴を履き替えて、外に出る。外は突き抜けそうなほど明るい、雲一つない秋晴れであった。犬を解体する透明人間など出てきそうにないくらい明るい青空をしている。


 無言のまま三分ほど道を進むと、校舎に辿り着いた。


「そういえば、秋休み中だけど、校舎って開いてるの?」

「文化部が活動してるんだから開いてるに決まってるでしょ」

「ああ、それもそうね」


 その言葉通り、校舎の扉は開いていた。そのまま中へと進んでいく。開いてはいたものの、校舎には人の姿はどこにもない。昼間にもかかわらず、校舎の中は薄暗く、ひんやりとしている。


 廊下は静寂に包まれていて、どこか異界めいていた。休み中にも活動している意欲的な部活はそれほど多くないのだろう。休み中でも活動する意欲的な文化部も、活動場所は部室だから廊下には出てこないのだ。


「少し訊きたいことがあるのだけれど、いいかしら」

「……なに」


 不服だが答えてやる、と言わんばかりの言いかたである。適当に無視してもよかったのだけど。案外、そういうところが律儀だな、はじめちゃん。


「昨日、私のこと魔女って言ってたけど、あれどういうこと?」

「……っ」


 夏穂のその言葉を聞いて、誰から見てもわかる動揺をはじめは浮かべていた。その反応を見ると、やはり昨日の呟きは、夏穂に聞かれていないと思っていたらしい。


「まあ、ぶっちゃけた話、私の知らないところで私の知らない誰かが、私のことをなんて言ってようがどうでもいいんだけど――なんというか、たまたま聞いて気になったものだから。別にね、聞き耳を立てていたわけじゃないんだけど」

「……まあいいわ。教えてあげる。ここの生徒が参加してる、チャットグループが学年ごとにあるんだけど――」


 チャットグループ――まさかそんなものは実在するとは。四年半ここに籍を置いているにもかかわらず、いまここで初めて知った話だった。これで夏穂がここの生徒の多くからハブられていることが証明されてしまった。


「他の学年では知らないけど、私たちの学年ではあなた有名よ。かかわると悲惨な目に遭うってね。結構前からそんな話があって、誰が言い出したのか知らないけど、気づいたら『魔女』なんて言われるようなってただけ」

「…………」

「なによ、その顔。文句でもあるわけ?」

「いや別に。誰が言い出したのか知らないけどなかなか的を射ていると思って。わりと事実だし」

「あんた……!」


 突如、はじめはその瞳に多大な怒りをにじませて夏穂の胸倉をつかんでそのまま思い切り壁に押しつける。なんだかそのまま絞め殺されてしまいそうな勢いだった。


「あんたの……せいなのね!」


 両手で壁に押しつけられたまま、ぎりぎりと締め上げられていく。やけに頭の位置が高くなってると思ったら、自分の足が地面についていない。はじめが夏穂のことをあの細腕で持ち上げていると気づくのに少しだけ時間がかかった。なんとまあ、かなり力持ちだ。可愛い顔してなかなかのゴリラである。


「もしかして、私にかかわった人の中にあなたの友達でもいたのかしら」

「こいつ!」


 はじめは一度、思い切り壁に叩きつけたあと、そのまま地面に叩き落とし、胸倉をつかんだまま夏穂に馬乗りになった。つかむその手はまったく緩まる気配が見られない。どんどん強くなっている気さえする。


「私が加害者であることは否定しないけど、あなたのその友達が純然たる被害者だったかと言われるとそうではないわ。あなたの友達が誰か皆目見当もつかないけれど、私にかかわってひどい目にあった人たちは全員、私に対して悪意を持っていたわ。害がなければ無視すれば済むけれど、害があったらそういうわけにはいかない。


「悪意を持ってる連中ってね、言って済めばいいけれど、大抵は話なんて聞かないものよ。話して穏便に終わらせようとせず、害ある悪意をこちらに向け続けて、その報いを受けただけの話。あなたにとってはいい友達でも、私にとってはそうじゃなかった。ただそれだけ。それ以上でもそれ以下でもない」

「……!」


 はじめはその目に宿る怒りの炎をさらに強め、胸倉をつかむ両手の力と圧力をさらに強めていく。その圧倒的な力によって、押し倒された夏穂には抵抗なんてできなかった。なんだこれは。とてもじゃないか女子高生の腕力じゃないぞ。


「殴りたければ殴るといいわ。理由はどうであれ、あなたの友達を不幸にしたのは疑いようもなく事実だから。それくらいだったらたぶん大丈夫よ。あなたになにもなければ――純然たる怒りによるものなら問題ないわ。よかったらどうぞ。殴られるのなんてたいしたことじゃありませんし」


 しかし――


 そこで急に夏穂の締め上げる力が弱まった。はじめはそのまま手を離し、のしかかっていた夏穂の身体が退き、尻もちをついたまま後ろに二歩分ほどずり下がったようだ。


 なにが起こったのか、と背後を振り向くと――


 そこには、血で錆びた禍々しい鉈と、ぴくりとも動かない中型犬を無造作に引きずりながら近づいてくる半透明なシルエットがあった。

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