第4話 透明人間と暴食3
スクールカウンセラーの三神京子と夏穂がどのような関係かと問われると、たいしたことは言えない。彼女についてたいしたことが言えないどころか、夏穂の保護者である叔母の知り合いである以上はまったく知らなかった。
だからといって夏穂はそれを特に気にしてないし、知ろうとも思わない。そもそも里見夏穂という輩は自分のことすらどうでもいいと考えている。自分のことすらどうでもいい輩が他人のことなんて気にするはずもない。
とはいっても、保護者である叔母のもとを離れて暮らす夏穂が、事情を知る京子の世話になっているのは事実だ。それに、いまの夏穂が曲がりなりにも人並みの女子高生っぽく暮らしていけるのは彼女のおかげである。
あの事件に遭遇して、生き残ってしまったいまの夏穂には、普通に生きていくのなんてとてもじゃないができなくなった。叔母が夏穂のことを慮って京子のもとに送り出してくれなかったら、とっくの昔に破綻していたに違いない――たぶん。詳細は不明である。
「春叔母さんの気持ちはわかるけど、はたしてそれは正解だったのかね……」
その夏穂の声を聞いた、命が「どうしたの?」と言いたげに首を傾げた。相変わらず夏穂の手を握ったままだ。自分に比べて命の手はずいぶんと温かい。夏穂はぎりぎり動いているだけの死人のようなものなので冷たいのは当たり前だが。
「大丈夫大丈夫。ただの独り言。あんたが気にすることじゃないわ」
夏穂はそう言うと、命は少しだけ安心したらしかった。相変わらず表情の変化は乏しい。
これじゃあ多感な思春期の女子高生どもが勘違いしたり、いらついたりするのも無理ないよな、と思いながら命の手を引きながら寮の廊下を進んでいく。
なし崩し的に命を連れてきてしまったけれど、よかっただろうか。表情の乏しい命の顔に少しだけ視線を傾ける。下手に触ると壊れてしまいそうな危うさがそこにあった。相変わらず可愛い顔をしている。二次元から飛び出してきたみたいだ。
転校してきたばかりのこの娘に悪意しかない嫌がらせをしていたあいつは一体なにを考えていたのだろう。なかなかに理解に苦しむところである。なにを考えていたのかなんて知ったことではないが。それに、奴はいま幸せにしているのだからいいのだろう。
やっぱり命の手はすごく温かい。繋げた手から伝わるその体温は悪くない、そう夏穂は思った。その温かさはもう自分には戻ってこないものだから。
京子が夏穂を呼び出すということは、学内でなにかしらトラブルが起こったのだろう。もしくは生徒から『それらしい』相談を受けたか――まあ、どちらだとしても同じだ。夏穂がやらなければいけないことに変わりはない。ガセだったのなら、京子が夏穂を呼び出すことはない。たぶん当たりなのだろう。面倒は嫌いだが、ちょうど腹が減って我慢するのが億劫になってきたところだ。
ちょうどいい。適当に終わらせてしまおう。今回は痛い思いや不快な思いはしたくないところである。
「いや、そろそろ腹が減るころだってわかってて回してきたのか……」
その言葉を聞くと、命は夏穂の掌に『お腹減ってたの?』と書き込んだ。
「ん? まあ、あんたの一件が終わってからご無沙汰だったからね。でも、まだ大丈夫。あんたが心配することじゃないから」
それを聞いた命は少しだけ表情を変えて、夏穂の掌に『無理しちゃだめだよ』と書き込んだ。
「はいはい。そんなに心配しなくても大丈夫よ」
自分では大丈夫、と思っているが、実際のところどうなのか夏穂にはよくわからない。自分で思う『大丈夫』などアテにするものではない。自分の身体のことなんて、自分が思っている以上にわからないのだ。
だからこそ身体を壊してぽっくり死んだりする。他人よりも無茶ができる身体になってしまった夏穂の場合それはなおさらだろう。いきなり野垂れ死ぬのもいまの夏穂らしいといえばらしいが。
「私が言えたことじゃないんだけどね」
夏穂は命に向けてそんな言葉を発する。命は少しだけ不安そうな視線をこちらに傾けた。
「言いたいことがあるならちゃんと言わないと駄目よ。黙ってたら誰もわからないし、勘違いもされるの。いますぐできるようにしろとは言わないけどさ」
「…………」
命は『ごめんなさい』と夏穂の掌を指でなぞった。私に謝ってどうすんだ、と思う夏穂だが、それを口にするほど無粋ではなかった。
命が喋らないのはなにか障害があるからではない。ある事件に遭遇したときのショックで一時的に言葉を失ったという話だった。医師の資格を持つ京子から聞いた話ではとっくに戻っているはずらしい。それでも、まだ喋らないのは彼女自身の問題なのだろう。それに対して、素人の夏穂が口を出すべきではない。
それに――
この娘が遭遇したものを考えれば、一時的に言葉を失った程度で済んだのは幸運だ。
ヒトが持ちうるすべてを否定する『あの現象』に巻き込まれたのだ。それの程度で済んだのなら百万に一つもない僥倖だろう。ひどい話だが、それは事実だ。それは十年前、命に襲ったものと同じものに夏穂も遭遇しているから――
『選別現象』――それが命と夏穂を襲った現象の名前らしい。
人類文明が急速に発展を開始した二十世紀ごろにはじめてそれが起こったという。人類の総数が爆発的に増加した結果に生まれた弊害らしい。
ヒトという生物のすべてを否定する、ヒトが持つ悪性の具現。
十数年程度の周期で意味もなく起こっては、起こった場所にいた人間のすべてを奪い去るだけの呪いである。自然災害と同じく防ぐことも予想することもできない。
自然災害と違う点は、巻き込まれてしまったらその日が人生の最期になる、ということだ。巻き込まれた瞬間、その中にあった人間をすべて死に至らしめる。身分も所得も国も人種もなにもかも関係なく、そこにいたすべての者を壊して、砕いて、溶かして、なにもかも否定して殺し尽くす。そのあとにはなにも残さない。
兵器として使えるのなら、これほど適したものはないと思うくらい徹底的に人間だけを殺す。なおかつ土地も汚さない。そんなものがあったのなら、どこかの独裁者が諸手を上げて欲しがりそうだ。
そして、ごくまれに、『選別現象』に飲み込まれても生き残るものがいる。
あらゆる人間のすべてを否定する渦に巻き込まれてもなお、生き残ってしまうあまりにも不幸な存在。
その数少ない実例が夏穂と命だった。
「いつまでも私が一緒にいられるわけじゃないってことだけは覚えておきなさいよ。高校生の間は私もなんとかしてあげられるけれど、その先はどうなるかわからないんだから」
夏穂の言葉を聞いた命は少しだけ神妙な面持ちになって頷いた。この娘は頭が悪いわけじゃない。だから、夏穂の言ったことは理解しているだろう。
とはいっても、命が『選別現象』に遭遇したのは一年半前だ。ただの女子高生があんなものを見させられて、一年半で復帰できるはずもない。多少問題があるとはいえ、いまみたいに日常を送っていられるのはとてもレアケースだ。
だが、『選別現象』に巻き込まれる以前のように振る舞えるまでまだまだ時間はかかるだろうが。
夏穂は転校してくるまえの命がどのような娘だったのか知らない。知ろうと思えば知れるだろうが、知るつもりは毛頭なかった。知ったところであまり意味はなさない。
その理由は『選別現象』に巻き込まれる以前とあとでは別人になるからだ。自分のあらゆるすべてを徹底的に否定されてなお、否定される以前と同一性を保てたのなら、そいつは『選別現象』に巻き込まれる以前からどうかしているに違いない。
命を引いて廊下を進んでいく。窓の外はもうすっかり薄暗くなっていた。暗くなるのも早くなったな、と夏穂は思う。
さっさと話だけは聞かないとまずいか……。『選別現象』を生き残ってしまった命や夏穂は変なものに巻き込まれやすい。それも『選別現象』に巻き込まれて起こった体質の変化だった。そして夜はその『変なもの』たちの時間である。夜は本来、人間の活動時間ではない。外に出なければ大丈夫だと思うが――万が一というのはいつだってあり得る。
夏穂一人なら、自分が嫌な思いをすればいいだけだが、いまは命を連れているのでそういうわけにはいかない。そんなことになったら京子からどやされる。どやされたところでたいしたことではないけれど、起こさなくていい面倒を起こすのはごめんだ。
すると、夏穂の握る手が少しだけ強くなった。
「どうしたの?」
命は相変わらずの無表情で夏穂の掌に指をなぞっていく。
「嫌な予感がする?」
夏穂がそう訊き返すと、命は小さく頷いた。
嫌な予感がする……ふむ、なんとも嫌な言葉である。おかしなものとの感応性が高まった命のそれはただの気のせいと断じるべきではない。事実、彼女と似たような体質になっている夏穂だってこの呼び出しの直前に誰かの記憶を見てしまったのだから。
「大丈夫だって。そんな顔しないの。怖いなら部屋まで連れてってあげるけど――どうする?」
命は首を小さく振って、『いま一人になるのは嫌』と夏穂の掌を少しだけ震えている指でなぞった。
「あーそうか。ならしょうがない。あんたがいても京子さんは文句言わないだろうし。さっさと終わらせよう」
その言葉を聞いた命は、わずかに嬉しそうな表情を見せた。
しかしまあ、この表情に乏しい娘の感情を読み取れるようになったもんだな、と夏穂は思った。そんなことを考えながら歩いていると、カウンセリングルームへとたどり着いた。一度だけノックして、「失礼します」と言って扉を開けて中に入る。
「来たか。今日は早いじゃないか。やはり命を使ったのは正解だな」
カウンセラーとは思えない態度でデスクにいる妙齢の女性の姿が目に入った。猛禽類のような目と射殺すような視線をこちらに向けている。
叔母の旧友で、月華学園のスクールカウンセラーの三神京子だった。
叔母と同級生らしいから、四十過ぎなのは間違いないはずだが、実年齢よりも十五歳は下に見える。叔母といい、この人といい、どうしてこう年齢詐欺が多いのだろう、そんなことを夏穂は思った。
「そんな風に睨まないでください。命が怖がってるのわかりませんか?」
中に入ったときから、夏穂の手を握る命の力は少しだけ強くなっていた。無理もない。この臆病な娘があんな鬼軍曹みたいな視線を向けられたら緊張するに決まってる。
「んなもんわかるか。表情に乏しいその娘の感情の動きがわかってるのはお前だけだ」
「でしょうね。まあでも、入ってきた相手を見境なく睨むのはどうかと思いますよ。なわばり入り込まれた猛獣じゃないんだから」
「いや、睨んでなどいないが」
あれで睨んでないのかよ……かと思う夏穂であった。
すると、もう一人、京子が座っているデスクの横に女子生徒が立っているのが目に入った。知らない顔だが、体格から考えれば恐らく高等部の生徒だろう。
どういうわけか知らないが、夏穂に対して敵愾心のようなものを向けている。なにか恨まれるようなことをしただろうか、と思ったが、知らない間に恨まれていたりするのが人間という生き物である。
まあ、夏穂が人間かと言われると、それは微妙なラインであるのは間違いないけれど。
「……魔女」
と、その女子生徒がそんなことを言ったのが聞こえた。いまの言葉を向こうは聞かれていないと思っているらしい。なんだそりゃ。魔女って。
しかし、なにを言われようが知ったことではないので、適当にスルーした。面倒はスルーに限る。
「こちらは?」
「どうやら変なものを見たようだ。話を聞くとどうやら『本物』らしい。解決してやれ。詳しい話は本人から面談室で聞くといい。終わったら教えろ」
「ちょ、ちょっと三神先生!」
困惑した口調で女子生徒が声を上げる。
「せ、先生は同席しないんですか?」
「そうだ。私はさっき話を聞いたからな。同じ話を二回聞いてどうする。それともあいつに聞かれるのはまずい話か?」
「……い、いえ。そんなことは……」
京子のレーザーみたいな視線に圧殺されるがごとく射竦められた女子生徒。あんなに睨まれて可哀想に。ああ、別に睨んでないんだっけ? まあ、どうでもいいや。他人がどれだけ睨まれたところでこっちは困らないし。
「ま、そういう話だし、あっちで話そうよ。名前は?」
「……武早はじめ」
とてつもなく不服そうに名乗るはじめ。相変わらずこちらに対して向ける敵愾心を隠そうともしていない。どうして初対面の相手にこんな態度を取られなければいけないのだろう。
「あー、えっと、さっきも言いましたけど、そういう風に睨まれると、この娘が怯えるんでやめてもらえます? そっちにも事情はあるのかもしれませんけど」
「……ふん」
そんなの知ったことか、と言いたげな顔をしていた。
「ま、なんでもいいですけど、さっさと話をしましょうよ。困ったことがあったんでしょう?さっさと済ませたいですし」
「……わかったわよ」
そう言っても、はじめはこちらに向ける敵愾心を弱めようとしていなかった。
なんなんだ、ほんと。
面倒臭い。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます