マンデリン

 伊刈はミハスの定席となった中二階のボックスでコーヒーを飲んでいた。酸味が強いブレンドに飽きてしまったのでマンデリンをエスプレッソで煎れてもらった。誰が決めたのか、昔はうまいコーヒーの代名詞はブルーマウンテンだった。そのせいかブレンドもブルマンに似せた味のものが多かった。ミハスの浅煎りブレンドもブルマンもどきだった。スターバックスの影響でエスプレッソが流行りだしてから苦味の強いコーヒーの人気が高まり、最近はローストも深くなった。ラテにすると酸味はどうせ消えてしまって苦味だけが残る。苦味が強いアジアの豆にとっては歓迎すべき流行だ。マンデリンはひどく苦かったが微妙な香りが消えてしまうのでミルクは入れなかった。ミルクと砂糖を入れたらせっかくのマンデリンも缶コーヒーになってしまう。ちなみにマンダリン(官僚、特に中国の明、清)とは一文字違い。

 「珍しいですね、エスプレッソを飲まれるんですか」伊刈の車を駐車場に見咎めると必ず寄り込む喜多が小さなコーヒーカップを覗き込んだ。

 「マンデリンのフルシティだよ」

 「それどういう意味ですか」喜多にはコーヒーの銘柄もローストの違いもわからなかった。

 「飲んでみる?」

 「いえ僕はいつものブレンドでいいです」

 「あれはババくさい味だな」

 「さっぱりしてておいしいですよ」

 「へえわかってるね。なら別にいいけど」伊刈は開いていたパソコンを閉じた。

 「原稿書かれてるんですね」

 「そのためのコーヒーだから。僕の原稿はコーヒーの臭いがする。作家によって原稿の臭いはいろいろだ。昔ならランプの臭いとかね」

 「でもパソコンですけど」

 「それでも行間に臭いがするんだよ」

 「お邪魔でしたか」

 「いいよ喜多さんと話した方が勉強になるよ」

 「そう言われるとお世辞でも照れますね」喜多はカウンターのママに向かって「いつもの」という合図をした。「産廃業者ってどう思いますか班長」

 「どおって」

 「みんなとんでもない嘘つきですよね。オブチもエコユニバーサルも言ってること全部嘘でしたよね」

 「いきなり色気のない話だな」

 「今まであんまり嘘つきに会ったことなかったから驚きました」

 「大人って怖いってか。確かにオブチの神田といいエコの豊洲といい苦しい嘘をついてたな。だけど最初から顔に嘘だって書いてあったよ」

 「ばればれですよね」

 「それってつまり根っからの嘘つきじゃないってことじゃないか。それにほんとのこともいくらかは言ってたよ」

 「えっ何かありました」

 「金剛産業も円も実在する会社みたいじゃないか」

 「そりゃあちょっとはほんとの社名も言わないと信じてもらえないじゃないですか」

 「いやこれは致命的なミスだな」

 「どうしてですか」

 「だって実在する会社なら裏を取れるじゃないか。どうせ嘘なら存在しない会社を出さないと」

 「それじゃもうどうしようもないじゃないですか」

 「どうせ嘘なら中途半端な嘘じゃだめなんだよ。天性の詐欺師ならほんとのことなんか一つも言わないと思うよ。だけど普通の人間は嘘の中に一分のホントを混ぜたがるんだ。それこそ良心の呵責でそうするんだろうね。ところがその一部のホントから嘘がばれるんだ。ホントは裏が取れるからね。一分のホントもない完璧な嘘なら永遠にばれないよ。それが占いや予言や霊感だし、その集大成が宗教だよ。何千年もばれない嘘。そう思わないか」

 「班長の考えていること僕にはムリです」

 「そっか」伊刈はデミタスカップに残っていたマンデリンを飲み干すとお代わりを頼むかどうかちょっと迷ってまたカップを置いた。

 「それにしても今度の調査は大漁じゃないか」

 「みんな許可業者ですね。許可があるのにどうして不法投棄なんてばかなことやるんですかね」

 「そりゃあ不法投棄やったほうが儲かるからだろう」

 「どうしてですか」

 「処分場には能力の限界があるだろう。だけど不法投棄は底なしだからね」

 「それだけのことなんですか」

 「そうだと思うよ。そんな難しいことじゃないんだ」

 「黒幕は誰なんだと思いますか」

 「喜多さんもそれ気になってた」

 「そりゃそうですよ」

 「僕は栃木の親分が黒幕なんじゃないかって思うんだ」

 「栃木の親分ですか?」

 「名前もわからなんだけど高峰がそう言ってたんだよ」

 「通恋洞の藍環業の現場を撤去した右翼の会長でしたよね。それも嘘なんじゃないですか。栃木の親分なんていかにもありそうな嘘ですよ」

 「僕は案外それ信じてるんだ」伊刈は空になったカップをまたちょっと見た。お代わりを注文するかまだ決めかねていた。

 「どうしてですか。右翼の会長がほんとのことなんて言うんですか」

 「プライドだよ。高峰は約束を守って撤去したからね」

 「それだったらオブチの神田だって撤去しましたけど、言ってたことは全部嘘だったじゃないですか。産廃業者にホントなんてないって僕は思います」

 「まあそれならそれでもかまわないよ。嘘でもほんとでも撤去してくれたらいいじゃないか」

 「班長はプラグマティストですね」

 「それは何よりの勲章だな。だけどまだまだ戦いはこれからだよ。これから業者を呼び出して立入検査をやって帳簿を調べるんだ。喜多さんの出番はこれからだよ」

 「帳簿見せますかね。なんかこれまでと違って手ごわい相手だらけって気がしませんか」

 「見せたくないものを見せるように持って行くのが腕だよ。なんだかこの山が天王山みたいな気がしてきた」

 「天王山ですか」

 「うん」

 「勝てますか」

 「こっちが体を張ればね」

 「それってどういうことですか」

 「向こうだって捨て身で来るだろうけどまあ見てろよ」伊刈は半階下のカウンターを見下ろした。

 「ママ、濃い目のマンデリンをカプチーノにできるかな」

 「もちろんできるわよ」ママがタメグチで即答した。喜多が目を丸くして二人のやりとりを見ていた。

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