久し振り

 記憶を辿る中で一つ分かったのは、私が彼と出会ったのは些細な偶然だったということ。私が道路に倒れていた満身創痍の彼を見つけ、なんとなく治療したのが始まり……らしい。

 らしい、というのは、その記憶を私が見ていないからだ。何故ならそこの場面だけが飛ばされており、ある程度関係を築き始めた状態からの記憶しか私は見えていないせいだった。御蔭で始まりは分かっても、どういう経緯で彼が、何を思って私と日々を過ごしているのかが分からない。

 それにその出会いについても信ぴょう性に欠ける。全部"私"の話から予想しただけで、本当にそういう始まりだったのか確証がない。…気になることだらけだが、ここは彼の世界。私にはどうしようもないことだった。



 そして今も彼の記憶を私は移動し続けていた。淡々と"私の記憶"にない"記憶"を追い続け、既に三か月分の移動を終えている。









「………あ…っ」

 聞こえていないと分かっていても声が出てしまう。それくらい、不安な状況だった。無事に切り抜けられることは知っていても、不安なものは不安だ。


 中には"私"関連の記憶だけでなく、得体のしれない"何か"と戦う姿もあった。最初は何故戦っているのか分からなかったが、今はその"何か"がどこから来たもので、どんな目的で彼を攻撃していたのかが分かっていた。

 あの組織の犬―――黒妖犬と呼ばれていた犬と彼が、今まさに交戦中だ。それも二匹。両方ともこれまで私が見てきた犬とは細部が異なるが、体中に浮き出た目玉はそっくりだ。

 "何か"は組織の回し者で――――彼等から離れた場所には、見覚えのある人間がこっそり潜んでいた。その格好からして組織の構成員ということが分かり、すべてが繋がった。


 この頃から彼は狙われていたらしい。…関川望の口ぶりから予想はしていたが、間違ってはいなかった。

 しかし彼も若いのか、私のよく知る彼とは違い、動きがかなりアクロバティックというか、凄かった。速いし、なにより強い。背後から奇襲されても難なく蹴り返す姿を何度も見た。


 ただそれでも少しの怪我はしていた―――――のだが、今回の"怪我のしかた"というのが、どうも妙だった。

 素人目での判断だが、彼はどうも焦っているように見えた。先程から何度も隙間を開き、どこかへと逃げようとしている。しかし隙間に入ろうとすると黒妖犬に邪魔され、抵抗して引き剥がしては隙間を開き邪魔される、を繰り返している。

 それだけじゃない。この空間も今までと違い、不安定だった。景色の一部が中途半端に欠損し、小さなノイズが至る所に走っている。



 ――――――言いようのない不安感に襲われた。


「………なに…?」

 先程から調子の悪さを感じてはいたが、遂に立ってすらいられなくなり、膝をついた。

 吐き気……じゃない。震えはあるが、寒さを感じている訳でもない。が、何故か強い不安感がある。

(……怖い…?)

 少しずつ嫌な予感がしてきた。これ以上進むなと、記憶を辿るなと言われているような、忠告めいたものを感じていた。

(………―――)

 ……引き返す気はさらさらないし、そもそも戻り方も分からないので、進むしかない。それに死神に言われた通り、兎に角私が最後までコレを見続けないと、彼を助けるかどうかの土俵にも上がれない。

 自分で自分を抱きしめる。顔を上げれば、丁度彼が一匹目を仕留めていた。

「……あ…」

 正面から跳んできたもう一匹の牙を掴み、へし折った。叫ぶ犬の頭を掴み、地面に叩きつけると血しぶきが跳んだ。




 その隙を逃さず、彼が地面に隙間を開く――――そこからこれまで感じたことのない、尋常じゃない不安があふれ出した。




(……なん、で…)

 隙間を開いた瞬間、身体の震えが止まらなくなった。

 周囲のノイズが強くなる。移動の時間だ。

「…ぁ……―――…ぅ…」

 呼吸すら辛くなってきた。視界も安定しない。耳鳴りもする。鼓動が激しい。


 彼が開いた隙間の中へと飛び込んだ―――――その瞬間、一際強くなったノイズと共に、景色が変わった。





「………――…?」

 移動した。目の前には見覚えのある壁。…自宅の壁だ。

「あれ……」

 身体が元に戻っていた。震えも耳鳴りも鼓動も普通。あんなに激しかった不安感が、嘘のように消え去っていた。何の脈略もなく、私は元に戻っていた。

 記憶の世界だから――――その一言で説明できる現象だったのか。

 溜め息をついて立ち上がる。

「あ…ごめん」

 振り向くと、彼がそこに立っていた。聞こえないと分かっていても思わず謝ってしまう。

「………??」

 彼は棒立ちだった。動かず、そこにただ立っていた。

「……なにして――――――」

 何を見ているのか。気になって、彼の前に出た。




「―――――――は?」




 最初に見たものは血の海だった。じわじわと、しかし確かに増えていく血の海。

 次に、包丁を見た。床に刺さった包丁だ。……でも、それがこの血の海を作った訳では無かった。包丁の刃には全く血がついていなかった。


 しかし最後――――それだけは、いくら見直しても、何が起こったのか分からなかった。


 いや、見えてはいる。ソレからは血が流れ出ていたし、周りの血も、ソレから出たものということは、分かっていた。



 そこに、母がへたり込んでいた。何も言わず、頭から血を流し壁に寄りかかっている。

「有り得ない」

 母は、明らかに血を出し過ぎていた。見た目からして、明らかに助からなかった。明らかだった。

 だから有り得ない。母は―――――母は少なくとも、私が中学生になるまでは生きていた。突然どこかに消えてしまったが、その前日までは確実に生きていた。

 なのにこれでは、順序がバラバラだ。


 時間が大きく飛んだのかと思ったが、それもあり得ない。母の傍には彼を呆然として見つめる"私"がいた。

(…切り傷)

 "私"の腕には何本かの切り傷があった。目からは涙があふれていたし、今日も虐待を受けていたことは明白だった。

 …でもここまでのことは記憶にない。殴られたり蹴られたり叩き付けられたりはしたが、今回は状況的に包丁で攻撃されそうになったらしいが、私の記憶が正しければ、ここまでのことはされていない。

 彼の記憶だから捏造――――またそう考えてしまったが、それならなぜ記憶を捏造するのか分からない。



 何がどうなっているのか。整理に追われる中、彼が動いた。

「………お母さん…」

 泣きながら呟く"私"に彼が近づく。

『……――――』

 彼が"私"の頭に両手を添えた。"私"の視線が彼に向けられる。

「おじさ―――――……」

「………?」

 おじさんと言いかけて、糸が切れたように気を失った。

『……』

 彼が頭から手を離す。その両手には、黒い塊がこびり付いていた。

 一体何をしたのか――――確かめる間もなく、彼がそれを自身の胸に"押し込んだ"。文字通り、押し込んだ塊が彼の身体に沈んでいく。


 気絶した"私"をソファに寝かせ、今度は母の元へ向かった。

『………』

 今度は逆に、手のひらから黒い塊を引っ張り出し、それを母の頭部に埋め込んだ。

 母は、既に死んでいた。

「……―――どういうこと…」

 母の身体は何度か痙攣し、しばらくすると両目が開いた。

「……――…」

「………」

 焦点の定まらない目のまま立ち上がり、床に刺さった包丁を抜き取り、台所へと向かう。その姿は、まるで操り人形のようだ。


『――――……―――…』

 彼が"私"の傍で跪く。死んだように眠る"私"の頭を、何度も、何度も撫でていた。

 私はそれをただ、呆然として見つめていた。







 三十分が経ったか。その間、彼は片時も私から離れなかった。母は床に付着した血を、濡らした雑巾で淡々と拭いていた。母の目は先程のように狂ってはおらず、私がよく知る顔に戻っていた。

 やがて血を全て拭き終え、風呂場の方へと母が歩いて行く。彼はその背が消えるまで見届け、完全に姿が見えなると、"私"から手を離した。


『――――…』

 ソファから離れ、壁に向かい隙間を作る。足を踏み入れ、振り返った。

「……―――……――――…」

『…―――……』

「え」

 寝息を立てる"私"を見て――――彼が笑っていた。笑顔には程遠い、寂しそうな顔で。


 彼が隙間へと入っていく。

 風呂場からはシャワーの音がする。

 ソファからは寝息が聞こえる。

 窓の外からは誰かの車のクラクション。



 何事も無かったかのように、静かな空間が戻ってきた。






 ノイズが    走る



        空間 が   壊れた






   波がやってきた



   記憶の波が やってきた











   死


 影     人外



     虐待       母



                 包丁











         私












 死    死   死  死 死 死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死影影影影影影影影影影影影影影影彼彼影影影影影人外影影人外影影影影母影母母影影母母刃母母刃刃刃刃刃刃刃刃刃刃死体死体死体私私?私死体死体私彼彼彼彼彼彼彼彼彼彼彼彼彼彼彼彼彼彼彼彼シャドーピープル彼彼彼彼彼彼死彼彼彼彼視視視視視視視視視視視視謎謎彼謎黒影彼影男影繰返繰返繰返繰返繰返繰返繰返繰返繰返繰返繰返繰返繰返繰返繰返繰返繰返繰返繰返繰返繰返繰返繰返繰返繰返繰返繰返欠損繰返記憶欠損繰返繰返繰返初対面繰返十年繰返




   記憶



     抹消



 心臓     

          傷   





    十年  

        心臓 

  穴 



       人外細胞 


   心臓病




      移植



           教会



    封印


         解除            




  再開




       軌跡









        彼












       おじさん















 窓の外を眺めていた。強すぎる光で何も見えないが、何も見ないよりかはマシだった。

 雑草が石床から這いだし、脚の折れた椅子が転がる傷だらけの廃墟。ここは廃墟の無数の部屋の一つ。

 居心地は悪くはなかった。何もないが、それはこの身体も同じ。


 元から何もない存在だ。もう目的は達した。やるべきことはもう――――――――



 『……―――――』


    どうしてここに来たのか―――――そう問いかけた。


「……勝手なことしてごめんなさい――――…とかは言わない。貴方も、結構勝手に動いてたし」


 足音が近づいてくる。振り向かず、さらに問う。




    何をしにきたのかを、問う。




「一緒に帰るために」



 迷いのない言葉に苦しくなる。もう、彼女は、もう―――――――



「サド………ううんー―――――おじさん?」



 振り返ってしまった。 とても懐かしい言葉に 振り向かずにはいられなかった。




 十年の月日を経、私は――――――――彼女と望まぬ再会を果たした。








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