記憶?

 弱い力で、それでもどうにか玄関前まで彼を運んだ"私"は玄関を開け、また彼を引っ張っていく。

 彼を完全に家へと入れるつもりだった。

(……こんなこと…しらないのに)

 私は困惑したまま、それを見守った。


 ―――――ほんの一瞬ノイズが聞こえた。

 また移動かと身構えたが………今度の私はリビングに立っていた。

 ソファには彼が寝ている。その横で"私"が何かをしていた。


「………過去じゃない…?」

 それ以上に妙なことを経験していた。彼の記憶の中に入ってから、あのノイズが聞こえると私は必ずその地点よりも前の記憶に飛んでいた筈だ。

 どういうことかというと、今までノイズが鳴ったら私は今より昔の記憶に移動していた。なのに現状から判断するに、先程見た記憶の前ではなく、"後"に飛ばされたらしい。


 つまりこの光景は、"私"が彼を家の中に引き入れた後の場面だ。





 どこもかしこも奇妙な点だらけだった。まずこんな記憶、私は知らない。いくら小学生の頃の記憶だとして、こんな―――――言い方悪いが、得体のしれない何かを家に入れていたら、もっと記憶に残っている筈だ。

 この子供は私ではなく別人……の可能性も考えたが、有り得なかった。子供の腫れた顔、傷んだ髪、ボロが目立つ服。当時の記憶そのままだ。

 これは間違いなく私だ―――――――だからこそ、信じられない。本当に欠片も記憶がない。


(……抉れてる)

 荒い息を吐く彼の肩からは血が染み出している。それが点々と玄関から続き、ソファにもシミを作っている。

 よくこんな状態で家に上げる気になったなと思う。今なら兎も角、この時は彼はただの化け物にしか映らなかっただろう。それに、こんなことをしているのがバレれば、きっと只ではすまされない。それを理解しての行動だ。

 救急箱から色々な道具を取り出し、彼の傷口を治療している。

「………大変だったね」

 "私"が彼に話し掛ける。

「今日も追いかけられたの?」

("今日も"?)

 ……その話し方に疑問を覚えた。"今日も"ということは、つまりこれより前にも彼とコンタクトを取っているという表現になる。



『―――――』

 黙ったまま、彼が"私"の頭を撫でていた。…それに対し、"私"は笑っていた。間違いなく、これは初対面じゃない。何度か会っているようにしか見えない。

 だったらどうして私はこれを覚えていないのか。尚更意味が分からない。有り得ないだろう。こんな奇抜な存在を、私が忘れる筈がない。

 彼はそのまま、じっとしたまま治療を受けていた。


 段々と空間にノイズが現れ始める。また移動が始まりそうだった。

 その前に床に転がった置時計の日付を確認する。―――――日付を記憶したところで、ノイズが走った。









「―――ッ………あれ…?」

 やけに大きなノイズ音の後、私は移動した。

 ただ、場所自体は変わっていない。リビングのままだ。置時計を確認すれば、やはり先程より後の日付。

「っ……あ………」

 後ろから何かが落ちる音が聞こえた。驚いて振り返れば―――――なんだ、と納得した。


 殴られた"私"が転がっているだけだった。その正面には、手を振り上げた――――母の姿。

 意味の分からない言葉を吐き、"私"を殴り続ける。

「あーあーあー……」

 鼻血が床に飛び散った。…この光景を見るのは、大して苦でも無かった。

 だって、慣れてしまったから。虐待は一定の恐怖を通り越すと、慣れが生じる。助け、救いを諦めるのだ。そして今の私のように、虐待を冷めた目で"見られる"人が生まれる。全員がそうだとは言わないが、こうなる人間も中にはいるということだ。

 "私"は泣いていた。床に突っ伏して泣き続け、殴るのに飽きたのか母は立ち上がってどこかへ行ってしまった。





 ノイズが走ることも無く、しばらくして壁に隙間が出来た。


「あ」

 彼が現れた。…今日は見慣れたスーツを着て、現れる。ただし土足だ。

 泣きはらしていた"私"が、笑顔になって彼に近づいた。…この光景も記憶にはなかった。

 彼の捏造…とも思えない。母の虐待の方法は記憶通りだし、捏造だとしても私の顔や服までもが当時のものそっくりになるだろうか。

 考え事に耽る中、彼が血まみれの"私"の顔をハンカチで拭いてくれた。ソファに座らせ、懐から取り出したシップや包帯で治療をしてくれる。


 その様子を見ていても、彼と"私"の関係性が読み取れない。あえて例えるならおじさんと姪っ子……という印象だが、しっくりはこない。

 鼻に詰め物をして血を押さえる。処置を終えると、彼は隣に座り、"私"の頭を撫で始める。やっぱり、嬉しそうに"私"は笑っていた。

「………ふ」

 思わず私も笑ってしまいそうになる。今の私の記憶をたどると、当時の記憶は虐待ばかり。こんな顔をしていた記憶は、まったくない。ゼロだ。断言できる。

「おじさん」

(おじさん?)

 "私"が言った。…どうやら彼は"私"におじさんと呼ばれているらしい。

 彼が首を傾げる。この頃から"首の癖"は存命だった。 


「なんでいつもおじさんボロボロなの」

 いつもボロボロ……今は"私"の発言から状況を読み取るしかない。

 彼の声はおそらく聞こえないのだろう。今もメモを取り出して返答を書いている。

 近く寄ってメモを盗み見れば、ないしょ、と書いてあった。確かに、彼の文字だ。

 不満そうに私がぼやく。


「えー……」

『……』

 彼は我慢してくれと言わんばかりに手をぶらぶら振っていた。…今の彼と比べて、どことなく仕草が若い気がする。

「……だって、最初の時もぼろぼろだった………危ないの?」

(………初対面が…満身創痍?)

 最初の時、というのを初対面に置き換えるなら、その時、ボロボロだった彼と出会ったということか。また時系列が分からなくなりそうだった。


 手探りがもどかしい。直に話せればいいのに、私の言葉は彼に届かないのだ。それがもどかしくてしょうがない。

『……―――…』

 彼が何かを言う。

「………なにかいった?」

 "私"には聞こえなかったが、私には聞こえた。大丈夫、と一言だけ言っていた。

 何を言ったのか教えてくれとせがむ"私"をあしらいながら、彼は"私"の頭をぐしゃぐしゃにして撫でていた。



 ―――――部屋にノイズが走った。移動の時間だ。










 死神が言った。

『あと数時間は戻ってこない』

『…でも、上手く行っているという証拠です』

 鎧武者が言う。傍のコウモリが口を開けた。


『しかし、追手には気を付けないといけない。脱出の際にコウモリの囮を大量に飛ばしたが、その内ここも嗅ぎつけられそうだ』

 武者が首を振る。

『いや……構成員自体は殆ど再起不能と見ていいかと。壊滅状態直前まで"あそこ"は壊してきました。…それでなくとも情報規制や何やらで忙しいだろうに、下手に追手を差し向けるなんて馬鹿なことは――――……』

 三人が押し黙る。

『……馬鹿だから、やりかねない』

 死神が言い放ち、続ける。


『とにかく今必要なのは時間だ。成功にしろ失敗にしろ、あと数日で全部が終わる。その時、どのような形で帰ってくるかは……本人次第』

『…そういえば貴方、死神ですけど仕事は大丈夫なんですか。人間の命の有無に完全に関わってますが』

『格を落とされるのは間違いないだろう』

『いいのか?』

 コウモリが言った。死神が鼻で嗤う。


『今更引き返せない。……それに、もう疲れた。もう、引き際だ』

『……全部終わったら英国にでも来い。しばらく匿ってやれるかもしれない』

 コウモリの言葉に、死神は笑って答える。

『考えておく―――――………それにしても、不思議だ』

 死神が呟いた。


『何がです?』

『全く接点のない私たちが、こうして協力体制を迷いなく取っていることだ』

『これくらいでアイツへの恩を返せるなら安いもんだ』

『私は恩義というより、なんとなく流れでの参加ですけど…意外と楽しいもんです。こうして暗がりで話し合いをしていると、あの日の戦場を少し思い出す』

『そういえば死神はともかく、アンタ、結構名のある武将なのか?俺達はアンタについて何もしらない』

 コウモリが不思議そうに言った。


『私ですか?………そこそこです。知名度はマイナーですし、今では方言も忘れて標準語になりましたし…………この子には内緒にしてましたがね。何分、メディアではヤバイ武将みたいに書かれてたりしますから』

『なんだ、この辺りで死んだんじゃないのか』

『故郷は日本の端、死に場所は……日本の真ん中くらいですね。そこで槍で神輿のように突かれて……あの時は痛かった…』

『そうは言いつつ、なんだか楽しそうだ』

『悔いはありませんでしたしね。大事な方を守れましたから』

『じゃあ、今度はソイツの代わりに、コイツを守らないとな』

『ええ』

 それぞれの声が廃墟に反響する。時折笑い声も聞こえる中、少女は死んだように眠り続けていた。


 窓から日が昇り始めた。夜明けが近づいている。



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