欲情?

 あの組織の構成員との一件から既に一週間は経過した。体もある程度動くようになったものの、彼に駄目だと引き留められていた。

 彼を庇って打たれた注射器の中身は毒のようなもので、彼により何らかの手段で治療されている最中らしい。だからあまり出歩けないし、許可をされない。

 そのことを学校には連絡したが――――いくらなんでも出席日数が危険であり、このままだと進級できないと言われた。おそらく、留年になるかもしれないとも言われた。

 それはそれで仕方がないと思っていたので、大してショックでも無かった。気苦労といえば親戚の方に進級できないことを謝罪しないといけないことくらいだ。


 ――――それは一旦保留し、私の身体について。先程治療中とはいったが、私自身はどんな治療をされているのかよく知らない。ただ点滴の代わりなのか、毎日毎日、彼の血液を大量に提供されている。血液型とか感染病とか……そういう点に関しては彼に大丈夫だと"言われた"。


 そう――――"言われた"。私には、彼の声が聞こえるようになっていた。



(………なんで…?)

 丁度点滴を取り換えている彼を見る。

「……今日…ごはんどうする……?」

『―――――――、―――…』

「…あ……うん…了解」

 野菜の炒め物に魚、みそ汁―――――声はノイズが混じって聞こえないけど、意味は通じた。これで私の気のせいじゃないことを確信した。

 これは人外の血の影響なのか、それとも人外を視る力が進化したのかは知らないが、彼の言葉が何故か分かるようになっていた。とは言っても、普通の会話のようなものではなく、何を言っているのかが何となく分かる程度で、日本語で会話しているような感覚では無かった。その言葉にどんな感情が籠っているのかまでは分からない。

 それでも、私にとってはとても大きな進歩だ。御蔭でメモを使うことなく会話でき、会話に間がなくなって、意思疎通がとても楽になった。

 点滴を取り換え、彼がリビングに戻ってしまう。

「……あ」

『…?』

 思わず上げてしまった声に彼が振り返った。

「…ごめん、なんでもない」

『――――』

 ゆっくり寝るように言い残して行ってしまう。それを引き留めることはできなかった。

 彼が傍にいないだけで不安になるのは、私の身体に、あの"男"の言葉が深く刺さっているせいだ。一体どうなったのか知らないが、憎たらしい。

 "ろくな答えも出せていないのに"、"アイツじゃなくてもいいんじゃないのか"。しっかり覚えている。忘れてしまいたい言葉だった。


 私は酷く不安定になった。あの時は多少強がっていたが、今は自分の心に自身が持てない。どうにかして、隣にいるのが"彼"じゃないといけないことを証明しないといけなかった。

 手に力が入る。別に誰でもよかったなんて――――そんな自分がいることは、決して認めない。


 認めたら、何かが終わってしまいそうだった。









 深夜一時。寝付けずに何度も寝返りを打つ。点滴は、今日の分はもう終わったので付けていない。でも、いつもどおりに寝付けない。こんな日々が毎日続いていた。空いた隣のスペースを触る。冷たいベッドの感触が伝わってきた。

 隣には誰もいない。これまでは一緒に寝ていたのに、最近彼はリビングのソファで眠るようになってしまった。理由を聞いたら、病人なんだから安静に、と言われて終わった。理由になっているが、そういうことじゃないと言いたい。

 一緒に寝ることが当たり前だったので気付かなかったが、私は彼がいないと寝つきが悪いらしい。最近はあまり眠れていない。

 一人だったころは一人で眠れていた。でも彼が来て、それが駄目になってしまった。


 ―――――そこまで考えて、考えるのを止めた。彼について考えると、どうしてもあの男の言葉とセットになって浮上してくる。

 一人で寝れないとは言ったが、それは彼じゃなくてもいいんじゃないかと、そう言われているような気がした。あのボロボロの顔を思い出す。もしこの場にいるのなら、椅子で殴りつけてやりたい。


 暗闇の中、傍の携帯を手に取った。イヤホンをつけて、音楽を聴きながら目を閉じる。睡眠用でもない激しい音楽だ。

 そうでもしないと、また"声"が聞こえてきそうだった。それをどうにか打ち消したかった。


 リビングに繋がるドアを見つめる。そこを通ればすぐに彼に会えると言うのに―――――何故か、とても遠くにいるような気がした。








「………」

『…―――……――――』

 どうしても眠れず、こうしてリビングに来てしまった。こっそり、ゆっくり近づいて、目の前にはソファで眠る彼の姿。…長身とソファの大きさが合ってないせいで、足の一部がはみ出ている。ひじ掛けを枕代わりにしているので、寝づらそうだ。

 食卓テーブルの上には大量の輸血パックに入った彼の血液。私の点滴用だ。いつもああやって夜中に用意していることは知っていた。

 一体なにを目的にしてこんなことをしているのかは全く知らない。でも兎に角、ありがとうと言うべきだ。文字通りに彼は私の為に身を削っているのだから。


 誰かに大事にされることが凄く嬉しかった。守ってくれるのが嬉しかったから、これまで色々な問題に対し、私は目を逸らしてこれた。

 私以外に彼を"人外として"認識している"人間"がいなかったからというのもある。しかし、あの男がそれを壊してしまった。

 良くも悪くも、私はこうして彼との関係を見つめ直す機会を得ることになった。……得る破目になったとでも言うべきか。批判されるかもしれないが、私はこのよく分からないという状態に満足していたのだ。そういう細かいことは無視した方が、楽だったから。


 今頃何をしているのか知らないが、もしあの男に再開する機会があったとして、私から話し掛けることは決してないだろう。






 「異性として意識しているのか」。幻聴が聞こえてきた。

(……異性…)

 人間、人外関係なく、男として。

(…わからない)

 これがどういった感情なのか説明のしようがない。そこにいるのが当たり前で、一切嫌悪感がなくて、すぐ受け入れることができて―――――恋愛より、"家族"。そう考えるべきなのか。

 恋愛なんて生まれてこの方一度たりともない。好きという感情が音楽や物に向けるのとは一切違うことも知っている。

 キスをしたり、手をつないだり―――――抱かれたり。

(…………抱かれる……?)

 想像もしたことない。誰かに抱かれるなんて、考えられない。

 性欲がない訳じゃないだろう。性に対する興味は―――――ゼロじゃない、多少はある。だからそれなりに、知っている。

 でも経験はない。少なくとも、"相手との本番"は一度たりとも。


 自然、目が彼の身体に移る。口、首、胸、腰――――下腹部と、どんどん目線は下へ下へと進んで行く。

(……ある)

 確かに、彼は"男"だ。それを証明できる身体をしている。…もう半年以上暮らしてきて、私は彼の裸は見たことがなかったので、少し不安だったのだ。入浴はいつも私の後で、とても早いから。

 興味本位からか、起こさないよう、そっと彼の胸に触れた。呼吸するごとに胸が動き、鼓動も伝わって来る。


 身を乗り出して、次は腹部に触れる。細身ながら、筋肉が服越しでも分かる。

「………―――」

 そっと服の裾を捲ると、暗闇でもその硬さが分かってしまった。

「……」

 急いで元に戻し、今度は――――――



「………」

『―――……―――…』

 彼の顔を覗き込んだ。…流石に"下"に触れるのは、駄目だった。

 目も鼻も耳も無く、口だけの顔。僅かに開いた唇の隙間の中には、彼の長い舌がある。

 ぬるりと唾液で濡れた長い舌。これまで何度も見て来て、でも、そこには大して興味はなくて―――――なのに、


(…なんで、見てみたいんだろ)

 今は、それをしっかり見てみたい。どうしてかは分からない。だけど今は、こうして触れてみたかった。


 顔を近づける。風呂上りのいい匂いが鼻腔を擽る。

 人差し指を彼の口元に近づける。そして唇に触れた。

(柔らかい…)

 僅かな弾力。そして少し侵入させた先に、それはあった。

(…舌)

 歯と歯の隙間から舌が覗いていた。長いから、口内に収めるのも大変なのだろう。

 呼吸と共に口元が微かに動く。彼の大きく裂けた口は明らかに異質で、だからといって嫌悪はない。牙に似た歯にも、恐怖を覚えることはない。


 容姿自体は……不気味と言われれば不気味かもしれないが、それが彼を避ける理由にはならない。こうして彼の舌に触れていても嫌悪は一切ない。背徳感はあるが……嫌悪じゃない。


 奥へ、奥へ指を入れる―――――こんな突飛な行動に出たのはどうしてだったか。こうやって直に触れていけば何か答えが見える気でもしたのだろうか。

 しかし、そうやって彼を追って行っても――――――どうにも解決の糸口は見えてこない。


『―――――っ』

(わからない)

 わからない。

『―――ッ』

(どうすればいいのか、まったく)

 どうすればいいのか―――――まったく――――――

『……………』

(私は)

 私は――――――



『………』

「――――――ぁ」

 手首を掴まれる感覚に引き戻された。我に返った時、私は指の殆どを口内に突き入れていて――――――

『…―――っ』

 それを彼が、咳き込みながら押さえていた。

「………ゴメン…ッ」

 慌てて指を引き抜く。すると指先の唾液が糸を引いて彼の胸に落ちた。

「あ…ごめん……」

 それをどうにかしようとして、今度はソファに手をついて、唾液で濡らしてしまった。

「あああああぁぁ……」

『…………』

 混沌――――そう形容してもいい私の様子を、彼は呆れた顔で見つめていた。





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