代償
彼はそこにいた。暗い場所で、必死に私を揺さぶっていた。
私はそれを、その"隣"で見ていた。そこには私と彼の二人がいて、それを私は傍観していた。
普通なら異常な状況を、しかしすんなり受け入れていた。
(…?)
彼が千切れた腕の断面に手を突き入れると、大量の黒い血があふれ出す。そのまま断面を私の顔に近づけ、口の中に無理やり入れていた。
(……あ)
私と彼の隣には、頭の凹んだ犬と顔が吹き飛んだ男が転がっていた。
彼が私に大量の血を飲ませた後、抱き抱えて屋上から飛び降りた。
そこでやっと、これが夢だと気が付いた。
「………―――」
目が覚めて最初に見たのはよく知っている天井。
起き上がって見渡せば、見覚えがある部屋。私の家の寝室だった。
「…?……あ」
違和感がある左腕をみると、点滴の針が刺しこまれていた。ベッドの隣には棒があって、点滴パックがその頂上からぶら下げられていた。
(…黒い水)
しかし奇妙なのはその中身と数。普通なら透明な筈の液体が真っ黒な物になっていた。さらに普通一つの筈が、三つも点滴パックがついている。見直せば、私の腕に差し込まれている針も三本だった。
パックの中の水を見つめる。…どこかで見たことがあるような気がする―――――記憶をたどる中、リビングに繋がるドアが開いた。
「あ」
『…』
ワイシャツ姿の彼が大量の点滴パックを持って立っていた。そこで思い出した。この水は、彼の血液の色にそっくりなことを。
彼がしぼんだパックの一つを取り換える。点滴パックと思っていたが、どうやら輸血パックだったらしい。
それにしても何故こんなことをするのか―――――思い出せる限りの記憶を辿って行くと、彼を殺そうとしたあの男に妙な注射を打たれたのを思い出した。
彼を庇おうとして代わりに受けたあの謎の注射。それと関係していると考えていいのか。ひらすら無言の彼に目を向ける。
「……これ…どうしたの…?」
輸血パックを指すと、床に隙間を開いたと思うと、中から何かを引っ張り上げた。
「うわ………!」
…何か、と表現したのは、それが人間のようには見えなかったからだった。顔が半分吹き飛び、腕を折られ、髪を彼に掴まれて引っ張り上げられる姿は本当に一瞬人には見えなかった。
「……ぅ…ぇ…」
生きては…一応は、生きている。
どうしてこんなことを――――と思ったが、着ている服を見て素性を思い出した。そして、ここまで酷い目にあっているのにも頷けた。
しょうがないと思う。だって彼は殺されかけたのだから、これくらいの仕打ちは無理もない。この男も"そういう"目に遭う可能性は覚悟して彼に挑んだはずなので、なるべくしてなったということだ。
『―――』
「ぅぅ……」
彼がぐらぐらと男を揺らす。すると、真っ赤に切れた唇を震わせて、何かを言い始めた。
「………ほん……ご……さ……」
「…?」
何を言っているか聞き取れずにいると彼がまた男性を揺らした。今度は先程より乱雑に。
「うぇ…ぇ……」
今にも履き戻しそうな顔でまた口を開く。少しだけ可哀想に思えたので、今度は聞き逃さないように耳を傾けた。
「……ほん…う…」
本当に―――
「…ご…え…さい…」
ごめんなさい――――……そう聞こえた。
「………」
もう、何も言えなかった。あの時の堂々とした姿とは全く真逆。声が震えているし、軽く涙目。あの凄そうな雰囲気は微塵もない。
最後に見た姿よりも負傷の数が多いので、おそらくあの後、さらに叩きのめされたと考えていいと思う。…やりすぎかもしれないが、こっちは右腕一本と足の筋肉をそぎ落とされて失っているのだから、正直お相子だ。
あの犬は彼が頭を潰した筈なので再起不能と考えていい。死角からいきなり襲われたり、ということはなさそうだった。
「……色々、聞かないとね」
すがるような目を振り払って彼に言う。彼が深く頷いた。
男は歯の抜けた口を開け、泣きそうな顔で私を見ていた。その目から逃れるようにして、私は窓の外を見た。
「………え」
外を見て、驚いた。
「…雪」
雪が降っていた。あの屋上の出来事があったのは少なくとも秋に入りつつある、という段階だった筈で、雪が降るとは到底思えない。
少し体を伸ばして外を見ると、明らかに真冬とでもいうべき雪量に驚いた。
「……サド…」
もしこの光景が本物だとすると、
「………私…どれくらい寝てたの」
私はすくなくとも、一か月以上は眠っていたことになる。
彼に眠っていた期間を聞くと、いつの間にか床に放置されていた男の方が掠れる声で答えた。
「………すくなくとも……三か月は…寝て……けほっ…」
「……そうですか」
男の言葉は信用していいか分からないが、多分その通りだった。この光景を見れば説得力は十分。
――――そこで、血の気が引いた。
「が、学校……っ」
三か月も休んでいるとなれば出生日数が―――――そう焦り始めると、また男の方が答えた。
「がっこう…には……私が連絡を………」
「……なぜ?」
「…コイツ……彼は…喋れない…ようだから…………それと…担任の方からは……内容が内容という…こともあって……特別、許可を…」
「……はあ」
最もな疑問に最もな答えで返された。…正直、とても癪に障る人だが、その辺りには感謝しないといけない。
でも彼を殺そうとしたことは、どんな理由があるとはいえ私からすれば相当に重い罪。この程度で絆されるわけにはいかなかった。
「…サド。一応、軽く手当はしてあげて?」
『……』
何を言っているのか。そう言いたげに見つめられる。
「あくまで応急手当で、それが終わったら縛り上げて置けばいいと思う。…死んだら、流石に困るから」
いくら危険な相手とはいえ、もしこのまま放置して死にでもすれば、私達は犯罪者になってしまう。彼ならきっと完全犯罪くらいなら簡単にできそうだが、そういう問題じゃない。
『………』
肩を竦めた。でも、男の襟首をつかんでリビングに引きずっていく。
(……あれ…?)
背中を見て、妙に痩せているような気がした。その違和感を確かめる前に、彼はリビングに行ってしまった。
その後ろを追いかけようとして、止めた。
(…動くのは駄目かな)
筋肉が衰えているのか、下手に今動くと危ない気がする。とりあえず、この違和感は一旦保留することにした。
布団を被り直して横になる。窓の外は白で一杯だった。
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