March 9th
志々見 九愛(ここあ)
《浴室》のクリスティナ(N)
すう、はあ、はあ、と荒い息。
クリスティナは頬を赤く染め、こめかみを伝う汗を手の甲で拭った。
ランニングもラストスパートに差し掛かかったのだ。
次の角を曲がったら、庭園へと入って行く前に速度を落としていき、やがて歩いてウォームダウン。
まだ肌寒い空の下、
首元に少しとへそから下にかけてレースの入った灰色のキャミソールは、汗を吸い込んで、肩紐と胸元の色が、ショートパンツと変わらないぐらいに濃くなっている。
彼女はゆっくりと歩みを進めながら、呼吸を整え、首に巻いたテリークロスの手ぬぐいで、額を拭った。
彼女の繊細な指先が、肩紐を釣り上げて落とす。
下に隠れていたもう一つの肩紐がちらりと見える。
そんな動作を幾度か繰り返した後、手は、体をなぞるみたいにして、みぞおち、へそ、骨盤と移動し、キャミソールの裾を掴んで、はたはた動かしたのである。
庭園に入った彼女の呼吸は、少しずつだが落ち着きつつあった。
へそ周りのレースから透けて見える柔肌に、腹筋のカットがうっすらと入っている。
片足を前に出すたび、後ろ足の上の方、ショートパンツの落とす影の少し下に、太ももとお尻の境界線が現れる。
彼女は扇いでいた手をショートパンツへと動かして、少し引っ張った。
首を傾げて、立ち止まる。
少しがに股になって俯き、指を内ももからその隙間に忍び込ませると、すっと外側まで動かしたのである。
そして、引き抜いた手をお尻へ持っていき、軽くはたいた。
空を仰ぎ見、大きく息を吐いた。
昼前の空の白い月はなんだか綺麗で、見とれてしまったのだった。
心地好さそうな少し緩んだ表情をして、そのままの姿勢で、再び歩き始める。
健康的な美を保つということは、並大抵のことではない。
こうした十分な運動と栄養によって初めて維持されるものだ。
恵まれたもの以上の価値を誰もが認めているのだが、当の本人がそれを意識して行なっているのかどうか、はてさて、知る者はいない。
クリスティナは、テーブルに用意しておいた二本目の水に手を伸ばした。
水筒は木でできていて、引き抜かれたコルクの栓が、すぽんと小気味良く鳴った。
口の中に染み込ませるようにして、ゆっくり飲んでいく。
それでも少し溢れてしまった水滴が、唇の端から垂れていき、胸の斜面に吸い込まれた。
それは、キャミソールの薄生地を貫通し、下着の、その下へ。
丘陵の内側へとすすみ、谷間を降りて、へその中に留まった。
水筒を置いて、飛び乗るみたいにして高めの椅子に腰掛ける。つま先がやっと地面に触れるくらいで、かかとは届かない。
足を伸ばしたり、曲げてみたり。
ふくらはぎを揉みほぐして、両手で太ももを揺さぶった。
靴を脱いで、土踏まずをマッサージする。
一通りのケアの後、彼女は重なっている肩紐のうち、下になっているものだけを腕から外した。
両方が外れると、キャミソールに手を突っ込み、ズボンを脱ぐみたいにして、下着を外したのである。
彼女はそれをテーブルに放ろうとしたが、
含まれていた汗が地面に滴り落ち、すっかり絞りきってしまうまで、両腕を震わせながら力を込めたのである。
彼女はそれを二本の水筒と一緒に左脇に抱えて、庭園を後にした。最後の仕上げが待っているのだ。
彼女が一歩踏み出すたびに、その胸は特徴的な揺れ方をする。
沈み、反発して上がった後に元の位置へ。
このみずみずしいサイクルは、脂肪が鎖骨のあたりから吊り下がっている不良品とは異なり、しっかりとした大胸筋の土台が支えているからこそ実現されるのである。
彼女が裸になり、手ぬぐいだけを持って入った先は大浴場だ。
無酸素運動と有酸素運動の後、そこにあるサウナで最後の汗を流しきることが、彼女にとってはある種の儀式であり、忙しく過ぎる日々の中にあるジンクスの一つである。
まずは、すみずみまで綺麗に体を洗って清潔にしなくてはならない。
そして、しっかりと全身の水気を拭き取ってはじめて、サウナに入場する権利を与えられる。
このマナーを守らない輩は、身を以て思い知ることになるだろう。
彼女はシャワーブースの一つに入り、壁から突き出ている蛇口をひねった。
頭上から冷たい水が落ちてきて、両腕で自分の体を抱いてしまう。
両胸が左右から押さえつけられて、V字の急な谷を作ったのである。
鳥肌がたち、本当に薄い産毛の上を水が流れていく。
それは腕でせき止められたダムに溜まっていくのだった。
たまらず、クリスティナは両腕を広げる。
ダムの決壊。
解放された汚れの無い乳房の先端が、翻った弁のように外側に開いて揺れる。
やがて水は湯となった。
髪の毛をかきあげて、天井のシャワーヘッドに顔を向けて目を瞑る。
落ちてくる湯が全身をくまなく流れるように前後左右に動いてみたりする。
シャワーを止めた彼女は、慣れた手つきで石鹸を泡立てた。
背筋を伸ばして胸を張った状態で体を前に倒し、目線を後方に送り、泡の塊を恥骨の上に置いたのである。
それを始めは右手で回すようにしながら広げていき、お尻の左右それぞれに十分な量が行き渡ったところで、両手で同じようにしながら下へ下へと引き伸ばしていく。
その姿勢で手が届かなくなったので、彼女は足を後ろに上げて、しっかり目視しながら、ふくらはぎから足の裏まで手のひらを這わせた。
全身へ泡を行き渡らせた彼女は、薬草の配合された備え付けの洗髪剤で髪を洗う。
頭皮はあまり刺激しないよう柔らかな手つきで、決して爪を立てないように。
満足がいくまでわしゃわしゃ頭をやり、毛先までしっかりと揉み込んだら、シャワーのお湯で洗い流す。
それから、彼女は髪の毛を右前に流して水気をしごきとった。
手ぬぐいを小さく折りたたんで絞り、ぽんぽんと全身に当てて水気を拭き取っていく。
最後の仕上げに、
シャワーブースを出、浴室の小プールの横にある漆黒の扉の前に立つ。
扉のガラス越しに見えるすのこを敷き詰められた小部屋は、暖かな橙色の光で満ちていた。
大きなあくびをした後に、扉のガラスには、仄かに少し照れているクリスティナの姿が映った。
新たな世界の入り口に立ち、彼女は大きく息を吸い込んで、重い扉を開けた。中に入り、まず十二分計を見た。
「六…… 二か」
本来は一周するまで耐えることが理想だが、このサウナは少し温度が高く、八分でも十分な効果が得られる。時間など目安に過ぎないのだ。
自身の耐熱性と水分量を見極めて、最良のタイミングで出ること、何よりもこれが大切だ。
クリスティナが、焼け石の置かれた暖炉の一番近くの席に、背筋を伸ばし、股を広げて座る。
体の前面に満遍なく熱波を浴びるためだ。
顔に手ぬぐいを巻くことで、自らの耐久力をあげることも可能だが、そういった甘えた考えは彼女には無いようだ。
あくまでも
一分、そして、もう一分。
まだ汗一つかきはしないが、じわじわと熱が体に染み込んでいく。
彼女は涼しい顔をして目を瞑っていた。
さらに一分が過ぎ……ゆっくりと時間が経過していく。
クリスティナは低く唸った。
目を開けると顔の汗を払って十二分計に視線を送る。
既に五分を回っていた。
いや、彼女にとっては『既に』ではないだろう。
ここからは、自分自身との戦いになってくるのである。
溢れ出す
秒針を睨みつけながら、両肩に溜まった水滴を手で潰す。
彼女の頬は上気し、呼吸も荒くなって、一回目のぬめりのある汗が、体を艶やかに照らしている。
六分からの時間帯、彼女はいつも誰かが居ればと思うのだった。
会話をすれば、暑さから気を逸らすこともできるし、時間を少し忘れることもできる。
独りで出来ることといえば、別の人格を空想し、それが暑がっているだけだと頑なに信じ込むことや、目を瞑ると現れる友人に話しかけることくらいである。
高鳴る脈動を忘れるために、全力を尽くす。たった、数分の短い時間で良いのだから。
十二分計が、定時を知らせる。
彼女は自分の大切な部分を密かに指で弄り、すぐに手を離した。
頭に巻いた手ぬぐいをほどく。
これ以上、自分を騙して長居する必要もないからだ。
クリスティナが立ち上がると、汗が滝のように流れ落ちた。
気だるそうにして扉の前に立ち、手ぬぐい越しにドアノブをひねる。
涼しげな空気がサウナに侵入する。
その風を受けて、彼女は表情を少し綻ばせる。
よろよろと元のシャワーブースに入り、
まだ、サウナへの挑戦は始まったばかりである。
彼女の足は、小プールへ。
ほとんど誰も入ることのない水たまりに、ゆっくりと足を沈めていき、息を大きく吸って肩まで浸かる。
もたれかかることで、首の後ろまでしっかりと冷水に触れさせることができた。
そこに密集する褐色脂肪細胞が活性化し、ますますクリスティナは美しくなるのだろう。
びりびりと皮膚が引き締まるのを感じ、彼女は小プールから出た。
手ぬぐいをよく絞り、全身の水気を拭き取る。
しばらくの間、彼女は小さなプールサイドに腰掛けて、呆然としていた。
だんだんと表情がだらしなくなってくる。
その体内では
つつ、と水滴が、内ももを伝う。水の拭い損ねに、彼女は気づいていない。
すっかり快楽を堪能してしまったクリスティナは、再びサウナへと足を踏み入れる。また同じことを繰り返すのだ。
合計で二十分以上は入るのが良いとされるのが定説であり、教えられずとも自然にそうなっていくのが人間の摂理だ。
瞳を閉じれば
人は異常な熱気の中、幸福物質を追い求め、そして耐える。
三回目のサウナ。
十二分計の八から四を目指している最中のことである。
時刻は三で、さらさらした汗を手ぬぐいで拭いている時だった。
彼女は秒針が九の位置から登り始めるのを確認したが、立ち上がろうとしない。
まだ、耐えられると確信してのことだ。
それは、小プールで冷やしすぎたからなのかもしれないし、もっと汗をかき、苦しい思いをしてこそ大きな快感を得ることができるのだと、余計な欲が湧いただけなのかもしれない。
どちらにせよ、彼女は熱を耐える手段を使わなくてはならない。
全身の汗を手ぬぐいで拭き取る。
少しの動きが、心臓に大きな負担をもたらす。
彼女はゆっくりと目を瞑った。
熱波に耐えているのは自分ではないと思い込もうとする。
昨日の夕食不味かったな!と頭の中で再生する。
そして、瞼の裏側に焦点を合わせたのだった。
「なんだ、お前かよ、ナコト……」
ふわふわし始めた意識の中、彼女は思うのだった。
あなたにとって私もそうでありたい、と。
〜完〜
March 9th 志々見 九愛(ここあ) @qirxf4sjm
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