第二十八話:揺れる心は紅碧に溶ける
優しさを驕るほど、愚かにはなれなくて。
その手を離せないほど、傲慢であったのだ。
第二十八話:揺れる心は紅碧に溶ける
夜は濃くなる。夜が来れば、皆眠る。エリュファス村も例外ではない。壊された村は、まだ被害の少ない家を分け合って、数人の夜番を残して、今だけは、苦しい現実を忘れて夢に落ちる。
静かな夜だった。
被害の少なかった大木。その家の主であるメルオディアは――目を開き、目の前の男を見ていた。
「――待って、いタわ」
はっきりとした声だった。昔のような、若返ったような、透き通る声だった。
「……ああ、遅くなった」
メルオディアに、目の前の男は静かに答える。灰の髪を三つ編みにした、赤い目の男。
「貴方が守る、アの子は……ジュンは。そう、ナノね、レイ」
ハザマ――そう、純に名乗り、呼ばれる男は、今は、今だけは、『レイ』である。
かつての名を呼ぶ、かつての仲間に。『レイ』は、目を伏せた。
「本当はあのルクスリアとかいう男、叩っ切りたかったんだがな。姿を出すには人が多すぎた――影から斬撃を飛ばすのが限界だった」
赤い一閃、純をルクスリアから解放したそれ、その主である彼は、息を吐く。うふふ、と、メルオディアが笑った。
沈黙が落ちる。
「……連れて行って、くレルのね」
「本来は裁判者の仕事なんだがな。この界には来ないから」
裁判者機関――それが、人間達の死した魂を管理し、転生させる存在。掟破りを罰し、『世界』の均衡を守るもの。
それらは、今やこの界には来ないのだ。見捨てられてしまったのだから。
「俺がやるしかない。パラドックス――魔物に加えて、悪霊まで溢れたらどうしようもない」
メルオディアが微笑んだ。その目は、悲しみを帯びている。
「――ごめんナサい。貴方一人に、背負わせてしマウ」
「元々覚悟の上だ。気にするな」
『レイ』は、メルオディアに一歩、歩み寄る。メルオディアは――目を、閉じた。眠るように、安らかに。
「――永遠に、お休み。良い夢を、メルオディア」
彼女の体から抜け出た、白く美しい光を――彼は、その手に掬い上げる。
静かな夜だった。
――英雄が、また一人。覚めぬ眠りについた。
*
何ともなしに、純は目を覚ました。簡易な寝袋はあるとはいえ、床で眠った体は少々軋む。軽いストレッチをしつつ、身を起こし、今は何時か、と考えた。
メルエージュに案内された、離れと呼ばれる――他と比べるとやや小ぶりな大木、の中。あまり使われていない、倉庫のようなものなのだろう。メルエージュが掃除してくれたとはいえ埃っぽく、あまり眠るのに良い環境だったとは言えない。ただ、外よりはマシであり、そして、この村でそこを宛てがってくれたことは出来うる最大の心遣いだったことも理解している。
レオンとアカザ、インウィディア、そして夜のうちにこっそりと返されたいぬは、まだ寝袋に包まれて寝息を立てていた。コンコン、と、軽く木が叩かれる音がする。
「アラ、ジュン、起きてたのネ」
離れの扉が開き、ひょっこりと顔を覗かせたのはメルエージュだった。その手には、大きめの鍋がある。その蓋の上に、器やスプーンも積まれていた。
「……いい、におい……?」
寝惚けた声が聞こえて、純が振り向くと、レオンが寝惚け眼で起き上がっていた。同様に、アカザとインウィディアも各々目覚めていく。メルエージュが笑って、鍋を持ったまま内部に足を踏み入れた。
「皆お早ウ! 朝ご飯持ってきタノよ。こんな場所で食べサセて申し訳無いケド」
「いや、大丈夫。ありがたいよ」
「……、ウン」
純の返事に、メルエージュは眉を下げる。そして、器を並べ、鍋の中のシチューを人数分注ぎ始めた。
「怪我は昨日の夜治したケド、体に溜まった疲労が完全に取れるわけジャないわ。あんまり無理はさせたくナイんだけど……」
朝食を終え、メルエージュはそう切り出した。純達の視線を受けて、メルエージュは困ったように目を伏せる。
「……昨晩、夜番の人ガネ。大婆様が亡くなってイルのを発見したノ」
「大婆様……あの人が!?」
「……夜番の人ハ、『悪魔の子が大婆様の生気を奪って殺シタ』って言い張るノヨ。多分、村の人達の大多数がこれに賛同するワ。まだ発見した夜番の人とパパしか大婆様の訃報は知らないケド、時間の問題ネ」
「!」
目を見開いた四人に、メルエージュは悲しそうに、「あんまりこの村に長居は出来ないワネ」と告げた。それは、純にもよく分かる。メルオディアの死がレオンやインウィディアのせいだという話は、村全体を包むだろう。昨日の様子を鑑みても――
「でも……でもネ、ワタシも大婆様の遺体を見たわ。大婆様は確かに亡くなっていたけど……とても安らかな顔をしてイタの。ワタシはきっと貴方達が来てくレタおかげで、大婆様はゆっくり眠れたんだと思ウわ」
――その言葉に、嘘の気配はない。真っ直ぐに純達を見て、メルエージュは微笑んでいる。
レオンが、息を吐いた。
「……ありがとう、メル」
「お礼なんて良いノヨ! 寧ろワタシ、貴方達に謝らナクちゃ」
メルエージュは眉を下げて、ごめんなさい、と、言いづらそうに頭を下げる。
「……パパが呼んデルわ。言われるコトは予想がついテルと思うけど……来てクレる?」
断る理由は無い。純はレオンとアカザに目を合わせ、頷き合う。
俯いたままのインウィディアの手を、確かに握り締めた。
外に出て、純はまだ太陽も登りきらないほど早朝に起こされたことを知った。村人もまだ、殆どが眠りについているようである。
メルエージュに案内されて、村長の家に足を踏み入れた。昨日と同じ応接間に通され、座椅子に座るメイズラドの前に――今度はメルエージュも純達に並んで、座布団に正座する。メイズラドの様子は、昨日とあまり変わらないように見えたが――やはり、よく見れば少し窶れている。あまり、眠れていないようだった。
「――結論から、言オウ」
メイズラドはそう切り出す。
「早急に、村を出て行ってホシい。村人が起きる前ニだ」
「……ですよね」
予想していた言葉に、純は肩を落とす。分かっていたことだった。メイズラドは、村の悪い噂を収めない。収められない。
彼は、どこまでも村長なのだ。
「……青の鏡が、メルに吸収さレタことは聞いてイル。約束通り、『青の鏡』を持ち出す許可は出ソウ。私が言えるのはそれダケだ」
「ワタシ、ジュン達と行くワヨ、パパ! 村長の跡継ぎはマイルが居れば十分デショう?」
メルエージュの宣言にメイズラドが答える言葉はなかった。しかしそれを是と取ったのか、メルエージュはふんと鼻を鳴らす。
純は、メイズラドに向き直った。
「……お話は、それだけでしょうか」
「……アア」
「分かりました。それでは」
一礼し、立ち上がる。それを、メイズラドは黙って見ていた。
――レオンは、黙ったまま、メイズラドを見下ろしている。出口に向かおうとしていた純達は、動かないレオンに振り向いて、声をかけようとした。
「オレ、この村のこと、好きにはなれません」
そう、レオンは口を開いた。メイズラドは黙って見上げている。メルエージュは、眉を下げ、何か声をかけようとして迷っているようだった。
「投げられた石も、悪魔の子って罵られるのも、痛かった。守ったのにって思う気持ちもあるし、わからず屋って、憤る気持ちもある。村長、貴方のことだって、好きになれないです」
「……アア」
「だけど、」
知っている、とでも言うように、メイズラドは呟いた。それに、レオンはまた、言葉を落とす。
「メルが、受け入れてくれて。メイリーさんも、理解してくれた。だから、この村を、憎んだりもしません。
――青の鏡のこと、離れのこと。許してくれて、ありがとうございます」
ぺこり、腰を折って、レオンが頭を下げる。メイズラドは何も言わなかった。目を合わせることも無い。レオンはそれで、良かったらしい。顔を上げ、踵を返して、出口――純達の方へと歩み寄る。
――外に出た。太陽は先程よりも高くなっていて、明るさが増している。急がなければ、村人達が起きてしまうだろう。荷物の類は既に全て宝石の中である。後は、村から出るだけだった。
「レオンは強いのね」
――村の、壊れた門へと歩いて。もうそろそろ門を踏み越える、そんな時。
そんな声が落ちた。その声の主は、ローブの中にいぬを抱えたインウィディアだった。彼女はレオンの隣、俯いている。
「私は……分かっていたのに。やっぱり……石を投げられたこと、悲しいし、あんな風には、言えないかもしれない。
……おじいさん、の、おかげなのかしら。それからアカザも……、レオンには、いっぱい、繋がりがあるのね」
羨ましい。
そんな言葉が、後に連なる気がした。否、もっとドロドロとした――妬ましさ、かもしれない。そんな風に、純には感じられた。インウィディアは俯いていて、表情は分からない。純も、レオンも、かける声が見つからないでいた。
――沈黙に。は、と、インウィディアが我に返ったように顔を上げる。そして――見開いた紫に、恐怖が宿った。
「――っご、ごめんなさ……っ、こんな、ちが、ちがうの、わたし、」
乱れている。インウィディアの心が。純は彼女のこの姿に覚えがある。パルオーロで何度も見た姿だ。不安定に、なっていく。こうなった彼女は逃げてしまうか、倒れてしまうか――何にせよ良い結果にはならない。何より心配で、どうにかしたくて、純は手を伸ばそうと、して。
――ある、ひとつのことに気が付いた。
「いたっ」
小さくインウィディアが泣き言を零す。伸ばした手で、純が彼女の額を弾いたからだった。インウィディアが涙の溜まった目を丸くしている。そんな彼女に、純は、気が付いたその疑問を、零す。
「なんか、ウィディ、嫉妬しちゃダメみたいに思ってない?」
「……へ?」
インウィディアが間の抜けた声を上げる。それは、見当違いな事を言われた困惑よりは、『当然だと思っていたことを覆された』困惑のようだった。アカザが首を傾げる。
「え、何、あんなに慌てたのそれが理由か? 嫉妬くらい誰でもするだろ、気にすんなよ。なあレオン」
「う、うん、気にしないよウィディ」
「大丈夫よウィディ! 妬いちゃったクライ可愛いものダモの! そんなに気にして本当良い子ナノね!」
「え、え?」
レオンが頷き、メルエージュが抱き着いた。インウィディアは目を白黒させて、意味を成さない疑問符を飛ばしている。
そんな姿に――純は考えていた。
インウィディア。invidia。純が元の世界で読んでいた小説の知識ではあるが、確かラテン語で『嫉妬』を意味する言葉だったはずだ。ルクスリアとは『色欲』。その名を冠する昨日の男は『ああ』だった。それならば――あのような男と同じになりたくない、と、嫉妬という感情に巨大すぎる忌避感を持ってしまっても無理はない。しかし、本来七つの大罪とは、人間が持つ当然の感情だ。だからこそ、それが行き過ぎれば大罪になる。しかし無くすことなど出来ない。だからこそ、受け入れて、上手く整理していくべきものだ。過度に怯える必要は無いものだ。
――否。インウィディアがそこまで怯えるのは、それだけが理由ではないのかもしれない。きっと彼女は、純達の知らない多くのことを抱えている。だからこそ、何度も謝るのだろう。
――それでも。
「大丈夫だよ、ウィディ」
メルエージュに抱き着かれ、レオンとアカザに囲まれているインウィディアに歩み寄る。そうして、メルエージュと共に、抱き着いた。彼女の体は、いつもより熱い。
「嫉妬したって良いよ」
――彼女が、何を抱えていたとしても。
「何があっても友達だから、大丈夫」
インウィディアが目を見開いた。ビクリ、と震えて――ぼろぼろと泣き出してしまう。それでも、パニックの影は見えない。泣きながら、それでも笑っている。
「……うん、皆、ありが――」
「やい、ヨソモノ!」
突如、複数の、子供の声が響いた。村人が起きたのかと、純達は焦って声に振り向く。
その先にいたのは、昨日インウィディアと遊んでいた子供達だった。彼等は各々、「違うヤ、ヨソモノじゃナイ」「インウィディアと……何だっケ」「何か、イッパイ!」などと話し合っている。そうして、やがて純達に向き直った。
「アノナ! 村の事! 守ってクれてアリガトー!」
子供達の声が村に響き渡る。子供達は、叫んで、きゃいきゃいと言いながら走り去っていく。純達はぽかんとそれを見送って――
――なんだか、笑えてきてしまった。
「……行こっか。今の声で村の人達が起きちゃうや」
笑いあって、純達は村を出て行く。
先程よりも、ずっと足取りは軽かった。
*
森を抜ける頃には、太陽は登りきっていた。アカザが持つ懐中時計は朝七時を指している。
「さて、こっからどうするよ? 丁度スルド駅が近くにあるしよ、行こうと思えばどこでも行けるぜ」
「うーん、どうしようか……語り部さんが言ってた聖セリアも気になるけど」
「聖セリア! 聞いた事アルわ、キリュート教の聖地でショウ?」
レオンの呟きに、メルが顔を輝かせた。純にも聖セリアに向かうことに異論は無い。その意志を発信しようと、純もまた、口を開こうとして――
『びぎゃあ!』
――なんだか久しぶりに聞くような、いぬの、可愛らしいとは言えない鳴き声が響いた。
「いぬ? どうしたの?」
純達がいぬ、そしていぬを抱えるインウィディアの方へ振り向く。いぬはローブの下でもぞもぞと動いているらしく、ローブ越しに山が動く。抱えるインウィディアは――ぼうっと、放心したようだった。こんなにも己が抱える生き物が忙しないと言うのに、気付いていない、ように。
『ぎゃー!!』
「……っ、あ」
もう一度いぬが鳴いて、それでインウィディアは我に返ったらしい。腕の中のいぬを見下ろし、集まる視線に気が付いて、純達を見上げた。
「ご、めんなさい、ぼうっとして……」
はぁ、とインウィディアが息を吐く。いつもより、湿度の高い吐息。
――純は、先程抱き着いたインウィディアの体温が、妙に高かったことを思い出す。そしてメルエージュも同じことを考えたらしい。一つ、歩み寄り、インウィディアの額に手を当てた。
そして、目を見開く。
「――大変! ウィディ、凄い熱ダワ! さっきより上がッテる、38度くらいあリソうよ!」
「……ねつ?」
呆然と繰り返した、インウィディアの体が揺れる。倒れる、と察知して、咄嗟に踏み出した純がその体を支えた。触れた体は、成程、酷く熱い。荒く息を吐いて、苦しげに眉を寄せている。
「ウィディ!? え、ええっと、どうしよう!?」
「落ち着け馬鹿レオン!とりあえずまずは医者だ、ここから一番近い町は――」
慌てるレオンを制し、アカザが叫ぶ。
「スルドだ! スルドに行くぞ!」
「魔力熱暴走ですね」
慌ててインウィディアを抱え、スルドに駆け込んだ。スペースにレオンの家を出し、インウィディアをベッドに寝かせ。
そして――アカザが呼んできた高齢の医者は、インウィディアを診て、事も無げにそう言った。
「魔力、熱暴走?」
「魔力を持つものなら何にでも起こりうる、バグのようなものです。大体は魔力動式の装置に起こる故障ですが、まだ魔力の扱いが下手な幼児にも起こることがありますね。特に魔力量が多いと――まあ、人間に起こった場合、感染しない風邪のようなものだと考えてくれればよろしい」
この子ほどの歳で起こることは珍しいですが、と付け加えて、医者はインウィディアを見やる。純が寝かせ、メルエージュが汗を拭いた彼女は、今はまだ火照り息も荒いが、先程よりも寝顔は安らかである。
「薬の類は効きませんので――アメジストはありますか? それを持たせてやりなさい。あれは魔力を落ち着かせる効果がありますから、治りを早めます」
――医者を見送り、純達はリビングに集まった。あまり大勢でインウィディアの眠る傍に居ればゆっくり休めないだろう、という配慮の元、看病に慣れており同性でもあるメルエージュだけがインウィディアの部屋に残ったのである。
そして、そのメルエージュも、その数十分後にリビングにやって来た。
「アメジストのブローチを握ってもらッテいたラ、ウィディの熱も微熱くライまで下がったワ。これなら夜ニハ楽にナルと思ウ」
「そっか、良かった……緊張が解けたのかもね」
息を吐いたレオンに微笑んで、メルエージュは純達同様にダイニングテーブルを囲む椅子のひとつに腰かける。
「完全に寝入る前に、ウィディがお話してクレたのヨ。昔もコンな風に、魔力熱暴走で寝込んだッテ。
……その時は、スペルビアって人が看病してくレタんデスって」
「スペルビア?」
メルエージュの言葉に、純達は揃って目を丸くする。スペルビアに対面したことの無いメルエージュは首を傾げたが、「エエ」と言葉を続けた。
「スペルビアは優しい、って、話してくレタわ。頭を撫でて、魔力を整えテクれて、眠るまで手を握って傍でお話シテくれたッテ」
「……そっか」
スペルビアと対峙したことのある純達にとっては複雑な話である。特に、大怪我を受けたアカザは微妙な顔をして、「確かにルクスリアとかいう野郎よりマシだけどよ」と呟いていた。
「まあ、それはともかく……エリュファス村でも色々あったし、今日くらいゆっくりするのもいいかもね。供給も兼ねて、それぞれスルドで好きな所に行くってことで。一人くらいウィディやいぬのために家に居た方がいいかな」
「ソレならワタシが残るワ、実はちょっと疲れチャッて」
レオンの提案と、メルエージュの言葉に、それぞれ皆、頷いた。
スルドは小さな町である。しかし、それは面積の問題であって、町自体は都会に近い。そもそもスルド駅というものを持つ町である。人も、物も集まるのは当然の道理であった。
レオンは図書館で、アカザは酒場で情報収集をするらしい。その中で、純は一人市場に居た。目的は当然、買い物である。激しい戦いも経て、服の状態は良いとは言えなかったのだ。同じ戦いを経ているはずのレオンやアカザの服はあまり不備が見られないのだが、曰く、レオンやアカザが着ている――純が初めて見た時はいかにもファンタジー世界の衣装だと感じたような――宝石や金具の埋め込まれた衣服は旅人用に丈夫な繊維で作られ、さらに宝石の加護で守られている頑丈なものなのだと言う。一方で純が、元の世界で着ていたものに似ているという理由で選んだものは、所謂村人用、即ち旅や戦いに向いた素材ではないらしい。
というわけで、純は服屋に向かっていた。目的は『旅人用の』衣服だ。その中で、元いた世界で着ていたものに似たものがあれば万々歳なのだが。
そんな思いで市場に繰り出して――
――純は、信じられないものを見た。
ウエーブのかかった蜂蜜の髪。涼しい海とも、晴れ渡る蒼空とも形成できそうな、それでもまだ足りないかもしれない碧眼。真顔をしていると、よく出来たつくりもののように見えてしまうほど整った顔。老若男女問わず魅了するであろう――その証拠に『そこ』には人集りができて、性別も年齢も関係なく見惚れさせている――その、魔性の美。
その顔には見覚えがありすぎた。そして、その顔が、ついと純に向けられる。
「やあ、来てくれて嬉しいよ、もう来ないかと思った」
微笑み。まるで恋人にでも向けられるような、柔らかなそれ。だが純はもう知っている。それが猫被りであることを。
「待っ、た、って、何……」
「酷いな、忘れたの? 約束したじゃないか」
つらつらと述べて、目の前の美貌は指を指す。その先にあるのは、彼が先程まで見ていた看板。店先から、甘い匂いが香る。
――カップル限定、ふわふわスイートパフェ――
そこにはそう、丸いポップで書かれていた。
「そう拗ねるなよ。利用したことは悪いと思っている」
そう、機嫌良くパフェを頬張る男は笑う。パフェを添えても顔が良い男は顔が良い。それが純には腹立たしい。
――同じパフェを目の前に置いて。しかし、まんまと目の前の男――スペルビアにカフェに連れ込まれた純は、明らかに不機嫌だった。
「ほん、っとうに、有り得ないと思う、何恋人って、周りの視線痛かったし!」
「致し方ないだろう。僕だって君のような子供に興味はないが、『コレ』はカップル限定だし」
「知るか!」
カフェで選んだ席は個室である。故にスペルビアはとっくに猫を剥がし、純も遠慮無く噛み付いていた。がるがると威嚇する純に、スペルビアは鼻で笑う。
「本当は僕だって本物の恋人とが良かったがな、あの子は留守だったし、そもそもあの子と恋人を名乗っても納得してもらえそうにない」
「私とでも大概……って恋人居たの!?」
「何だ、君会ったことあるだろう」
そう言われても純には覚えが無い。思案していると、あっさりとスペルビアが答えを落とした。
「アケディアだよ」
「アケ……って、え!?」
「なんだ、同性恋愛には偏見があるタイプか」
「違うけど! 普通の驚愕だよ単純に!」
アケディアと聞いて、純が思い浮かべるのはかの大男である。インウィディアが酷く怯え、ハザマにも注意しろと釘を刺された、あの得体の知れない――
「そういえば」
項垂れた純に、パフェを半分ほど減らしたスペルビアが口を開いた。
「ルクスリアと戦ったらしいな」
その言葉に、顔を上げる。
なぜ知っているのか、とは愚問だろう。溜息をついて、純も、自分の目の前のパフェにスプーンを刺す。
「……スペルビアがめちゃくちゃ紳士的だったってよくわかったよ」
「あれと比べられるのは不本意だが」
「それはそうか。ごめん」
「……、あいつは随分嫌われたらしいな」
あっさりと純が謝ったことが意外だったのか、スペルビアは少し目を見開く。それを横目にアイスを口に含むと、純の舌の上でとろりと溶けた。濃厚だが軽い舌触りは、確かに美味しい。
「ウィディが言ってたよ。スペルビアは優しいって」
「それは彼女の勘違いだな」
スペルビアが目を細める。その目は冷えて、シュヴァルツで見たいろをしていた。
「彼女は僕が人を殺すことに忌避があると思っているのだろうが……僕だって、邪魔だと判断したら殺すことに躊躇いなど持たないさ。確かに今は少しは丸くなったが、それは恋人のおかげだろうな」
からん、と金属が鳴る。スペルビアの前、空の器にスプーンが入れられた音だった。
「――『僕達』は常に渇いている。欠落している。不完全なものは不安定だ。インウィディアの傍に居たのなら、覚えがあるだろう?」
純は答えずにいた。スペルビアはまた、言葉を続ける。
「僕はアケディアの存在で安定したが……『それしきのこと』で安定できた僕の欠落など大したことがなかったのだろう。
――中には常に、精神が壊れてしまっている者もいる」
純はまた、今度はパフェを覆うクリームと共にベリームースを口にする。軽くて甘い。この個室の空気とは正反対だ。
飲み込んで、口を開く。
「スペルビア。貴方も、魔物なの?」
「……ルクスリアは口が軽いからな」
スペルビアの碧色が伏せられた。そしてそれが再び開かれた時――彼の口元は、笑みを失う。
「そうだ。ランクはS、刻印は首の後ろ――丁度、肩甲骨と項の中間に」
「……」
純は口を閉ざす。そんな彼女に、スペルビアはまだ、言葉を続けた。
「君だってもう分かっているんだろう」
純は、何も言わずに、パフェを口を運ぶ。
スペルビアが立ち上がる。懐から金貨を1枚取り出して、机に置いた。パフェ2つ、買うには十分を越してあまりある。
「これは忠告だ、ヤマダジュン。
――知らない振りをするのは君の自由だが」
個室の扉に足を向け、スペルビアは言葉を落とした。
「『彼女』が選択した時、それを、否定してはくれるな」
扉が開いて、閉まる。スペルビアの足音が遠くなる。
――こつん、スプーンが器の底を叩いた。
「……お菓子、買って帰ろうかな」
純が服屋を出た時、空は赤く染まっていた。服を買った袋と、焼き菓子を買った袋。ふたつ下げて、純は空を見上げる。
――帰ろう。そう、純は視線を前に戻し、一歩足を動かした。
「……何だあれは?」
誰かが呟いた。その誰かは、どんどん増える。スルドの人々が、皆一様に怯えた顔で、空を見上げている。
スルドを闇が覆った。巨大なものが夕陽を遮ったのである。見上げた純もまた――目を、見開いた。
――町全てを覆い、まだ尾が残るほど、巨大な怪物。
青い鱗は魚のようだ。しかしその形状は、蛇に似ている。だがその大きさは、まるで竜か。
再び、スルドに夕日が射す。怪物はスルドを通り過ぎて、東へ飛んで行った。
「……な、何、あれ……?」
嫌な胸騒ぎがしてならない。純は急ぎ、家に向かった。
――帰った時、誰もがいつも通りだった。勿論謎の巨大な怪物に警戒はあったが、皆、異常は無く。元気になっていたインウィディアは、純の買ってきた焼き菓子を喜んでくれた。
いつも通りだった。
――翌日に。
インウィディアが、手紙を残して、忽然と居なくなるまでは。
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