第二十一話:新たな門出と闇の影
いかないでください。
いかないでください。
ねぇ、兄様。罪なら俺が背負います。
全部俺のせいなんです。
だから、兄様。
にいさま。
――俺を置いていかないで、ハザマ兄様。
第二十一話:新たな門出と闇の影
その日リックが帰宅したのは、もう夜の1時を過ぎた頃だった。諸々の後始末で国の上層部はここ数日忙しく、なかなか早くは帰れない。今日もアーサーに無理矢理切り上げられて帰らされたが、まだまだやることは残っていた。
レオンから聞いたスペルビアと名乗る男の話では、闇属性は、闇属性の魔力の『中』を通ることが出来るという。そして魔物は必ず闇属性を孕んでいる故に、闇属性の術者の意思で魔物を別の場所から引きずり出す事が出来るというのだ。
それが事実であるならば――そしてリシュール祭のパーティ会場に現れた魔物の群を思い出すに恐らく事実である――頭の痛い話だった。魔物が町や村という生命力が一定以上多く集まっている場所に自主的には来ないとしても、実質的な魔物の召喚が可能であるならば『町や村は安全だ』という神話が崩れることになる。しかも、どうやら闇属性の人間が集まったテロ組織があるのだとすれば――それは、紛うことなき脅威となるだろう。
それは国の脅威となるだけでなく、レオンやジュメレのような罪無き闇属性への懐疑心を強めることとなってしまう。それは、リックやアーサー、メイリーが避けたいことだった。しかし、だからといって国民に隠し続けることは新たな惨劇に晒すことになるかもしれない。
選びたくない、どれも救いたい。それは子供じみた甘えなのだ、と理解している。だからこそ――きっと近いうちに迫られる選択の『幅』を広げるために、国の上が動かなければならない。そう、アーサーは言った。
――とはいえそれで上層部が体を壊しては逆に『幅』を狭めることになると、無理矢理帰されて、リックは帰路に着いたのだった。
「……ただいまー」
声を潜めて、なるべく音を立てないように玄関の扉を開ける。普段ならリック一人で暮らしている部屋も、今はレオン達が居る。アカザは治療のために城に泊まっているので、身寄りの無いらしいインウィディアが今は当初アカザに宛がったベッドを使っている。
もう皆眠っているだろうと、忍び足で足を踏み入れ、リビングの机に鞄を置いた。
「……リック、お帰り」
「!」
無いはずの声が聞こえてリックの肩が大きく跳ねた。起こしてしまったのかと振り向いたが、声の主であるレオンの目ははっきりと開いており、先程まで寝ていたという風ではない。レオンは静かに寝室に繋がる扉を閉めて、リックの方へ歩み寄った。
「レオン、眠れないのか?」
「……うん」
「ホットミルクでも飲むか」
「うん……」
リックはレオンの頭を撫でて、キッチンの方へと足を向ける。レオンが静かに椅子を引き、腰を下ろすと、ソファで眠っていたはずのいぬがぴょんぴょんと飛び跳ねながらやって来た。いぬはそのままレオンの膝へと飛び乗って、『ぎえ』とあまり可愛げはない声を出す。手持ち無沙汰にその毛皮を撫でていると、リックが湯気を立てたコップを両手に一つずつ携えて戻って来て、レオンの向かいに座った。
一つを手渡され、レオンはそっと両手に包むようにコップを受け取る。充分暖められているが舌がやけどしそうなほどではない、優しい温度だった。一口喉に通すと、腹に暖かな温度が落ちる。
「……さて、俺に何か話したい事あるんだろ?」
そう、優しくリックは問うた。レオンが視線をコップに落とす。白い表面から湯気が立ち上っていた。
「……リックは、アークハット遺跡にオレ達が来たの、怒ったじゃん。それから、パーティ会場でも……」
「あぁ……」
思い出すようなリックの相槌を聞きながら、レオンはぼんやりと白い波紋を眺める。言葉に迷っているというよりは、言う言葉はあるがぶつける決心がつかないというような様子だった。レオンはまた一口コップを傾けて、やがて、迷いながらも声を落とした。
「リックはさ、オレ達が旅に出たの、嫌だった?」
リックはじっとレオンを見ていた。その目から逃げるように、レオンはまたコップに目を落とす。それを咎めるでもなく、代わりにリックは口を開いた。
「……そりゃ、心配はするさ」
声を落として、リックはコップを机に置く。ぴちゃ、と中身が少し跳ねた。
「旅に出たのというよりは……そりゃあ、お前らが怪我するのは嫌だし、旅に出ることで、悲しい思いをするのも嫌だな」
レオンは何も返さずに、口を引き結んでコップを見下ろしている。そんなレオンに、リックは微笑んだ。
「でもそんなの、お前らは気にすることないんだよ」
「……!」
ぱっと顔を上げたレオンの目に、優しく笑ったリックが映る。
「俺は、お前らの保護者みたいなもんだからさ。叔父さん叔母さん……アカザの両親からも頼まれてるし、師匠からも頼まれてる。ジュンちゃんやインウィディアちゃんも、お前らの友達なら、保護者として守ろうと思う。
……んで、保護者って、なんかいつまでも子供扱いしちまうもんなんだよ」
リックは優しい目のまま、懐かしむように細めた。
「特にレオンやアカザはちっちゃい頃から知ってるからさ、認識が遅れてるんだよな。まだ5歳くらいに思ってるとこあるよ」
「……それは遅れすぎじゃない?」
む、と少し頬を膨らませたレオンに、ごめんごめんと笑いながら、リックはその頬をつつく。ぷしゅ、と空気が抜ける音がした。
「でもそんなの、お前らが気にすることじゃないんだ。俺が思ってるよりお前らは大きいんだよ。俺の知らない間にお前らはどんどん成長していくんだから」
そう笑って、リックは続ける。
「だから気にせずに、好きなことやればいいんだ。お前らの人生は俺のじゃなくてお前らのなんだから。俺は保護者だから、5歳児みたいに思ってるお前らに小言も言うし、止めたりする。怒ったりもする。でもお前らは本当は15歳だ。だから時には小言を聞いて、時には無視して、時には怪我もしたりして、好きなことやればいいんだよ。死ななければ充分だ。好きなことやればいい。俺達大人だって、そうやって大きくなってきたんだから」
リックの優しい青色に、レオンの顔が映っていた。
揺れていたレオンの瞳は、やがて確かな光を宿す。
「どうだ、もう眠れそうか?」
そう、リックが悪戯っぽく笑った。レオンの顔も少し緩んで、ゆっくり頷く。
「ありがとう、リック」
「どういたしまして、レオン」
レオンは膝の上のいぬの頭を優しく撫でる。ぎゃぴー、といぬが心地よさそうに鳴いた。
窓からは、優しい月の光が注がれていた。
*
純が目を覚まし、インウィディアと共にリビングへ向かうと、レオンは既にそこで朝食を並べていた。二人の到着に気付いて、レオンは顔を上げる。
「お早う、二人とも」
そう笑うレオンの表情に、昨日の憂いや迷いはもう見つからない。
「……何か、吹っ切れた?」
「うん、心配かけてごめんね」
純の問いに、レオンは笑って頷く。手に持っていた皿を置き、彼は真っ直ぐに純とインウィディアを見た。
「オレ、旅を続けるよ。じいちゃんか何を思ってたのかはわからないけど、旅の間にそれも見付けたい。また一つ、行きたい場所も出来たから」
その言葉に、純は安堵の息を吐いた。
レオンの目に曇りはない。昨晩の間に何があったのかはわからないが、きっと、新たに見つめ直すことが出来たのだろう。あの夜に、純とアカザがそうだったように。
「……そう、良かった」
純の隣で、インウィディアがふわりと笑った。
「誰かの都合で、願いが歪められるなんて、悲しいものね」
続いた言葉は、純が振り向いた時にはインウィディアはもう俯いてしまっていて、どんな表情をしていたのかは分からない。レオンも首を傾げたが、特に詮索することはなかった。
「心配かけてごめんね! もう大丈夫! ……そうそう、城にいるアカザからさっき連絡があってさ、国王様が呼んでるんだって。朝ご飯食べたら行こうか」
国王様が?
驚いたのは純だけではなかったようで、インウィディアも顔を上げて目を丸くしていた。
「何かあるのかな」
「なんか、連絡と、頼みがあるんだって」
連絡については、昨日のアカザの回復の様子で何となく察しがついた。しかし頼み、というものが見当がつかず、三人で顔を見合わせた。
ともかく朝食を済ませ、三人で城に向かう。表は人通りが多いので裏口から入っていい、とのことで、その言葉通り裏に回る道を歩いていると、純は見覚えのあるものを見付けた。
「桜だ」
並木道の木々に幾つか小さく桃色の花が咲いていて、つい足を止めてしまう。まだ咲きはじめなのだろう、殆どは蕾であった。
「ほんとだ! サイスト島の植物らしいけど、パルオーロにもあるんだなぁ」
流石知の都だなぁとレオンは感嘆の声を上げる。知は関係あるのだろうかと純は疑問に思うが、外から持ち込んだりするのは知識人の道楽だったりすると歴史の授業でも見た覚えがあるような気がするし、そうなのかもしれないとぼんやり考えた。
それにしても、こんな所に桜並木があることは初めて知った。そういえばこの道を通って城に行くのは初めてだから気付かなかったのだろうと思い至ると共に、一つの疑問が浮かぶ。
そういえば、この世界では何月なのだろう。半袖シャツにプリーツスカートでも過ごしやすい気候だったためにすっかり忘れていた。桜が咲いているということは春なのだろうか。
「レオン、今って何月なの? 4月?」
「ガツ?」
「あっ月日の概念違うんだ……」
時計は同じなのにと、察して純は空を仰いだ。久しぶりにカルチャーショックを味わった気がする。
「えーと……季節って言って通じるかな」
「ああ! 今は春の10だよ」
月は無いが四季はあるらしい。純の世界で言う何月から何月を春というのかは定かではないが、まあそれは良いか。と思考を片付けた。
と、同時に、純は自身に刺さる視線に気がつく。隣の、少し下からの視線。気遣わしげなそれに、純は失態を察した。
――そういえばインウィディアは純が異世界から来たことを知らない。今の会話はあまりにも、純が世間知らずか、頭がおかしいように聞こえるのではないか?
「違うのウィディ!」
思い至って、慌ててインウィディアの両手を握る。びくりとインウィディアの肩が震えたが、純は純で必死であった。
「あの、私異世界から来たんだ! だからこの世界の常識に疎くて!」
インウィディアが目を見開いた。それを見て、漸く純は冷静さを取り戻す。そしてまた別の意味で焦った。こういうこと言って良かったのだろうか、と。頭のおかしさに拍車をかけるだけだったのではないかと。
そしてそんな中――ぽたりと、純の腕に雫が落ちた。
「……ウィディ?」
インウィディアの瞳が揺れて、ぼろぼろと涙を零している。止まった純の思考が動く前に、インウィディアが口を開いた。
「ごめんなさい」
彼女はそう言って、顔を手の平で覆う。
「ごめんなさい、知らなかったの、私は何も知らないの、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……っ」
へなへなと蹲ってしまった彼女に、慌てたのは純とレオンだった。
「ど、どうしたのウィディ!? ごめん!! そんなに怖がらせた!?」
「ウィディ!? オレ達怒ってないよ!?」
それでもインウィディアは泣き続け、レオンと純は慌てる。桜並木の中でのそんな騒動を鎮めるものは無い、ように思われた。
「どうしたの?」
凛とした声。
純とレオンが振り向くと、そこには一人、女性が立っていた。
衣服は煌びやかではないが質が良く、立場のある人なのだと分かる。右の横髪は下ろし、左は編み込みに纏めている茶髪はそもそも色素が薄い方なのだろうか、太陽の光で明るく艷めいていた。それは瞳も同じで、本来赤紫であろう瞳は光に当てられて桜色になっている。年齢は、若く見えるが、その落ち着きから20後半から30前半ではないかと察せられた。
彼女は三人に歩み寄り、インウィディアの前で上品にしゃがみこむ。
「あら。あらあら。動転してしまっているのね。可哀想に」
彼女の指が、手袋越しにインウィディアの髪を撫ぜ、その肩を引き寄せてそっと抱き締めた。
「大丈夫。大丈夫よ。あなたが何を恐れているのか知らないけれど。あなたの恐れに私は何も証明を出せないけれど。でもきっと大丈夫よ」
ごめんなさいと繰り返して震えていたインウィディアの声は、次第に小さくなっていく。やがてその声は吐息となって、くたり、と女性の腕の中でインウィディアは力を失った。
「あらあら。泣き疲れて眠ってしまったのね。赤ん坊のようね」
インウィディアの頭を撫でながら、女性は顔を上げて純とレオンを見る。
「この子は私が見ておくから、早くお行きなさい。アーサーに呼ばれているのでしょう?」
「あ、あの、貴女は……?」
国王であるアーサーを呼び捨てにする女性の正体が見えず、純は困惑の声を上げる。ふふ、と艶やかに笑って、女性は首を傾げた。
「スリジエよ。パルオーロの古い方言で、桜という意味なの。良い名前でしょう?」
「スリジエ……様!?」
レオンが声を上げた。純にはその名前がわからないが、レオンは知るところであるらしい。女性、スリジエは、またうふふと笑って、「ほら」と二人を送り出した。
王の間には既に、玉座にアーサー、その隣に何やら小さな宝箱を持ったジュメレ、そしてリックとメイリー、階段を挟んで玉座の向かいにアカザが、それぞれ揃っていた。純とレオンは慌てて一礼し中に足を踏み入れると、アカザが二人を見て、首を傾げる。
「ウィディちゃんは?」
「途中で……えっと……色々あって、眠っちゃって……?」
レオンが頬をかいて答えた。曖昧な答えにアカザはまた首を傾げたが、純にもそれ以上の答えは返せないので黙っておく。インウィディアがどうしたのか、分からないのは二人もなのだ。
ついでに純にはスリジエなる女性のことも分からない。急いでやって来たのでレオンに聞く暇もなかったのだ。しかし、聞こうと口を開く前にレオンはアーサーに向き直った。
「王妃様がウィディのことを見てくれてます」
――王妃?
純は目を見開く。あの女性のことを言っているのだとすれば、つまり。
「そうか、スリジエが……あとで礼を言っておこう」
アーサーが優しく、愛しさを秘めた目で微笑んだ。
――成程。国王を呼び捨てにするのも当たり前だと察して、純は納得した。夫婦なのだから、何ら問題は無いだろう、と。
アーサーは顔を引き締め直して、階下にいる純、レオン、アカザの三人を見下ろした。
「さて、では本題に入りたい」
その言葉で、三人も姿勢を正す。それを確認して、アーサーはまた口を開いた。
「まず、アカザ君はもう包帯も解いていい。君達ももう旅立てる筈だ」
「……! ありがとうございます。ウィディの体の調子によるけど……出来れば、オレは、明日にでも旅立ちたいと思ってます」
レオンが確認するように純とアカザの顔を見る。二人が頷いて了承を返すと、ほっとしたように息を吐いた。
「明日か……もう行き先は決まっているのか?」
「エリュファス村に行きたいと思っているんです。なにか明確な目的があるわけじゃないけど……じいちゃんの足跡を辿ってみたくて」
花畑に入れたらいいんですけど、と笑うレオンの答えにアーサーが一瞬目を見開くが、直ぐに様子は元に戻って、微笑んだ。
「それは丁度良かった。私が君達に頼みたいことというのも、エリュファス村に関わりがあるのだ」
「そうなんですか?」
頷いたアーサーが、ジュメレに目配せをする。それを受け取って、ジュメレが手に持っていた宝箱をそのままに、階段を降りてくる。
「ほれ、受け取れ」
「えっ!? 何ですかこれ!?」
「いーからいーから」
いきなり渡された宝箱に純が声を上げると、開けてみろと笑われる。促されるままに、両脇から覗き込んだレオン、アカザと共に宝箱を開けてみると、その中にあったものは――片手に収まりそうな、小さな手鏡だった。
青く艶やかな、海を閉じこめたような縁取り。珊瑚を加工したような柄。そして鏡そのものは、一切のくすみもなく鮮明に三人の顔を移している。綺麗だと、純は素直にそう思った。
「これは……」
「――『蒼の鏡』?」
純を遮って、思わず、と言ったように零されたのはレオンの声だった。
――蒼の鏡。英雄が遺した『宝具』の一つ。そうそう見付かるようなものではないはずだが、その美しさはそれが『蒼の鏡』であると思わせるようなものがあった。
アーサーは三人を見据える。
「……それは、私とジュメレが研究所から逃げる際、拝借してきたものだ。それが何なのかは分からないが、メイリーの見解では装飾や作りにエリュファス村の伝統的な工法が使われているようでな、『蒼の鏡』そのものではないかと思っている。
……頼みとは、それを持ってエリュファス村へ向かってほしいのだ」
「……えっ!? そんな大事なもの良いんですか!?」
声を上げたレオンに、アーサーは微笑む。
「それが『蒼の鏡』なのかはエリュファス村にてわかる事だろう。そして、本当に『蒼の鏡』だったなら――エリュファス村の村長からの許可が降りたなら、それを君達に託したい」
アーサーは今度はメイリーに目配せをして、メイリーは頷いて階段を降りてくる。彼女は三人に歩み寄りながら、懐から手紙らしい紙の束を取り出した。アカザがそれを受け取ると、メイリーは口を開く。
「国王様の書簡と、ワタシからの推薦状デス。エリュファス村民はサイスト人ほどではありまセンガ警戒心が強いノデ……これがあれば入れる筈デス」
「あ、ありがとうございます……メイリーさんの推薦状?」
「ワタシはエリュファス村の出身ですカラ」
初耳の情報に、純は目を丸くする。そんな純に気にした様子はなく、メイリーは言葉を続けた。
「皆様が『空白の歴史』を追うナラ……一つお教え致しマスト、エリュファス村には御歳200を超える大婆様がいらっしゃいマス」
「……に、にひゃく!?」
「エリュファス村民は寿命が長いのデス。ワタシも47歳でスガ、村の中ではまだ若造デスヨ」
「ええ!?」
さらに驚きの声を上げてしまった。メイリーの見た目は、どう見ても20代そこらである。驚いたのはレオンやアカザもそうらしく、目を見開いていた。
――いや、それよりも、200を超える年齢ということは、『空白の歴史』を生きていた人だということだ。その事実に気が付いて、純は息を呑む。
「デスが、あまり期待はしナイよう」
三人の空気が変わったのを察してか、メイリーが言葉を続けた。
「寿命が長いと言っても、200などほぼエリュファス村の中でも普通の寿命を超えておりマス。大婆様はすっかりおボケになっておりますノデ、あまり実のある話は出来ないかもしれマセン」
「そ、そうなんですか……」
メイリーは肩を竦め、踵を返してアーサーの隣へと戻っていく。
「話はこれで終わりだ」
アーサーはそう告げて、他に話がある者が居ないかと周囲を伺う。そこで、足を一歩踏み出したのはリックだった。
「レオン。アカザ。ジュンちゃん。俺はいつでも、お前らを心配してる」
そう告げて、それでも彼は笑っていた。
「――でも、『好きに生きろ』。後悔だけはするんじゃねぇぞ」
それが激励だと、三人とも分かっていた。
だから頷いて、彼等もまた、笑ってみせた。
「……では、これで解散だ。出発のために、準備を整えるといい」
アーサーが笑ってそう告げる。三人は一礼して、踵を返して扉から駆けて出て行った。
「……子離れならぬ弟離れが出来たようだな、リック」
そう悪戯っぽく笑うアーサーに、照れ臭そうにリックは頬をかいた。
「仕方ないでしょ。あんな顔されたらなぁ」
そう言って、リックは笑っていた。
「ほんと、子供の成長って早いもんだよ」
*
目を開く。もうすっかり見慣れてしまった真っ白な空間が、そこに広がっていた。
――医務室まで、インウィディアを迎えに行って。もう落ち着いたとは言っても事情を聞くのははばかられて、何も無かったように接するよう務めた。それからは、図書館でルートを調べたり、市場で諸々の補給をしたり。そうして日を過ごして、夜になって、ベッドに潜り込んで。
気付いたらそこにいた。数日ぶりの精神世界だった。そして、それは好都合だった。昨日図書館で調べてからハザマには聞きたいことがあったからだ。レイのこと、だけではない。
「ハザマ」
目の前の灰色の男に声をかける。彼は真っ直ぐに純を見ていた。
「聞きたいことがあるの。ハザマ……いや、『レイ』」
ハザマがひとつ、瞬きを零した。
「調べましたか」
「うん。……『レイ』も、ハザマの名前なの? どっちが偽名なの?」
「どっちも本名ですよ」
そう笑う。ハザマの言葉の意味がわからなくて眉を寄せると、ハザマは目を細めた。
「そうですね、強いて答えるのならば、『レイ』は『本名』で、『ハザマ』は『真名』です」
「……訳が分からない」
「それでいいですよ。今は、そして、できればこれからも。ただ、今、ワタクシはハザマです」
それだけ。そう笑って、ハザマは純を見る。
「また、進むのですね。果ての見えない旅路へ」
そう、問うた。頷くと、ハザマは一つ息を吐いて、肩を竦める。
「ならば一つ、忠告をして差し上げます~」
そう言って、ハザマは一歩、純に歩み寄った。
「アケディア。あの男には気を付けなさい」
「……アケディア……アーリマンじゃなくて?」
アケディアとは、確かあの真っ黒な男だったはずだ。2mはありそうな身長の、野暮ったい重ね着ローブからでも分かる筋骨隆々の男。血を溶かしたような赤い目の男。
確かに不気味だったが、実際に対峙したアーリマンよりアケディアの名前が出されたことが引っかかって、純は首を傾げる。
「アレはまだ、何なのか分かりますから。危険なことに変わりはありませんがね。……『邪神』より『怠惰』の方が恐ろしいとは、 名前詐欺にも程がある」
そう、ハザマは続ける。その言葉に純はぴくりと反応した。
「邪神……やっぱり、『アーリマン』ってそうなの?」
「なんだ、貴女ゾロアスター教をご存知でしたか~」
馬鹿にしたような声音にむっと眉を寄せるが、いつも通りといえばそうだったと思い返して落ち着かせる。代わりに別の言葉を口に出した。
「なんとなく聞き覚えがあったから……あと、傲慢と、怠惰と、嫉妬……これ、『七つの大罪』だよね?」
「おや、意外とそういうものに理解がおありで?」
「はぐらかさないで」
むすりと顔を顰めて、純はハザマを見上げた。
「私、図書館で調べたんだよ。そういうことについても」
――それは昨日のことだ。文明を調べる時に、宗教についても探ってみたのだ。
そして。
「――無かった。
『ゾロアスター教も、七つの大罪も、あの世界には存在しなかった』」
告げて、純は顔を上げる。
「どういうことなの? 『空白の歴史』にはあったの? それなら何で彼等がその名前を持ってるの?」
「落ち着きなさい~、言葉は一つずつ整理するものです」
片手で純を宥め、ハザマは息をつく。
「ワタクシは貴女に答えを示さない。それは初めから言っていることです」
「……」
「……ですが、自分で調べ、そこまで辿り着いたことへの敬意として、いくつか教えて差し上げましょう」
その言葉に顔を上げた純と目を合わせて、ハザマが口を開いた。
「『空白の歴史』の期間を含め、この人間界ではゾロアスター教も七つの大罪も発案されていません。ですから、ここでその話をしても誰もわからない。
そしてアーリマンは、ゾロアスター教で語られる邪神本人ではなく、彼本人もそのような宗教や神話を知らないでしょうね」
「……! 待って、それじゃ、もしあの名前が偶然じゃないなら……ッ」
ハザマの言葉が純の中で繋がって、一つの答えを導き出す。それを、堪えきれずに、純は叫んだ。
「敵の中に、意図してその名前を付けた人が居る! 『この世界の人じゃない』人が居るってことなんじゃないの……!?」
「……さて、話を戻しましょう。ワタクシの忠告は途中ですよ、純。時間は有限なのだから、早く済ませてしまわなければ」
ハザマは目を細める。そうして、言葉を落とす。純はまだ言いたいことが沢山あったが、こうなったハザマはきっともう何も答えてはくれないと理解していた。だから、口を閉ざして言葉を待つ。
「ワタクシは答えを知っている。アーリマンの正体も知っている。『空白の歴史』を知っている。全ての黒幕を知っている」
そう言って、その瞳は真っ直ぐに純に下ろされた。
「ですが、アケディア――あの男だけが分かりません。全くの未知数です。色々なものが混ざっていて、あれが『何』なのか全く分からない。だから気を付けなさい、純。そもそも黒髪赤目にろくなものは居ないんですよ」
*
「アケディア」
テノールが落ちる。アケディアの耳にすっと通る。
この甘い声が、アケディアは好きだった。愛しい男の膝に甘えるように頭を擦り付けて、髪を撫でてもらう時間が好きだった。
大型犬のように擦り寄るアケディアに、男――スペルビアは微笑む。その顔も好きだった。スペルビアの自室でこうして甘える時間がアケディアは好きだ。
本当は優しい彼は、いつも沢山のものに気を払っている。インウィディアのことも、その一つ。だからアケディアは今日は特に甘えて甘えて、気をこちらに向けさせた。スペルビアにはいつでも自分のことを考えていてほしかった。
「君の瞳は美しいな、アケディア」
血を溶かしたような赤い瞳を、スペルビアはいつも褒めてくれる。美しいと言ってくれる。出会った時から、ずっと。他人に上回られることを嫌うスペルビアが、自分より強いアケディアを嫌っていた過去の時期でさえ、スペルビアはアケディアの瞳を美しいと言っていた。それが、アケディアは嬉しい。スペルビアは変わらない。『何も失わない』。
スペルビアはずっとアケディアの愛したその人のままなのだ。そうであるように、したのだから。
「……なぁ」
だから、アケディアは乞う。
「……なぁ、名前を、呼んでくれ……」
スペルビアが首を傾げて、微笑んだ。
「さっきから呼んでるじゃないか、アケディア」
――違う。
――ああそうだ、彼は何も変わらない。彼はずっと彼のままだ。だけど今、彼は何も覚えていないから。
「……なぁ、俺、頑張るから……」
そう零したアケディアの髪を撫でながら、スペルビアは笑う。
「なんだ、反省会か? そういえばお父様が苦言を呈していたぞ、アケディアが自由すぎると。そういう所も可愛らしいが、もう少し協調性が必要かもな」
「……俺は、お前以外興味無いから」
スペルビアに擦り寄って、すんと鼻を鳴らす。スペルビアの深い甘さのマリンの香水、その奥から香るスペルビア自身の匂いがアケディアは好きだ。
「……愛してるよ、スペルビア」
――お父様の目的も、ヤマダジュンも、何も、興味は無い。
――ただ彼に名前を呼ばれるために、彼の名前を呼ぶために。
――全て、握り潰してしまおう。
笑ったアケディアの血色の瞳の奥で、深く昏い闇が渦巻いた。
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