第二篇:リシュール・ガイア国境付近
第六章:パルオーロ療養
第二十話:新たな事実
愛しい子よ。
私はお前の幸福を望む。
私はお前の笑顔を望む。
私はお前の願いの成就を望む。
私の愛しい、優しい子。
お前がどのような道を辿ろうと、私はお前を愛しているよ。
第二十話:新たな事実
シュヴァルツの一件から二日。
アカザの傷が癒えるまでパルオーロに滞在することになった純達は、暫くの休養を得る。三人はゆっくりと傷と疲れを癒したり、己の身を鍛えてみたり、そうやって日にちを過ごすことにした。
レオンなどはジュメレに闇の魔力の扱いを、メイリーに水の魔術の扱いをそれぞれ教わっているようで、その光景は一人で鍛錬する純にも誰か師匠を見つけようかなぁ、などと思わせた。アカザも、傷に障らない程度に弓を引いているらしい。
医者曰くにはアカザの傷はあと数日もあれば旅立てるだろうということである。というわけでそろそろ次の行き先を決めなければと、今日は純とレオン、それからインウィディアで、アーサーの許しを得て国立図書館の地下書庫にて蔵書を漁っていた。
「レオン、このご本はどうかしら」
「あ、ありがとうウィディ」
「ううん、役に立てて嬉しいわ」
インウィディアとレオンは――正確にはインウィディアは――初対面時のことは何だったのかと思うほどあっさりと、普通に話せるようになっていた。見た目がアーリマンにそっくりだったから驚いたのかなぁ、と純は一人とりあえず結論付けて、また本棚に向き直る。
地下書庫は純の元いた世界でも見なれた図書館のような内装で、ずらりと本棚が列になって並んでいた。地上にあった書庫よりも本棚の密度が高く、中身の密度も高い。一冊本を捲ってみたが、細かい文字がびっしりと綴られていて読む前から目眩がした。そんな本を山積みにして次々に目を通していくレオンは凄いを通り越して純にとってはいっそ未知の領域である。
しかし、そんな純も今日は調べたいことがあった。そのためにレオンの手伝いはインウィディアに任せさせてもらったのである。
それは二日前、アーサーとジュメレの話を聞いた日の晩にまで遡る。
「今回はお疲れ様でした~」
アカザと別れ、与えられた部屋のベッドに潜り。あんなに色々考えていたのにベッドに入れば寝付くのはあっさりと簡単で。
真っ白な精神世界に立つハザマはやはりあっさりと声をかけてきた。
純はじっとハザマを見る。首は、いつもより上の方に巻かれたストールに隠れて見えなかった。
「……ハザマ、首大丈夫なの?」
「気遣って隠したというのに聞きますか」
ハザマは溜息をついて、しかし真剣な目をした純に観念したのか、片手を上げて降参を示しながらストールを引き下ろす。
顕になった首には、やはり赤い一線が引かれていた。
「これは傷ではなく、分身がやられた痕のようなものですから心配いりません~。痛みも無く、時間が経てば消えるものです~。どちらかというとライにどう隠すかで頭が痛いものですね」
確かにと、純はアークハット遺跡で出会ったライを思い出す。付き合いとも言えないほど短く、良好でもない関係だが、ライがハザマによく懐いているのは純にもよく分かっていた。
ともかく、ハザマは無事らしい。とりあえずはそういうことで、半ば無理矢理――生首の転がるあの光景を振り切るように――思考を切り替えて、純はもう一つの質問をぶつける事にした。
「ハザマは、英雄の一人なの?」
ハザマの赤い瞳が純を見る。雰囲気のためだろうか、アケディアの赤目は血を溶かしたような恐ろしいものだったけれど、ハザマの赤目はルビーを思わせた。
彼は一つ瞬いて、あぁ、と零した。
「アーリマンの言葉ですか」
頷く純を見て、ハザマが溜息をつく。
インウィディアと出会い、アーリマンが襲いかかってきたあの部屋で、アーリマンはハザマに『翠の英雄』と言った。英雄といえば、この世界では英雄伝説が思い至るだろう。
――ハザマが英雄の一人であるレオンハルト・トラゲーディエと友人だったというのだから、尚更。
「まあ、変な隠し立てはしませんよ」
その言葉が、ほとんど肯定のようなものだった。しかし、ハザマはそれ以上の言葉は重ねない。
「……分かってるよ、どうせ何にも教えてくれないんでしょ」
純が一つ、拗ねたようにも言葉を落とす。ハザマが眉を下げて、口角を歪めた。
「すみません」
「謝るくらいなら教えてくれたらいいのに」
「……それも、すみません」
純が見上げたハザマは笑っていた。困ったように、眉を下げて。
「『アンタ』を帰せないのならば、全て教えてしまった方がいいのかもしれない。だけど、『俺』はまだ諦められないんだ」
だから、とハザマが続けた。いつもと違う一人称と、いつもと違う雰囲気と、いつもと同じ姿で。
「――だから、これは競走だ。アンタが先に真実を知ればアンタの勝ち。俺が先にアンタを帰せば俺の勝ち。そうやって始まったのだから」
ぐらり、視界が歪んだ。目覚めるのだと悟った。
精神世界から、純だけが遠ざかる。
「これは、俺の、――の、」
ハザマの声が遠くて、聞こえない。
――純はそうやって、朝を迎えた。
それから、精神世界には一度も行けていない。
ハザマの様子を含めて、気になることは多くある。だけどきっとそれは自分で調べなければならないことだ。気を引き締め直して、純は再び本棚を見上げた。
まず、調べたいのは英雄についてだった。思えば純は英雄について知る事が実に少ない。物語の内容の他は、五人居て、宝具を所持していて、一人は純と同じく別の世界からやって来た。それくらいだ。英雄の一人がレオンハルト・トラゲーディエという名であることもシュヴァルツで初めて知ったのである。
――レオンハルトさんの手記がちゃんと残ってたら、もっと簡単に色々わかったのかもしれないけど。
純はそう、人知れず溜息をつく。シュヴァルツで、レオンハルトの生家を元に形作られた空間に閉じ込められ――そこで見つけた手記。ラステン語で記されていて純には読めなかったが、英雄本人の手記ともあれば沢山の貴重な情報が残っていたに違いない。だが純があの空間から解放されて見たシュヴァルツの惨状――
あの時点でほぼほぼ望みは失われていたが、一抹の希望に掛けてアーサーに手記について尋ねてはみた。だがシュヴァルツや英雄の館の跡地からそういった物は一切見つかっていないということで、純は肩を落とすこととなったのである。
だが無いものは仕方がない。諦めて、純は英雄について記されているらしい本を数冊集めて読みあさることにしたのだ。
――そして、知りたいのは英雄についてだけではない。この世界のことについても、もっとよく知る必要があることをこの二日間で実感していた。
この世界は科学の代わりに魔術が発達した世界だ。そう単純に考えていたが、パルオーロでの生活で、そう単純なものではないことを察してきた。レオンに聞いてもいいのだろうが、人から教えてもらうのにも限界があるだろう。レオンは純がこの世界のことをどれほど知らないのかわからないのだ。ならばこそ、自分で調べる必要がある。折角学ぶ環境があるのだから、活用しなければ。
先程集めた英雄についての本達の上にまた数冊の文化・文明についての本を重ね、よし、と純は内心で気を引き締めた。
ざっと文明についての本を読み終え、純は息を吐いて借りた羽ペンを置く。同じく借りた数枚の紙に書き殴ったメモは慣れない道具のためにお世辞にも綺麗な字とは言えないが、自分のためのまとめなのだから良いだろうと自分の中で片付ける。
結論として文化について分かったことは、この世界の『知』というものは歪なところがあるということだった。
勿論全てがそうというわけではない。考古学や文学など、この世界なりの発展をしてきた道筋がある分野も多くある。ただ、『そうではない』分野も存在するのだ。
純の当初の印象よりも、この世界には科学がある。宝石を原動力としているとはいえ、純の居た世界にあったような役割の機械も一部存在する。例えばパルオーロに来る際に乗った電車も思えばその一つであるし、ホルマリンに漬けて生物標本を保存するような概念もある。だが、その発展の道筋は普通とは逆なのだ。
――そういったものは、どうやら3000年前の『賢者』がもたらした技術であるらしい。
どこからか現れた賢者が、魔術というものだけでなく科学的な機械や概念をも、もたらしたのである。だが彼がもたらしたのは『結果』だけだった。電車にせよホルマリンにせよ、そこに至るための『過程』が抜けている。この世界の住人は宝石を動力として動く巨大な鉄の車の組み立て方は知っているし、ホルマリンに漬けることで標本が保存されることを知っているが、何故そうなるのかを知らない。それはきっと『空白の歴史』の間もそうだったのだろう。これは学問ではなく、賢者がもたらした『奇跡』なのだ。
勿論この世界の学者など、知識人と呼ばれるような人達はそういった状況に危機を覚えているようで、純が読んだ本にも原理を解明し実態を知ろうと研究が進められていることが記されていた。そういったことは魔術についても同じであるようだが、科学よりも魔術の方が近しいからか、魔術の方が研究は進んでいるらしい。属性について、自らの体に存在する魔力について、新たな魔術の開発――そういった研究はどんどん深まっているようである。
集めた本で、純が理解できたのはこのくらいだった。とりあえず文明についてはこのあたりにしようかな、と、本の山を押しのけて今度は英雄にまつわる本の山を引き寄せた。
一冊の本のページを捲る。最初に手に取った『英雄研究概論』と記された本は――勿論言語翻訳の魔法のおかげでそう読めるのであって、実際にはオーリス語という純にはわからない言語で書いてあるのだろうが――まず最初の章で英雄伝説の内容を説明していた。これは語り部から聞いた内容とほぼ合致していたので一先ずは読み飛ばすと、次の章からは英雄についての情報や考察が纏められていた。
その中に、英雄達についての紹介を見付け、純はそれに目を通す。
“英雄達は、五人の小隊を組んでいた。だが最初は三人の友人達の集まりであったとされる。
リーダー格のレオンハルト・トラゲーディエ。そしてあとの二人はサーシャと呼ばれる少女と、レイと呼ばれる少年である。その後に加わった二人は、ヤヒコ・タカムラという少年と、メルオディア・エルスワースという少女だ。”
“彼等はそれぞれ、旅の道中で手に入れた、様々な人種に伝わる宝具の力を使いこなしていた。宝具は虹の指輪、赤の数珠、翠の笛、白の扇、蒼の鏡の五つである。英雄達はそれぞれ所持する宝具になぞらえて、レオンハルトは『虹の英雄』、サーシャは『赤の英雄』、レイは『翠の英雄』、メルオディアは『蒼の英雄』、ヤヒコは『白の英雄』という別名で呼ばれることもある。”
「……ん?」
首を傾げて、純はもう一度その文章を読み返す。しかし当然本の中の文が変わるはずもなく、先程と同じものが連なっているだけだ。
翠の英雄はハザマじゃないの?
そんな疑問が純の脳に浮かぶ。アーリマンは確かにハザマを翠の英雄と呼んだし、ハザマも否定しなかった。ならば、翠の英雄とされる名は『レイ』ではなく『ハザマ』である筈だ。しかし目を擦ってもう一度見てみても、そこに記された名前は『レイ』である。
レイがハザマであるならば、どちらかの名前が――あるいはどちらともが――偽名であるのだろうか。
疑問を抱きつつも、今それを解消する術もない。一旦思考の脇に置くことにして、純はまた本を読み進めた。
数冊の本に目を通し終える頃には、壁にかけられた時計は夕方を指していた。息を吐いて、純は本を閉じつつ背伸びをする。
大体本の内容としては似通ったもので、中身はほぼ確証のない考察であったり説であったりした。それはそれで興味深くはあったが、求める『真相』ではない。
ただそんな中に、英雄達の名前や宝具の他にも信憑性のある情報もあったのは救いだったか。純は適当な紙を借りて手元に纏めた情報を眺めてみる。
英雄の名前、宝具の名前。
レオンハルト・トラゲーディエがシュヴァルツ町長の家の出身であること。
メルオディア・エルスワースはエリュファス村の出身であり、『精霊に愛された民』と呼ばれること。
レイ、サーシャ、ヤヒコ・タカムラの三人は出身が定かでないが、サーシャとヤヒコについては黒髪黒目という特徴からサイスト島の血筋である可能性が高いこと。
本から読み取れた、確証のありそうな情報はそんなものである。英雄の一人が異世界から来た、という話は無かったが、それはレオンの祖父が持った考察であり、それを公表はしていなかったらしいので仕方の無いこととも言えた。純が持つ情報と兼ね合わせると、ハザマ=レイと仮定するならばレイは除外され、出身のわからないサーシャかヤヒコが異世界人であることになる。
――いや、神様って異世界人に入れちゃっていいのかな?
そう考えて、純は頭を抱えた。それは少し微妙なところだ。もしレオンのお祖父さんの言う『異世界人』がハザマのことだったらどうしよう、と。
――というか、『サーシャ』?
その名には聞き覚えがある。純はそう、記憶を手繰り寄せた。あれは確か、アークハット遺跡で――
『貴様は、あいつに似ている。あの女……サーシャに』
――そうだ、ライ様はそう言った。
思い出して、眉を寄せる。名前に親しみのある相手といえば『高村弥彦』とも書けそうなヤヒコ・タカムラだが、ライの言葉は気になった。だが黒髪黒目の少女という点で重ねただけかもしれない。異世界人がヤヒコかサーシャのどちらかを指すとして、そのどちらなのかを確信する材料は足りなかった。
――とりあえず、今分かるのはこんなものかな……
そう、一旦思考は隅に留めることにして、そういえばレオン達はどうなったかと目を向けようと、顔を上げた。
それと同時に、ガタンッ! と、椅子が転げる音が鳴り響く。インウィディアの短い悲鳴と共に。
「レオン? ウィディ?」
音の方を振り向くと、レオンが机に本を開けたまま立ち尽くし、インウィディアは――驚いたのか少し引き気味にだが――レオンを心配するように見上げていた。インウィディアの様子も、勢いよく立ち上がった衝撃でか倒れた椅子も、レオンの目には入っていないように、彼はただ見開いた目で本を見下ろしている。
「えっ何、どうしたの!?」
慌ててそちらに駆け寄ると、インウィディアが縋るような目を向けた。
「分からない……私が持ってきたあの本を見た瞬間、レオンが変になっちゃって……すごい集中して読み始めたと思ったら、急に……」
インウィディアはそう、涙目になってしまった。「私いけないことしたのかしら」と震える彼女を宥めるように頭を撫で、純はレオンを見る。
「レオン、どうしたの? ちゃんと教えて、ウィディも不安がってる」
その声で、ようやくレオンは気付いたらしい。ハッと顔を上げて、「ごめん、」と零す。だがその目はまだ混乱に揺れていた。
「……その本に何か書いてたの?」
びくり、とレオンの肩が跳ねる。しかし彼はしっかりと顔を上げて、純とインウィディアを見つめた。
「……この本、16年前に発行された本なんだけど……
……著者が、アガシア・アルフロッジってなってる」
「アガシア……?」
その名は知っている。レオンの祖父の名前だ。だが、何故それでレオンがこうも動転するのか分からない。しかしそれを問う前に、レオンが口を開いた。
「じいちゃんの本は全部うちにある。ある筈なんだ。じいちゃんだってそう言ってた。オレは家にある本は全部読み通したし、一つも抜けは無いって確信してる。
……だけど、この本は知らない」
そう、レオンは続ける。
「じいちゃんはうちにある一番新しい本……20年前に発行されたものが、執筆した最後の本だって言ってた。でも、16年前に発行された本があるってことは……」
レオンの絞り出すような声が、零れた。
「じいちゃんは、オレにこの本のことを隠してたってことになる」
「そ――」
そうとは限らないよ、とは、純には言えなかった。古い著書ならともかく、最近のものを作者が忘れるとは考えにくい。あまつさえその前の本を『最後』だなんて言うのは。
この世界では、文字を打ち込むようなパソコンは無い。だから本は手書きのものを、魔術による念写で増やして印刷しているのだと聞いた。レオンは祖父の字を間違えないだろう。となれば、きっとその本は確かに祖父が書いたのだ。
ならば何故、その存在をレオンに教えなかったのか。
「……、……その本には、どういうことが書いてたの?」
代わりに、質問を投げる。レオンは本に目を落とし、口を開いた。
「……じいちゃんの本は、基本的に、実際に調査に行った場所のことを、紀行文っぽく書きながら調査結果を記してるんだ。そして、本の最後に次に調査に行く予定の場所を書く。この本では……リシュール王国領の東方の……ガイア帝国との境界線付近にある、エリュファス村が管理する花畑に行ったみたい」
見て、と、レオンは本を広げる。指し示された場所を、純とインウィディアは読み始める。
――その先に、紫陽花が多く咲いていた。
その書き出しから、ページは始まる。
“花畑一面の紫陽花は美しいものだ。その殆どは青色だったが、ある一角だけ赤色の紫陽花が広がっていた。しかも、その紫陽花は、中には普通の赤い紫陽花もあるのだが、角度を変えれば色を変え、虹色に輝いているように見えるものもある。私はそこを不思議に思い、以下の調査を行った。”
その文に続けて、色々と文章が連なっている。何らかの調査を行っているのだとは分かるのだが、魔力型がどうこう、この宝石がどうこうと純にはよく分からない内容で、そこは読み飛ばす。
そして、次の文。
“この調査結果、そして以下の参考文献の記録から、この地がレオンハルト・トラゲーディエの没地である可能性が高い。”
「没地……死んだ場所? そんな場所が……」
「うん。それで、ここを見て」
純の言葉に頷いて、レオンがページを捲った。また二人は文字列を追う。
“私はその土を、管理者の承諾を得て掘り出した。すると、その中から指輪が出てきた。宝石が金色の縁取りをされている、土の中にあったにしてはあまりに美しい指輪だった。宝石は角度を変えて赤や青、翠など様々な色になる。”
“私はこれが、英雄伝説に謳われる『虹の指輪』である可能性が高いと判断した。”
「……虹の指輪……」
呟いて、純はレオンの指を見る。彼の中指に輝く、角度によって様々な色になる宝石が嵌められた金の指輪。
その視線に、レオンは頷いた。
「きっとこれが、じいちゃんが見付けた『虹の指輪』なんだ」
そう言って、レオンの顔がくしゃりと歪む。「でも、」と、拳を握り締めて、呟いた。声は震えていた。
「じいちゃん、そんなの全然教えてくれなかった。この本のことも隠してた。
……ほんとはさ、ほんとは、指輪だって、遺してくれたなんてオレの勝手な考えで……、オレが勝手に、じいちゃんが追ってた『空白の歴史』の謎を解くんだって、舞い上がってただけで……!
じいちゃんはオレに見付けてほしくなんかなかったのかもしれない……ッ!」
絞り出すような叫びに、返す言葉が見つからなくて純は口を噤む。
こんな時になんて言ってあげればいいのかわからない。レオンの祖父の想いを、純は知らない。出会ったこともない故人の考えを、勝手な想像で代弁するなんて、気休めでも出来なかった。レオンは俯いて唇を噛み締めている。図書館に沈黙が落ちた。
「……それが、どうしたの?」
――その沈黙を破ったのは、意外にもインウィディアであった。彼女はじっとレオンを見ている。
「レオンは、お祖父さんのために旅をしていたの? お祖父さんがダメって言ったら、辞めてしまえるの?」
「……それは……」
レオンはその言葉の続きを紡げずに、黙ってしまう。
――オレは、じいちゃんが解明できなかった『空白の歴史』を、解明することが、孫の役目なんじゃないか、って思ってた。指輪や、じいちゃんの研究資料が遺されたのも、そういう事なんじゃないかって……オレね、広い世界を旅して、いつか『空白の歴史』を解明するのが夢だったんだ――
そう、あの日、レオンと純が初めて出会ったあの日、レオンは言っていた。純はレオンが『空白の歴史』を解明しようとする理由に、祖父が深く根付いていることは知っている。
純とアカザは、『空白の歴史』そのものだけではなく、それ以降に現れた闇属性のことを――レオンやインウィディアの持つ不安定さを知り、何とかするために、『空白の歴史』を追い求める決意を固めた。だけど、レオンはどうなのだろう。
レオンは純とアカザが、二日前の夜、決意を固めたことを知らないだろう。自身の違和感に気付いているのか純にはわからない。もしも、祖父がレオンに『空白の歴史』を隠していたかったとすれば――レオンは、『空白の歴史』を諦めてしまうのだろうか? 純には予想もつかない。だから答えを待って、レオンを見た。
「レオンの行動は、お祖父さんに決められたものなの?」
インウィディアは茶化すでも臆するでもなく、言葉を続ける。
「違うでしょう。貴方は、貴方が決めた道を進んでいたのだと私は思うの。だって、貴方は自由だもの」
その言葉に、彼女自身の思いが秘められていることを、なんとなく純は察した。まるでインウィディア自身は、自由でないような、自由でなかったような、そんな言い方だった。
「……オレは、」
口を噤み、ただ黙って聞いていたレオンは、ぽつりと声を零す。
「オレは……」
「おーい、そろそろ閉館時間だぞ」
言葉は、そんな声に遮られてそれ以上続かなかった。声の主はリックで、地下書庫の扉のものらしい鍵を指で弄びながら、三人の只ならぬ雰囲気に気付いて首を傾げる。
「悪い、何か話してたか?」
「あ、えっと……」
純が答えようとした時、かたんと音が鳴ってそちらを見ると、本を抱き抱えたレオンが倒れた椅子を戻していた。レオンは本を抱えたまま、リックの方へ歩み寄る。
「リック、この本借りていい?」
「地下書庫の本を?」
リックが困惑したように眉を寄せる。本来地下書庫の本は貸出禁止なのだとは、案内された時に教えられたことだった。しかし、レオンの真剣な顔を見て、リックは頬をかく。
「……ま、パルオーロに居る間ならいいだろ。俺から許可貰っといてやるよ」
「ありがとう、リック」
レオンはそう笑って、また純とインウィディアの方を振り向いた。
「ごめん、オレ先に行くね」
言って、レオンは本を抱えて駆けていく。角を曲がれば本棚に隠れて彼の姿は見えなくなってしまった。
三人の間に微妙な沈黙が流れる。
「……レオンの奴、何かあったか?」
「えっと……」
勝手に話していいものかと純が返事に迷っていると、リックの方から「まあ本人のいない時に話すことじゃねぇな」と打ち切った。インウィディアは黙って、レオンの走った先を見ている。
そういえばこの人はレオンの祖父の弟子だったかと思い出して、純は改めて、リックを見上げた。
「……リックさん。リックさんから見たレオンのお祖父さんってどんな人だったんですか?」
「俺から見た師匠?」
リックからすれば突然の話題らしく、首を傾げる。しかし、純の真剣な目に気付いた彼は「そうだなぁ」と顎に手を添えて考え出した。
「……変わった人だったよ。考古学会でも有名で権威ある人だけど、身軽っていうか、護衛も付けずにホイホイ色んなとこ飛び回るし……15年前に『孫を育てる』って言っていきなり学会から姿消しちまうし……あの時は考古学界が騒然としたよ、まず妻子居たって話も聞かなかったし、孫!? みたいなさ。俺はその時10歳だったけど……その頃から考古学に興味あって齧ってたから、憧れの学者が消えてびっくりしたよ」
リックはそう笑う。そして、懐かしむように目を細めた。
「弟子入りしたのは10年前か、何度も断られたけどしつこく通って弟子にしてもらったんだよな。
弟子入りして間近で見るようになったら変人度は顕著になったな。噂に違わずアクティブで……あーあと、すげージジバカ。俺考古学系の話以外はほっとんどレオンの自慢話聞かされてたぞ。嫌いだったピーマンを克服できて偉いとか、寝言まで可愛くて天才とか」
話を聞きながら、純はレオンの家にあった祖父との写真を思い出していた。短い、白髪混じりの茶髪と、青い瞳の、初老の男性。幼いレオンと映るその表情は、慈愛に満ちていた。
きっとレオンは祖父に、とても愛されていたのだろう。
きゅ、と裾を握られる。握ったインウィディアは、黙って俯いていた。
「……大丈夫だよ、ウィディ」
純はそう答えて、彼女の頭を撫でる。
「レオンはきっと乗り越えられる」
それは、祈りも込めていた。
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