第十七話:赫は堕ち、蝶に囚う

 じいちゃん、あのね。

 おれ、みんなのことまもりたかっただけなんだよ。


 それがいけなかったのかなぁ。



第十七話:赫は堕ち、蝶に囚う



《グオォオォォオオオン……!!!》

 三つ首の狼――カルベリアスが吼える。それだけで、大地は揺れ、大気が震えた。

「っAランクの魔物、カルベリアス……アレの刻印の場所は未観測デス、戦闘の間に探すしかありマセン」

 吐き捨てたメイリーの言葉に、三人は頷いた。

 Aランクの魔物には、刻印の場所が不明であることはよくある。EやDといった低ランクの魔物よりも遥かに、Aランクの魔物は数が少ない。一度討伐に成功すれば、もうその種の魔物の被害は出なくなった、ということもあるほどだ。一般に、高ランクであればあるほど一種族ごとの個体数は少ないとされている。だが、低ランクの魔物が数の暴力であるならば、高ランクの魔物は一体一体の破壊力こそが危険であった。そして、Aランクとはその最たるものだ。ランクで言えばSランクの方が上に定義されているが、ほとんど存在を確認されていない――かつて居たとされる『魔王』のために作られたようなランクより、現実に被害を出すAランクの魔物の方が危険視されるのは当然のこととも言える。

 そして、Aランクの魔物の破壊力とは、国によって編成された軍隊が、綿密に作戦を練り、計画を立てて出向くことで、漸く討伐を行えるようなものだった。一体を討伐するのも困難な魔物であり、とにかくデータが少ない。道中たまたま出会ってしまったような旅人は殆ど生還出来ないだろう。生きて逃げ延びることがそうそう出来ないのだから、戦闘データも集まるわけがないのだ。刻印の場所など、余程わかりやすくなければ事前調査など出来はしない。

 ――カルベリアスが一本の太い尾を高く掲げた。それを覆うように、闇色がまとわりつく。まとわりつくほどに尾は一本一本の毛が固く尖っていくように見えた。

「……来る!」

 メイリーが叫ぶ。それとほぼ同時に、カルベリアスが巨体の方向を変え、その勢いのままに固く棘を纏った尾を振り払った。巨大な尾はまさに鈍器の如く、四人に襲い掛かる。

 ――メイリーの操る蝶が数匹から瞬時に数百に増え、結界を形成しなければ、四人は諸共尾に貫かれ息の根を止められていただろう。

 尾は、止まった。蝶で出来た結界に阻まれた。だが、それは一時しのぎに過ぎなかった。

「っ破られマス! 総員退避!」

 その声とほぼ同時、結界にヒビが入る。四人は――動けないメイリーはアイクが抱え上げ――間一髪、走り、その場から逃れた。結界が粉々に割られ、尾が、四人が先程まで居た大地を抉る。その先にあった廃墟に尾が直撃し、辛うじて家だったものは、吹き飛ばされて塵と化す。

《ガルルルル……》

 カルベリアスが唸り声を上げて、その金の瞳で四人を睨む。上から見下される威圧感は、四人に、恐怖という寒気として十二分に伝わった。

「……カルベリアス。Aランクの魔物を、作戦も情報も無く、この人数で討伐するのはほぼ不可能デス」

 ぽつり、メイリーが言葉を落とした。

「ですノデ、ヤマダジュンの奪還及び総員での撤退を第一目標としマス」

「ジュンちゃんの奪還、って言っても、ジュンちゃんが何処にいるのか……」

「時間がありませんノデ詳細は省きマス。兎も角、あの男が守っている、英雄の館の『跡地』に誰かが触れられさえすればヤマダジュンは解放されるはずデス」

 そういう術デス、と、メイリーは瓦礫に腰掛け此方を眺めているスペルビアを睨んだ。くあ、と欠伸をしていた彼は、その視線とかち合って、ゆるりと笑ってみせる。その美に全て騙されてしまいそうな、嫌味な程に完璧な笑みだった。メイリーがひとつ舌打ちをする。

「ジルアーク殿。アルフロッジ殿。出来る限りは我々が処理しマス。カルベリアスも、ヤマダジュンのコトモ。皆様はまだ子供。我々大人が守るべき存在デス」

「そんな……ッ」

「それが『理想』でシタ」

 アカザが反論しようと声を荒らげかけたのを遮って、メイリーが口を開いた。

「……ですガ、今は、その『理想』を実現するのは難シイ。ですカラ、己の身は己で守り、隙を見付けることが出来レバ、『跡地』に触れてヤマダジュンを救出してくだサイ。あの男と戦おうとは考えナイデ。我々はカルベリアスの気を引くことで精一杯かもしれナイ」

 それは、実質的な協力許可である。

 アカザとレオンの顔が明るくなった。ただ、メイリーは無表情のまま、どこか苦渋の色を残して、唇を噛む。

「中将! カルベリアス、再度戦闘体勢! 魔力値上昇を確認!」

 しかし、メイリーはアイクの声に振り向いて、レオンとアカザにそれ以上言葉を続けることは無かった。ゴシュナイト――感知した魔力属性によって色を変える無色透明の宝石である――で出来た魔力感知器具を構えたアイクの視線の先には、カルベリアスが、三つ首を揃えて空を見上げ、開けた大口の先に魔法陣を浮かべている。

「っ、属性は……炎、土、水……ッ! 三つの属性を確認……!」

「首のそれぞれ属性が違うという訳デスカ……!」

 メイリーがその場で再び蝶を浮かべる。光り輝くそれは、今度はアイクの足へと向かい、その周囲を飛び回る。

「『解放』を許可しマス! 撃たれる前に魔法陣を破壊しなサイ!」

「……ッはい!」

 一瞬、躊躇うような動作を見せたが、アイクはすぐさま首からかけた十字架を掴み、乱暴に引きちぎると同時に、大地を蹴った。光魔術の一つ、『強化』を纏った足は、常人では有り得ないほどの飛距離を与える。彼はカルベリアスの頭上まで飛び上がり、空中で、乱暴に髪を掻き上げた。隠れていた左目が顕になる。その色は、赤。瞳孔は見えず、その中で、何かが渦巻いているような、奇妙な瞳。

「行くぜデカブツがぁアッ!!」

 先程までの気弱な様子とは別人のように好戦的な笑みで、アイクは叫び、ブローチの裏の水晶から数多のナイフをその手に現した。

「オラオラオラァッ!!」

 計六本。そのナイフが二本ずつ、魔法陣に突き刺さる。突き立てられた陣はヒビが入り、ぱりん、と割れた。

「ざまァッ!」

「大尉! 周囲に気を配りナサイ!」

「!」

 空中でガッツポーズをしたアイクに、下から、あの硬く尖った尾が迫っていた。それをメイリーが飛ばした蝶が防ぎ、アイクは間一髪無傷で、軽やかに大地に降り立つ。

「どーもォ、中将」

「……その人格になると本当に、礼儀を欠きマスネ。だから昇進出来ないんデスヨ」

 軽く、尚且つ雑に礼を飛ばしたアイクに、メイリーは溜息をついた。しかし、そんなやり取りをしながらもカルベリアスから注意は逸らさない。魔法陣を壊され、尾を弾かれたカルベリアスは、唸りを上げて二人を睨み下ろす。

「中将ォ、舌の根っこにそれぞれ刻印を確認」

「……三つあるということデスカ」

 厄介な、とメイリーが舌打ちを零した。


 ――そんなやり取りを、遠くで眺めるしかできないレオンとアカザは、呆然と口を開ける。

「……アイクさんって、二重人格?」

「……みたいだな……っいやそれよりだ、俺達は俺達で動かないとだろ」

 アカザのその言葉でレオンもハッとして、英雄の館の跡地を見る。相変わらず瓦礫に座って、カルベリアスとメイリー、アイクの方を見ていたスペルビアが、視線に気付いてレオンとアカザに目を向けた。

「ああ、なんだ、漸く動く気になったか? いいぞ、二人一緒にかかってくるといい」

 そう笑いながら、彼が立ち上がる気配はない。悠々と腰掛けて、笑んでいる。

「……立たねぇのかよ」

 睨むアカザが吐き捨てた。だが、スペルビアの笑みが崩れる気配はない。肩を竦めて、彼は形の良い唇をまた吊り上げた。

「ハンデくらいやらないと、可哀想だろう?」

「ッテメェ!!」

「アカザ! 挑発に乗っちゃ駄目だ!」

 駆け出しそうになったアカザを慌てて止めて、レオンは叫ぶ。スペルビアは相変わらず笑って眺めている。

 遊ばれている。そう察して、歯噛みしたい思いを堪えた。

「……ダメだ、アカザ。今のオレ達じゃ、あの人に勝てない」

「……ッ!」

 アカザが歯を食いしばる。アカザもレオンも、痛いくらいに、相手の男との実力差を理解していた。肌に刺さる威圧感が、空気の重さが、それを理解させていた。

「そうとも。君達では僕に勝てない」

 スペルビアがゆるりと笑っている。

「ここに座ったままの僕の横を通り過ぎて、術を解くことすら出来ない」

「っのヤロォ……」

 アカザの呻きを無視して、スペルビアの碧眼はレオンを捉えた。


「だがな、レオン・アルフロッジ。君ならば、僕に勝てなくても、術を解けなくても、あのリシュール軍の子犬共の役に立つことは出来るぞ」


「……え?」

 レオンが、思わず声を落とした。スペルビアは悠然と笑んだまま、レオンを見ている。

「君も見ただろう? カルベリアスが、どうやってこの場にやってきたのか」

 その言葉で、先程の光景を思い出す。スペルビアが生み出した闇から、現れる獣の足。

 カルベリアスが、姿を現した、あの闇の円形。

 ――あれは確かに、闇の魔力の塊だった。

「……闇属性は、闇属性の魔力の『中』を通ることが出来る。そして、魔物は必ず闇属性を孕んでいる。僕が魔物を別の場所から引きずり出す事が出来るのは、そういうことだ。

そして、それは君にも出来る。出来るはずだ。そうだろう? レオン・アルフロッジ――我が同胞」

 ひゅ、と、レオンの喉を、空気が通る音がする。スペルビアの言葉の意味を理解して、レオンの腹の奥が、冷たく、重たくなった。

 それなら。

 それならば、確かに。

 だけど、それは。

 ――スペルビアが薄氷の瞳を眇める。そうして、止めのように、口を開いた。

「カルベリアスは今ここにいる君達の味方には倒せまい。アレは、三つの刻印を持つ、『一体で三体分の魔物』だ。

……そう、倒せない。倒せないのならば、何処かにやってしまえばいい。君にはそれが出来る。その闇の力を使えば、出来る」

 レオンの背後で、轟音が聞こえる。メイリーとアイクが叫び、戦う、音が聞こえる。カルベリアスの咆哮が聞こえる。

 スペルビアは笑っている。

「何処にやればいいのかわからないか? そうだな、人間が大勢いる場所に放り込んだら大変だものな。……そうだな、ラーフィット大陸なんてどうだ? 彼処には元々人間など住んでいない。実際、カルベリアスはそこから僕が引きずり出してきたものだ。何、元の場所に返してやるだけさ」

 それは、確かに。

 それが可能ならば、確かに。

 確かに、全て解決するだろう。だけど。

 だけどそれは、自身を闇属性だと知らない人の前で、その力を行使するということだ。

 ――レオンの身が、知らず震える。過去の光景が頭を過ぎる。あれはそうだ、七年前だ。八歳の頃だ。覚えている。よく覚えている。忘れなどするものか。


 あの恐怖の目を、蔑みの目を、忘れなどするものか。


「……グチャグチャうるせぇんだよ!」

 バシュン、そう、空気を裂く音で、レオンの思考は途切れた。過去の記憶は雲散して、現実が目に入る。アカザが弓を引いて、スペルビアに向けていた。その矢はスペルビアに届く前に彼の足元から伸びた闇に弾かれ、折れて落下したが、それでもアカザは怯まず睨む。レオンの前に立ち、遮るように、守るように、スペルビアに相対する。

「訳わかんねぇことをグダグダ言ってんじゃねぇ! レオンに任せなくたってなぁ! こいつがやりたくねぇことしなくたってなぁ……ッ!

全部! 何とかしてやるんだよ! 俺が何とかしてやんだ! ダチなんだからな!!」

 アカザが叫んで、また矢を飛ばす。それは全てスペルビアに届かず、その前で闇に弾かれるが、アカザはそれでも、何度でも、弓を引いた。

 ――矢を弾きながら、スペルビアの碧眼が、すっと温度を無くす。

「……そうか。君が、今の彼にとっての『光』か。

悲しいな、闇に差し込む一筋の光ほど、残酷なものは無い」

 スペルビアが、一言、言葉を零した。

 どういう意味か、レオンが理解する前に、背後で一際大きな轟音が鳴り響く。

 思わず振り向くと、赤が見えた。

 ――メイリーが膝をつき、血の塊を吐き出してカルベリアスを睨んでいる。アイクが廃墟に叩きつけられ、外れたらしい肩を抑えて荒く息を吐いている。まだすぐさま危険だというほどの怪我ではないが、それでも、着実に追い詰められていた。

「レオン・アルフロッジ。背を押してやろう」

 淡々としたテノールが、レオンの耳に届いた。先程よりも、近くなった声。

 スペルビアが座っていた瓦礫に、今は誰もいない。

 レオンの目に、また、赤色が映る。

「……ぁ?」

 ぽたり、と、雫が落ちる。

 スペルビアの手には真っ黒な、闇で出来ているような剣がある。それに、赤色が伝って、雫となって落ちたのだ。

 その赤色が、流れる元は。


「……ぁ、かざ……?」


 ――それは、一瞬にして、音も無く。

 すぐ隣にまで来ていたスペルビアの剣に、アカザの腹が貫かれていた。


 ず、と、アカザの腹から濡れた剣が抜き取られる。支えを失った体は、ぐらり、と揺れて、その場に崩れ落ちた。

「安心しろ、急所は外した。早めに治療を受ければ後遺症も残るまいよ」

 スペルビアは淡々と告げる。呆然と、力が抜けて崩れ落ち、膝をついて座り込んだレオンに歩み寄って、また口を開く。

「だが、長らく治療を受けられなければ、出血多量で死ぬだろうな」

 力が抜けて、項垂れ、見開いた目を地面に向けるレオンに、スペルビアがそう言った。レオンの息は上がっていた。過呼吸を疑うほど、浅く、何度も繰り返される呼吸は、嗚咽にも似ている。

 ――そうして。

 レオンは、ゆらり、立ち上がった。ふらつく足取りで、彼は、カルベリアスの方を向く。巨大な三つ首の狼に向かって、両手を翳す。

「……アルフロッジ殿?」

 メイリーがその様子に気付いて視線をやる。そうして、倒れたアカザにも気付き、目を見開いた。

 レオンは、ただカルベリアスを見上げている。虚ろな、涙を溢れさせた青い瞳で、見上げている。

 こぽり、と、レオンの足元で影が揺れた。その影は、ゆるりと伸びて、カルベリアスの影へと向かう。二つの影が繋がった瞬間、また、ごぼりと泡立つ音を立てて、二つの影が揺らめき、上空へと具現していく。影だったものが、闇となって、カルベリアスを包もうと伸びて行く。

「……居なくなれ」

 レオンが、震える声で零した。

「居なくなれ、居なくなれ、居なくなれ……ッ! お前らなんか、大嫌いだ……!!」


 泣いている。

 何処かで、子供が泣いている。

 アカザは横たわり、傾いてぼやけた視界で、レオンの後ろ姿を見ていた。貫かれたはずの腹は、痛みは感じられない。ただ、温いものが流れ出ていて、服を濡らしていた。立ち上がることは出来なかった。

 レオンの後ろ姿を、昔、見たことがある。同じように、傾いた視界で。

「……だめ、だ……」

 動かない体を無理矢理動かして、アカザは、レオンの後ろ姿に手を伸ばした。

「行くな、……れお、ん……」

 届く筈が無いとは、知っていた。



 その頃、純とインウィディアは核を探して駆け回っていた。もういくつもの部屋を探したが、一向に見つからない。腹の底に焦りが燻るが、隣に居るインウィディアを不安がらせるわけにもいかないと、純は努めて平静であろうとしていた。

 そして、この部屋にも核はない。この部屋での最後の確認である中身の無い花瓶を持ち上げて、純は溜息をついた。

「ジュン、疲れた?」

 同じように核を探していたインウィディアが駆け寄って、不安げに見上げてくる。ハッとして、何とか笑顔を作ってインウィディアの方を振り向いた。

「大丈夫。この部屋にも無かったし、次に行こう」

「うん……、ごめんなさい、私が、核がどんなものなのかを知っていればよかったのだけど……」

「ウィディのせいじゃないよ! 探すの手伝ってくれてるし、感謝してる」

「……そっか、それなら、良かったわ」

 インウィディアが少しだけ笑ってくれたので、純も少し落ち着きを取り戻した。

 ――そうだ、焦っても仕方ない。ハザマなら、きっと大丈夫。だってハザマだもん、大丈夫に決まってる。

 そう、自分に言い聞かせて、純はインウィディアの手を繋ぎ直した。

「行こうか、ウィディ」

「うん」

 笑い合って、二人はその部屋を後にした。


 次の部屋は少しばかり遠い所にあった。廊下を早足で進み、そのドアを捻る。

「……っ!」

 そして、廊下から部屋の中を見た瞬間、純は息を飲んだ。だが、その隣のインウィディアの方が大きく目を見開き、顔を青くする。

 ――部屋そのものは、何の変哲もない。それなりに広さがあり、いくつかの本棚と色々な物が飾られた木棚、机と椅子といった物達が備え付けられた、この空間内で何度も見たものだ。だが、その部屋が他の部屋と違っていたのは、その部屋に、既に先客が居たということである。

 壁に沿って立てられた、木棚。その前に、その男は居た。黒、という印象がまず来るだろう。フードを被って顔は見えづらいが、髪は服と同じように、いやそれよりも、闇を溶かしたような黒をしている。フードで大部分が隠れてはいるが、どうやらなかなかの長さがあるようだった。フード付きのローブの1枚の他に、何枚も似たようなローブを重ね着しているようだが、それほど厚着をしても分かるほどその男の体格は良い。

 いや、体格が良いの一言で片付けていいものか。身長は2mはありそうで、服の上からでもわかるほど筋骨隆々として分厚い。腰周りなど、純の何倍あるか分からない。胸筋も肩幅も大きく、色も相まって、まるでその男そのものが闇であるようだった。

「……ア、ケディア……?」

 思わずといったように、インウィディアが呟く。そのすぐ後に、ハッとして口を抑えるが、既にその声は男に届いていた。アケディア、というらしい男が、ゆるりとこちらを向く。

 黒く長い前髪の奥で、赤色があった。血をドロドロに注ぎ入れたような、深く昏い赤に、ぞくりと純の背筋は凍る。アーリマンの時とはまた違う威圧だった。アーリマンがいつ爆発するか分からない爆弾であるならば、目の前の男――アケディアは、底の知れない深淵のようだった。

 その赤い瞳に捉えられて、びくりとインウィディアの肩が跳ねた。震えながら、純に縋り付きながら、アケディアをその紫の瞳で見つめ返す。

「……そうよ、そうよね、スペルビアが居るんだもの……貴方が、居ない、わけない」

 アケディアは何も言わずに、ただじっと此方を見ている。見定めるようでもあり、一欠片の興味さえ無いようでもあった。

 ――そこで、純は、アケディアが、その分厚い手に、何か赤色の物を持っていることに気が付いた。

 そしてどうやら、それは薔薇であると知る。よく見れば、アケディアの目の前にある木棚には、花瓶が飾られていた。黄、白の薔薇が生けられた花瓶に、きっと元々赤い薔薇もあったのだろう。

「……スペルビアは」

 ぽつり、漸く、アケディアは口を開いた。重たいバリトンが、静かに部屋の底を這う。

「スペルビアは、赤色が好きだ。それから綺麗なものも好き」

「……?」

 いきなり話し出された内容を掴めず、純は訝しむ目をアケディアに向ける。だが、彼はそんなものに興味は無いようで、その視線は手元の赤い薔薇に注がれていた。

「……! まさか、」

 ふと。

 スペルビア、好きな物……そのキーワードに、純の中で何かが嵌る。

「その、赤い薔薇が、この空間の核……!?」

 アケディアの赤い瞳だけが動いて、純を見た。当たりだと、ほぼ直感で確信する。同時に、どうしよう、と、純は焦りに冷や汗を伝わせた。あの核を破壊しなければならないのに、それは敵の手の内にある。

「……っジュン!」

 がたん、とインウィディアが動いて、純にしがみついた。何事かとインウィディアの方を見ると、自分達が今立っている廊下の向こうに人影がある。


「みーつけた」


 無邪気に笑う、レオンと同じ顔。だが、その顔には赤い血がべっとりとついていた。何かを手に持っている。球体のようなそれは、影になって、何なのかは分からない。

 コツ、と音がして、部屋を見ると、アケディアが歩み寄っていた。挟まれる、と理解して、インウィディアの手を引いて廊下の先へ早足で後ずさる。だが廊下はそれほど長くない。それがわかっているからか、アーリマンは平然としていた。むしろ、獲物を追い詰めて遊ぶ猫のように、愉しげに笑っている。

 アケディアが部屋から出て、彼はその存在に気付いたようだった。

「あれ、アケディアじゃん。どうしたの?」

「……」

「無視? オレにそんなことして許されるのアンタくらいだよ」

 アケディアは答えず、赤い薔薇を見ている。アーリマンはといえば口ほど気にした様子もなく、「相変わらず周りに無関心だよね」とくすくす笑っていた。

「……ざま、は」

 ぽつり、純が言葉を零した。その声で、アーリマンは純の方を見る。インウィディアと手を繋ぎ、アーリマンを見開いた目で見つめる純は、震える口でもう一度言葉を紡いだ。

「ハ、ザマ、は?」

 ――アーリマンは、ハザマが足止めしていた筈だった。ならば、何故アーリマンが居るのだろう。

 アーリマンが、にこりと無邪気に笑ってみせた。

「ね、ジュン、お土産あげる。これあげるから機嫌直してさ、オレのことも構ってよ」

 ぽい、と手に持っていた球体を投げた。それはごろごろと転がって、赤い線を軌道に描いて転がって、純の近くで止まる。

 灰色の、三つ編みが解けたような型のついた、長い髪。それが、赤色で汚れている。赤色は、その球体から出ている。

「――、」

 インウィディアが何かを言った。それは純には聞こえなかった。


「――ぁ゛あ゛ァァあア゛ぁあ゛ァ!!!!」


 叫ぶ。

 涙を零して、意味の無い言葉を叫ぶ。

 球体を、ハザマの、体を失った頭だけを、がむしゃらに抱き抱えて、叫ぶ。

「本当はさぁ、体もバラバラにして持ってこようと思ったけど、重たくってさ。まあ、頭だけあったら分かるかなって」

 アーリマンが何かを言っている。わからない。純には、何を言っているのかわからない。ハザマが最初に言っていたことも、もう、わからない。

 涙で濡れた目で見上げたアーリマンは笑っている。

「――ッ!!!」

 もう声も出なかった。何も考えられなかった。赤い刀をその手に握る。後ろで、インウィディアが駄目だと叫んだ気がするが、もう、止められはしなかった。

 切りかかる先のアーリマンが、歪に笑った。


「時間切れ」


 そう、低い低い声が響く。

 赤い花弁が、視界の端で舞う。


 空間が砕ける音がした。




 荒野だった。

 ――否、遠目には廃墟らしい物達が見える。どこかトアロ村にも似た雰囲気の、しかし、それよりも規模は大きそうだ。空は夕焼けに赤く染まっていた。屋敷の中では空は見えなかった。久し振りに、空を見た気がした。

「……ぁ、?」

 何かに抱きしめられている。暖かいこの温度には覚えがあった。灰色の三つ編みが、視界の端で揺れている。

「……落ち着きなさい、この馬鹿。ワタクシが最初に言ったことを忘れたのですか~?」

「……ぁ、れ? はざま、はざま? なんで、」

「言ったでしょう、あの空間のワタクシはコピー体だと。空間の破壊を感知したので、こうして本体ワタクシがこの場にやってきた次第です~」

 溜息をつくハザマの腕を振りほどき、白いストールを引き、やや乱暴に彼の首を顕にさせる。その首には一つ、赤く腫れたような線があったが、それでも繋がっていた。

「ハザマお兄ちゃん! よかった、よかったよぉっ」

 ぼす、と純とハザマに別の体重がかかる。インウィディアがぼろぼろと泣いて二人に抱き着いたのだった。その温度に、純もまた、涙腺が緩む。安堵なのか何なのかもう分からないが、ただ涙が止められなかった。

 はぁ、とハザマが溜息をつくが、二人の頭を撫でる手は優しい。

「まあ、核を破壊出来て良かったです。無事脱出できましたしね」

「え、あ、いや、核を破壊したのは、私じゃなくて……」

 嗚咽混じりで喋りづらいながらも、純は首を振る。そういえばアーリマン達は何処へ行ったのかと、ハザマの胸板から顔を上げた。

 ――アーリマンとアケディアは、純達三人から少し離れた先に居た。アーリマンがむっすりと不機嫌に顔を歪めて、アケディアを睨んでいる。

「どういう事さ。折角いい所だったのに、なんで邪魔すんの」

 殺気を込めた睨みに、しかしアケディアは動じる様子もない。ただ溜息をついて、アーリマンを見下ろした。

「……『お父様』の命令。勝手なことしてないで戻って来い、ってさ」

「お父様の?」

 アーリマンの表情が不機嫌から一転、悪戯がバレた子供のような、不安と戸惑いが混じった顔になる。

「…………わかったよ、帰るよ」

 膨れっ面を俯かせた、アーリマンの影が揺らめく。そこから伸びた闇が、門のような形を作って、アーリマンの傍に立った。

「あーあ、残念。じゃあねジュン、次はちゃんと遊ぼうね」

 そう言って、アーリマンはひょいとその闇へと足を踏み込む。その体は黒に飲まれ、見えなくなった。そして彼を飲み込んだそれも、また小さくなって、やがて消えてしまう。

「何だ、お終いか?」

 聞き覚えのあるテノールに、純は背後を振り向く。歩み寄ってきたのは、純を拉致した張本人たる、スペルビアであった。ハザマが静かに戦闘態勢に入っている。いつの間に出したのか赤い刀を携え、スペルビアを睨んでいた。

 睨まれるスペルビアは、ハザマよりも、インウィディアを見て顔を顰める。

「……インウィディア、何故君がそこに居る」

「私もうあそこに帰らない! 私はジュンと友達になったの! 普通になるの!」

 訴えて、インウィディアは純とハザマに抱き着く力を強める。アケディアやアーリマンに向けたような恐怖心は薄く、ただ、意志を変えるつもりは無いというように、スペルビアをきっと見返した。スペルビアは眉間の皺を深めて、何かを言おうと口を開きかける。

「スペルビア、帰ろう。『お父様』は、インウィディアのことはほっといていいって言ってた」

 しかし、スペルビアが口を開く前にアケディアが言葉を落とす。そう言われたスペルビアは、顰めた顔のまま、アケディアを見て、それからまたインウィディアを見た。不機嫌というよりは、聞き分けの無い子供に対して、苦渋を忍ばせたような顔だった。

「……、……後悔するぞ、インウィディア」

 それだけ言って、スペルビアは、アケディアがいつの間にか作っていたらしい闇の門に足を踏み入れる。彼がその中に姿を消して、その後、今度はアケディアが入った。

 ――静寂。闇の門はアケディアを入れた後消えて、そこは何か建物の土台らしい残骸が辺りに散らばるのみの場所となる。

 終わったのだろうか、と、純は呆然と空を見ていた。夕焼け色は、血の赤よりずっと淡くて、安心する。


「ヤマダジュン、さん、でしょうか?」


 その声に、純は視線を向けた。

 軍服らしい格好の男がこちらに駆け寄っている。前髪がやけに長く、瓶底眼鏡で顔が見えづらい。首から、急拵えで紐をつけたような十字架のネックレスを下げていた。

 そして気付く。ハザマが居ない。

「は、」

『ちゃんと居ますから安心しなさい。あまり人間に見られたくないので姿を隠しただけです』

 声を上げようとして、頭に響いた声に遮られた。色々と言いたいことはあるが、取り敢えず口を閉ざす。駆け寄ってきた男はそんな純と、突然消えたハザマに慌てるインウィディアに首を傾げつつも、膝をついてへたりこんだままの二人に手を差し伸べた。

「僕はリシュール国軍大尉、アイク・アルノルトです。ヤマダジュンさんの救出任務でシュヴァルツへ……えっと、向こうに皆さんいらっしゃいますから、とにかくこちらへ……」

「わ、わかり、ました」

 頷いて、立ち上がる。立ち上がると、土台らしい残骸で隠れていたが、確かに遠くに人影が見えた。その周りは、まるで先程まで激しい戦闘があったような破壊が見える。

 三つのうち、二つの髪色には見覚えがあった。しかし、どうも様子がおかしい。

 そして、少し近付いた時、金髪――アカザが倒れていることに気が付いた。

「アカザ!?」

「あっちょっ」

 困惑の声を上げたアイクの手を振り払い、純はそちらへ走る。近付くと、アカザは確かに倒れていた。腹に怪我を負ったらしく、包帯が巻かれている。ただ、その表情に苦悶は無かった。アカザの傍に膝をつく女性が操っているらしい光り輝く蝶が、どうやら彼の治療か鎮痛かをしているようだ。

「……ジュン?」

 そう、言葉を零したのは、少し離れた場所でへたりこんでいたレオンだった。その目尻は赤くなり、酷く憔悴しているようで、純はぎょっとする。

「れ、レオン!? どうしたの、大丈夫!? というかアカザの怪我は、いやなんか治療されてるっぽいけど……」

「……アカザは、大丈夫。メイリーさんが治療してくれてるし、命に別状は無いって……」

「そ、そっか」

「ヤマダジュンですネ」

 純は俯いているレオンに歩み寄ろうと歩を進める。だが、それをアカザの傍に居た女性が声をかけて留めた。

「え、あ、はい、そうです」

「ワタシはメイリー・アラントン。リシュール国軍中将デス。ジルアーク殿の怪我は、ここでは応急処置しか出来まセンし、早めにパルオーロに帰りまショウ。

……それから、レオン・アルフロッジにそれ以上近付かないヨウニ」

「え?」

 それはどういう意味かと聞く前に、メイリーが立ち上がった。彼女はコツコツとヒールを鳴らして、レオンの方へ歩み寄る。

 そして、その腕を掴み上げた。

「レオン・アルフロッジ。闇属性でアル貴方を捕縛、パルオーロまで連行しマス」

「……え?」

 純が困惑に言葉を零す。

 メイリーの言葉は、まるで、罪人へ告げるような言葉だ。


 それを受けるレオンは、ただ、諦めたように笑っていた。

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