第十六話:闇色戦歌
今度こそ。今度こそ。今度こそ、全部、守ってみせるよ。
第十六話:闇色戦歌
「本当、ジュンを探すの苦労したんだよ? スペルビアはこの空間のどっかにいるって言うけどさぁ、まさかこんな『隔離部屋』にいると思わないじゃん」
けらけら、くすくす、アーリマンは笑いながら、一歩こちらに向けて足を踏み出す。ハザマが刃先を上げ、睨みを強くした。そこで、漸くアーリマンはハザマの存在に気付いたとでも言うように、首を傾げる。
「もしかしてあんたが強行突破したの? あはは、さっすが神様。折角スペルビアがインウィディアを閉じ込めて、ジュンに会えなくしたのに。スペルビアもさぁ、想定外に対する対処としては上出来だったと思うけど、そういうの、人外ってずるいよね」
まあ、どうでもいいけど。
そう、全てを放り投げてアーリマンは笑った。にこにこと上機嫌な様は、相対する純達が警戒の目を向ける中であまりに異様である。
「……どういうこと?」
インウィディアをしっかりと抱き締めて、純が唸った。アーリマンは機嫌よく口角を吊り上げたまま、純に目を向ける。
「スペルビアに命令して、ジュンと会うための空間をつくらせたのはオレ。インウィディアは勝手についてきただけの邪魔なイレギュラー。
……だからさ、ジュン、そんな邪魔な奴放って、ここまでおいでよ。いつまで隠れてるの?」
――ぶわ、と、冷や汗が噴き出て、純は息を飲んだ。
言葉は柔らかいが、アーリマンから放たれる威圧があまりにも重い。アーリマンは変わらず緩く笑んでいるが、その瞳に、僅かに苛立ちが見える。先程までは完全に上機嫌一色だったのにも関わらず、だ。機嫌の起伏の激しさが、あまりに恐ろしい。
スペルビアが『癇癪持ちの幼児』と称していたことを思い出した。成程、言い得て妙だ。だが、アーリマンの『癇癪』は、確実にそんな可愛らしいものではない。それは、この威圧が如実に証明していた。
「……ワタクシも居るのに、純ばかり構われては妬けてしまいますね~」
しゃら、と音が鳴る。ハザマが刀を空に伝わせ、切っ先をアーリマンの首に向けていた。
「ワタクシの事も構ってくださいよ」
そんな茶化したような事を、張り詰めた声音で告げて、次。
――轟、空気が揺れた。
そして、また、甲高く響く音。金属同士がぶつかり合うような。全て吹き飛ばすような爆風に、インウィディアを抱き締めて純は何とか踏ん張り、目を開けてその中心を見た。
ハザマの赤い刀が、アーリマンの足元から、彼を包むように細長く伸びる黒いものと噛み合っている。ハザマは一旦刀を滑らせ、傷一つつかない黒から一歩距離を取った後、また別の角度から切り付ける。だがその斬撃も、新たに伸びた黒に吸収されて、アーリマンに届かない。
拮抗しているように見えた。ハザマの刀はアーリマンに届かないが、それを防ぐアーリマンもまた、ハザマに攻撃を仕掛けることが出来ない。だが、その均衡は、次第に揺らいでいく。
一瞬。
一瞬存在した隙に、ハザマの腹を黒が貫いた。彼の体が吹き飛んで、壁に打ち付けられる。巨大な壁の崩壊音と、それに隠れて、嫌な音がした。人の骨が壊れる音だ。
「ハザマ!!」
土煙がその姿を隠して、ハザマの状態は確認出来ない。しかし、煙は赤い一閃で切り開かれた。その奥に、腹を片手で抑えながらも、刀をアーリマンに向け、壁にもたれるように立っているハザマが見えた。
「あれ、腹貫いたと思ったのに。寸でで防いだのかな? まあいっか」
アーリマンがからりと笑う。ハザマは黙って睨みつけていたが、瞬間、目を見開く。
「……っ、かは……ッ」
ぐらりとハザマの体が揺れた。前に出した足で踏みとどまり、傾いたその身が倒れ込むことは無かったが、代わりとばかりにびちゃりと水音が鳴る。ハザマの口元が赤く汚れ、ぜーぜーと嫌な呼吸を繰り返している。
「……衝撃は流せなかったみたいだし。ああでも、恥じることは無いよ! きっと『本来』なら流せたんだろうからさ!」
けたけたとアーリマンは笑う。無邪気に笑う。この場に似つかわしくなく、不気味なほど、無垢だった。
そして、黒に囲まれた金色の瞳が、にたぁ、と歪に弧を描いて、その無垢は呆気なく邪気に塗り潰される。
「だけど、不可能だよ『翠の英雄』。本来の姿ならまだしも、そんな過去の遺物でオレは殺せない。
――だってその姿で、アンタは、何も救えたことなんかなかったじゃないか」
「……黙れ」
血を拭い、ハザマが低く唸る。
「逃げなさい、純。言ったはずです」
びくりと純の肩が跳ねた。突然に話を振られても、ハザマの意図は理解出来た。理解出来てしまった。
いざとなったら使い捨てろと、ハザマは、この空間に囚われたと説明したあの時に、そう言った。
今がその時だと言っているのだ。
「……っ、でも……!」
ぐっと歯を食いしばる。純にも、自分がここにいたところでアーリマンへの対抗にはならないと分かっていた。だが、たとえ本物でないといっても、ハザマが目の前で血を吐いて、よろめいているというのに、彼に背を向ける覚悟が決まらない。
「……そうそう、逃げるなんてよしてよ、ジュン」
アーリマンが笑っていた。けらけら、くすくすと、嘲るように。
「そんなの、すっごく萎えちゃう」
――アーリマンの足元から、黒の線が、純に向かって飛び出した。
「っ……!」
刀で防ごうとするが、黒の線は自在に動いてその動きを捉えられない。それが、純の首に巻き付こうと渦巻いた。
「やめて!」
その黒は、別の黒に払われた。見ると、純に抱き締められながら純に抱き着いていたインウィディアの足元から、それは伸びている。
「アーリマンはいつもそう! アーリマンも! お父様も! 皆そう! 人を傷付けて笑えるなんて信じられない! そういうところが大嫌い! 命を何だと思ってるの!?」
ボロボロと泣きながら、ガタガタと震えながら、それでもインウィディアは吠えた。涙に濡れた瞳で、真っ直ぐにアーリマンを睨みつけていた。
アーリマンはきょとんと目を丸くして、インウィディアを見る。
「……はぁ?」
――次いで。その表情が、酷く冷たく歪む。
「命を語るの? お前が?」
かつん、と靴を鳴らして、アーリマンが一歩近付く。インウィディアの体が大きく跳ねて、震えが酷くなる。
「調子に乗るなよ、雑魚の癖に」
低く吐き捨てた。金の瞳が、インウィディアを見下す。部屋の温度が氷点下になってしまったように、とても、寒い。インウィディアが純の腕の中でガタガタと震えている。その顔は真っ青になって、正気を飛ばしてしまっていないのが、いっそ不思議な程だった。
「調子に乗っているのはどちらでしょうね……ッ!」
赤い一閃。アーリマンがそれを避け、その主――ハザマに目を向ける。重圧から解放されて、純は力が抜けそうになるのを、それより先に崩れ落ちそうになったインウィディアを支えて踏ん張った。
ハザマが純達とアーリマンの間を阻むように切りかかる。アーリマンが黒で斬撃を防ぎながら、一歩下がった。
「行け!」
ハザマが短く、叫んだ。その声で我に返って、純はインウィディアから体を離し、代わりにその手を握る。この部屋に出口は、上にしかない。
「ウィディ! あの黒いやつで私達を上にあげられる!?」
「う、うん……でも、ハザマお兄ちゃん……」
「ハザマは大丈夫だから!」
大丈夫なわけがない。そんなことは分かっている。ハザマは弱体化していて、アーリマンは明らかに危険だ。
だが、インウィディアが恐怖を抑えてアーリマンに立ち向かおうとしたように、純もまた、覚悟を決めなければならない時だった。
アーリマンが黒を純の方に伸ばす。それはハザマに弾かれる。インウィディアの足元から、純とインウィディアを持ち上げて伸びた黒の塊が、天井に開いた黒い穴へ伸びていく。穴へ手を伸ばし、そこに届けば、落ちてきた時と同じように、重力がぼやけた。
アーリマンが追わんと上を見上げるも、ハザマが切りかかってその意図は崩れる。
「――、ッ舐めた真似を!!」
瞳孔を開いたアーリマンが吠えて、部屋が揺れた。足元から黒が噴出し、部屋を包んで闇になる。びりびりとハザマの皮膚を殺気が刺した。幼く可愛らしい風貌とはかけ離れたどす黒い殺気と、酷く歪んだ顔で、アーリマンは叫ぶ。
「殺す! 殺す! ぶっ殺す! 全部殺してやる! まずはテメェから!! ぐっちゃぐちゃにしてぶち殺してやるからなぁあァア!!!」
轟き、闇はどんどん黒くなる。メキメキと床に散らばる鉄格子の破片が捻じ曲がり、折れて、やがて塵と化す。ばきん、と、床や壁にヒビが入る。
「……成程、癇癪ですね」
は、と笑って、ハザマは口元の血を拭い、刀を構えた。
「いいですよ。相手をしてあげます~……
……楽しみましょうか、我儘坊や」
上部に辿り着いて、先程開けた穴からよじ登る。書庫に戻ってきた。インウィディアの手とは、まだ繋がっている。下の様子は、もう分からない。音がしない。何かで遮断されてしまっているようだった。
「ジュン……」
震えた手で、インウィディアが縋るような目を向ける。純は彼女を安心させたくて、安心したくて、その手を握る力を強めた。
「……核を、探さないと」
ぽつり、呟く。
「スペルビアがどこかに隠してるはずの、核。この空間から出られれば、ハザマも本来の実力で戦える」
もう時間が無い。きっと。レオン達を待っているだけではいられない。
「行こう、ウィディ」
「う、うん」
手を繋いだまま立ち上がる。この書庫に核がないことは確認済みだ。別な場所を探さなければ。
そう歩きだそうとした時、インウィディアが、くん、と純の手を引いた。
「ウィディ?」
「……ジュン、あの、私のこと……」
おどおどとインウィディアは涙に濡れた瞳を下に向けて、口篭る。彼女が言いたいことは何となく分かった。
先程の、インウィディアの足元から伸びた黒で分かった。彼女は、レオンと同じ。そして、スペルビアや、アーリマンと同じ、闇属性だ。
でも、そんなことは関係ない。そう、純はインウィディアの手をしっかりと握って、笑いかける。
「ウィディが何者でも、私達は友達だよ」
その言葉に、虚を突かれたようにインウィディアは熟れた葡萄の瞳を瞬かせる。
そしてすぐ後、心底安心したように、微笑んだ。紫が蕩けて、その目尻の涙が一つ、零れ落ちる。
「……、うん」
――手をしっかり繋いで、二人は書庫を飛び出した。
*
「ここがシュヴァルツ……?」
アカザが呆然と零す。彼が眺める方へ、レオンもまた目を向けた。
馬車を走らせて数刻。辿り着いたのは、荒野、というのが相応しい場所だった。
元は大きな町だったのだろう。だがそれを囲み外部から遮断するはずの外壁は、ほとんど形を成さずごろごろとそのあたりに散らばる岩となっている。中は草木の一本も生えず、風食を受けて不規則にひび割れた、岩盤のような土が剥き出しになっている。ちらほらと、到底人は住めないであろう荒れ果てた家々が形を残していなければ、そこがかつて人が住まう場所だったと誰も考えはしないような惨状だ。トアロ村のような光景だが、トアロ村よりも範囲は広い。
「……なぁレオン、ホントにここ、英雄……レオンハルト・トラゲーディエの生誕地なのか?」
「うん、そう伝わってる……けど、話に聞いてたより酷いね……」
アカザの言葉に返して、レオンは溜息を一つ零した。
英雄レオンハルト・トラゲーディエの生誕地として、考古学に関わる者は、一度はこのシュヴァルツに足を運ぶ。リシュール王国が抱える考古学団が出向き、何一つ成果を得られなかった、という過去の話もまたその原因だろう。国が見つけられなかったものを見つけてやると、野心を燃やし、彼等はシュヴァルツを目指すのだ。
そして、シュヴァルツに到着して愕然とする。それでもと、調査をして、やはり膝をつくのだ。ここには何も無いと。
荒廃しきった場所に、家だったものが辛うじて分かる以外に、形あるものは残されていない。まさに『滅び』の二文字が相応しい有様。その上、滅びの時期を特定する方法は絶たれている。物品も、残骸も、地質も、何も語ってはくれない――シュヴァルツとは、そういう場所だった。
「英雄の生家はもっと先デス。行きマスヨ」
そう、端的に告げて、メイリーは歩き出す。
何も無い場所とはいえ、人家だった残骸に遮られてシュヴァルツの視界は悪い。はぐれては大変だと、慌ててレオン達はその後を追った。
住民を失ったシュヴァルツは魔物の巣窟と化している。一、二歩歩けば踊りかかってくる魔物は、キラーラビットであったり、スライムであったりと、最低ランクの弱いものであるが、それらをまた一体屠り、メイリーは忌々しげに舌打ちを一つした。
「物陰カラひょこひょこ出てくるノハ目障りですネ……光の結界を貼りマスカ」
「えっ、メイリーさん光属性なんですか……!?」
言って、何やら術を練ろうとしたメイリーに、レオンが思わず声を張り上げる。魔力を練るメイリーの傍にぼんやり輝く蝶が現れる――その魔術形態は初めて見るものだった。だが、それに関心を奪われるよりも先に、レオンには死活問題がある。
光の属性を持つ結界とは、光属性の宝石で張ることは出来るが、その結界は場所を指定し張られた固定結界であり、移動は出来ない。だが、光属性の魔術師が己の魔力で練り上げる結界は違う。その魔術師を中心として、波紋をドーム状に広げることの出来るものだ。広さは魔術師の技術によるが、この状況から鑑みるに、彼女はレオンやアカザ、アイクを覆う程度の広さは確保するつもりだろう。だがそれは、レオンにとっては困ることだった。光属性の結界に、闇属性であるレオンは弾かれるはずだ。
「何か問題がありマスカ?」
言いながら、メイリーは術の準備を進めていく。
問題はある。だが、口には出せない。国の重鎮であるらしい彼女に、自分が闇属性であると――『悪魔の子』と忌避される存在であると、そう言えば、どうなるか。それがレオンには分からなかった。それがレオンには恐ろしかった。
村や町によっては、闇属性であるというだけで処刑の対象になる場所もある。リシュール王国自体はどうなのか、レオンは知らない。
「め、メイリーさん、俺達魔物なんか全然平気だし、結界なんか要らないですよ!」
「平気かどうかは責任者であるワタシが決めることデス」
アカザが何とかフォローをしようと口を挟むが、ばっさりと切り捨てられた。
「魔物との戦闘、並びにいつ襲いかかられるかわからない警戒は確実に神経をすり減らしマス。小さな結界に払う労力の方が安上がりデス。どの様な危険があるか分からナイ以上、体力は節約すべきデス。違いマスカ」
畳み掛けられた正論に、レオンもアカザも返す言葉が無い。アイクが襲いかかってきたスライムを宝石から取り出した軍刀で切り捨てた。おどおどとした言動の割に太刀筋は完璧に魔物の息の根を止めていて、相当の実力者であることが分かる。そうしながら、しかしやはり顔は気の弱そうな困った様子で、困惑気味にこちらの様子をうかがっている。
どうしよう、どうしよう。レオンの思考回路はショート寸前まで混乱していた。
「……ッお、オレ! 一人で大丈夫です!」
「っ、レオン!?」
――混乱の結果、レオンは、半ば逃げるように走り出した。後ろで、アカザの声が聞こえたが、もう足を止められない。
「待ちなサイ、……アルフロッジ!」
メイリーの声を振り切って走る。彼女は既に結界式をその手に練っていた。すぐには他の魔術でレオンを捕らえるなど出来ない。
光の簡易結界で三人を覆った時には、もう、レオンの姿は見えなくなっていた。
「……、……クソガキ」
メイリーが低く唸る。ひっ、とアイクが悲鳴を上げてアカザの後ろに隠れた。歳下の後ろに隠れるのはどうなんだと言いたい気持ちはあるが、それよりアカザは走り去ってしまったレオンの事で焦燥感に駆られる。
だが、怒りに満ちたメイリーの前を横切り、レオンを追いかけられる気がしない。確実に捕まると、確信を持って言えた。
「だから子供のお守りナド嫌だったんデスヨ……嗚呼全く、言うことを聞かない餓鬼は嫌いデス」
言い捨てて、メイリーは振り返る。ギンッ、と半ば睨むような強い眼に射抜かれたアカザは思わず姿勢を正し、アイクはひぇっ、と悲鳴を上げるが、メイリーは構うことなく口を開いた。
「行きマスよ。彼に考古学の知識があるなら英雄の館の場所は分かっているでショウし、目的地はそこなのですカラ、探すより真っ直ぐ其方に行った方が良いデス。
……いいデスね。絶、対、に、集団行動を乱さないヨウニ」
絶対にを強調して、メイリーの睨みがキツくなる。イエスマム、と、男二人は頷く他無かった。
「……や、やばい……逃げちゃった……」
そしてレオンはといえば、走って走って、走った先で、漸く冷静になってしゃがみこんでいた。
「メイリーさんすごい怒ってたよ……やばい……どうしよう……」
顔を真っ青にして震える。メイリーが厳しい人物であることは既に分かっていることであり、レオンは見つかった時の呵責を想像して身を縮こまらせた。逃げ続けるなど出来ない。早く合流してしまった方が怒りは少なく済むだろう。それは分かっているが、無我夢中で走ってきて、他の三人が居る場所など最早把握出来ない。走っている最中、魔物に襲われなかったのが幸運だったのか否かは、レオンには分からなかった。
「……英雄の館に、向かおう、うん、多分皆そっちに向かうはず……」
とりあえずメイリーに捕まった後のことは考えないようにして、立ち上がる。辺りを見ても、見渡すばかりの荒れ果てた町の様子であった。
「……英雄の館、どこだろう」
ぽつりと零す。シュヴァルツは考古学者にとって実に有名な場所で、レオンもまた祖父からシュヴァルツについては教えられ、大体の地形は頭に入っている。勿論、英雄の館が何処にあるのかも分かっている。
だが、無我夢中で走ったが故に、自分が今どこにいるのかが分からない。
「……と、とりあえず歩こう。何となくこっちな気がする!」
今この状況で立ち止まり、思考の渦に飲まれる方が怖かった。レオンはほぼ直感で、足を動かす。直感だが、何故だか、進む方向に不安は無かった。
進んだ先、一、二個廃墟を曲がったそこに、人影が見えた。
最初、純かと思い、レオンは足を早める。だがすぐに、違うことに気がついた。正午を少し過ぎた太陽が、その人物を照らしている。ハーフバックの、蜂蜜を溶かしたようなブロンドと、伏し目がちな碧眼を縁取る、同色の長い睫毛が輝いていた。遠目で見ても耽美な顔立ち。その顔立ちに、見覚えがある。
「……っ!」
駆け足を無理矢理止めた。ジャリッ、と土を軽く抉る音がやけに大きくレオンには聞こえる。しまった、失敗した、と後悔するがもう遅い。美麗なその男が、ゆるりとレオンの方を振り向いた。
「また会ったな、同胞」
ふ、と笑うその顔は、老若男女問わず魅了してしまいそうな魔性を讃えている。だが、レオンの警戒は解けない。彼が持つ唯ならぬ『闇』の気配が、レオンの神経を尖らせた。
「……同胞とか、訳分からないこと言うのやめてください。ジュンは……ジュンのこと、貴方が、攫ったんですか……?」
「訳が分からない、か。分かっているくせに白々しいな」
レオンの質問には答えずに、男は優美に肩を竦める。だが、その動作とは裏腹に、纏う空気は棘を纏っていた。何かに酷く苛立っているような、そんな空気だ。
「何の話……っ、ジュンは何処?」
「分からないか? 魔術師を名乗る割に鈍いんじゃないか」
その言葉で、レオンはある違和感に気付いた。
男の背後は、何も無い。恐らくかつてはそれなりに広い屋敷が建っていたのであろう、土台らしきものは申し訳程度に残っているが、後は何も無く、ただ荒れた大地があるだけだ。
だが、その何も無いはずの空間に、歪みを感じる。
何だ、と、目を凝らそうとしたその時だった。
「アルフロッジ!」
女性の声が棘ついた静寂を切り裂いた。聞き覚えのある、どころか、先程までは一緒だった人物の声だ。三人分の足音が聞こえ、振り向くと、メイリー、アカザ、アイクがレオンの傍まで駆け寄っていた。
「メ、メイリーさん……」
「……彼は誰デス?」
レオンの予想に反して、彼女はレオンへの怒りを纏ってはいなかった。否、レオンを怒ることよりも優先して、目の前の美しい男への警戒を顕にしていた。当然である。魔物が蔓延るシュヴァルツに、たまたま迷い込んだだけの旅人、など、殆ど有り得ない。
「っ、わ、わかりません……でも、リシュール祭の前に、一度だけ会いました」
「……素性は不明、ト」
「は、はい……」
メイリーは鋭く男を睨みながら、レオンの前に出る。
「国王様の推測は正しかったようデスネ。彼の背後に、結界の気配がありマス。恐らく、ヤマダジュンはその中に閉じ込められているのデショウ。
……違いマスカ? 拉致犯殿」
「下手な隠し立てはしないさ。この術、中からは頑丈だが外からは脆くてね……見るものが見ればすぐに分かってしまう」
男は肩を竦め、しかしその碧眼はレオン達の一挙一動も見逃さないような冷たさを潜めている。そして、同時に、彼はやけに――恐らくレオンがこの場に辿り着く前から――苛立っていた。
「だが、まだ彼女を解放するわけにはいかないんだ。……あの餓鬼、この僕に拉致なんて下らない仕事をさせておいて、更には門番まで押し付けるとは……本当に、殺してやりたいほど腹立たしい」
空気がひりつく。綺麗な顔を苛立ちに歪ませる男の影が揺らいで、ばち、と、何か弾けるような音を立てた。
「赤子に爆弾を持たせるようなものだ。アーリマンにはもっと情操教育というものが必要だと僕は思うね」
「……何を、言ってるんですか」
レオンの言葉に、男は答えない。ただ、その薄氷の瞳をレオンに向けた。
「力には責任が付随するべきだ。そうは思わないか? レオン・アルフロッジ」
「何で、オレの名前……」
「君は力を持ちながら、実に無自覚だ。アーリマンとは別のベクトルで腹が立つ」
男の足元で影が揺れた。そこから、黒く、煙のようなものが立ち昇る。それは男が掲げた手元で黒い球体となり、質量を持つ。球体は、やがて歪んで、細長く伸びた。剣のような形になった黒を握り、男はついと切っ先をレオン達に向けた。
「……闇属性……」
メイリーが唸る。アイクが、レオンとアカザを守るように、軍刀を携えて前に出た。その顔に怯えはなく、男の動向を観察するような瞳が、眼鏡の奥にある。
男が、嘲るように透き通る薄氷を眇めた。
「……リシュール王国の仔犬共、僕は君達には興味が無いんだ。猫より犬派だが、それは僕に従順な個体に限るな。ああ、後は大型犬が良い」
「――それは残念デス。ワタシ、犬より猫派なのデスヨ」
メイリーが男を睨む。一歩前に出て、片手を翳した。彼女の傍に光る蝶が数匹現れて、舞う。
「……精霊術か、お父様は興味を持っていたな……まあ、まだ命じられていないし、いいか」
ぽつり、男が零した。だがその言葉は小さく、四人の距離には届かない。
「……今回の一連の事件の容疑者として、身柄を確保しマス。参考までに、名前をお教え頂けマスカ?」
メイリーの張り詰めた声に、ふ、と男は微笑んだ。柔らかい、誰もが見惚れそうな麗しい笑み。だが、その瞳の奥の、何処までも冷えきった温度が、直面した四人にはよくわかる。冷酷な王者に見下されているような、そんな感覚を覚えさせる笑みだった。
「……スペルビア。そう呼ばれているよ」
男、スペルビアが闇から生み出した剣を上に放る。すると、その上空でそれは止まって、球体となった。
――その球体は、やがて円となり、しゅる、と音を立て、それはどんどん大きくなる。大きくなって、やがて、直径10mはありそうなほどの円になった時、そこから、獣の足が生えた。
闇から、ずるりと『それ』が出る。四人の驚愕と、警戒の目を受けながら、『それ』の尻尾まで現れ切って――
「僕の名を、冥土の土産にするがいい」
スペルビアが笑う。
――『それ』は、轟音とともに四人の前に舞い降りた。
《ギャオオオォオォオォォオオン!!!!》
黒い毛並み、鋭い爪と牙。体高は5mはあるだろう、巨大な――三つ首の狼が、唸りを上げた。大地が揺れる。凄まじい大気のうねりに、足を踏ん張りながら、アイクが叫んだ。
「カルベリアス……!」
メイリーが四人を守るように数匹の蝶を周囲に飛ばさせながら、ぎりりと睨む。
「Aランクの魔物を、召喚シタ……? 本当に、何者……ッ」
三つ首の狼、カルベリアスは巨体で大地を踏み鳴らし、土煙が巻き起こった。
そして、その後ろで、スペルビアはやれやれとでも言うように肩を竦めて傍の瓦礫に腰を下ろす。
「……さて、君の力を見せてやるといいさ」
その碧眼に確かにレオンを捉えながら、僅かに笑った。
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