第七話:決意

 認めない。認めない。こんな結末は認めない。

 こんな『綺麗な』結末など認めない。

 ならばやり直そうか。

 もう一度、もう一度。


 あの悲劇を、もう一度。



第七話:決意



 その黒い球体の中、目のように浮かぶ空虚な孔が己を捉えている。その中に、酷く引き攣った純の顔は、無い。映らない。それは決して、生体の目としてあるべきレンズではない。ただそこには空虚な、白とも金とも言えるような、鈍い光が存在するだけである。しかし確かに、純はそれと目を合わせていた。逸らすことは許されなかった。

 押し倒すような形で、その黒いものは純に覆い被さっている。球体から連なる円筒状をした黒は、球体が頭部であるならば、身体部といえるだろう。その円筒から、同色の、細長い数多に枝分かれしたものたちが純の手足を地面に縫い付けている。それは菌糸にも似て、生理的嫌悪を煽った。抵抗の力は入らなかった。いや、入れられなかった。喉が張り付いたようで、息も碌に吐けやしない。

 純の手足を拘束していた1本が、少し上のあたりで枝分かれして、ずるずると純の体を這う。腕から、腋へ、蛇のように胸を伝い、やがて鎖骨に至り――


疾風の矢ウイングショット!!」


 その声と共に飛んできた青緑の風を纏った矢が、黒の身体を切り裂いた。ウェーブバットを吹き飛ばしたものと同じ、アカザの弓矢である。黒は2つに割れて、揺らぎ、その拘束が解けると共に、純にのしかかる重圧が軽くなる。

「ジュン!」

 レオンの叫びに意識が引き戻されて、殆ど反射的に地面を蹴った。転がるように、ただ、黒い怪物から離れるように。走った、と言うにはあまりに傾いたフォームで、なんとか二人の元へ転がり込む。膝をついて息を切らした純の前へ、庇うように二人が立った。

「……っんだよアレは、魔物か!?」

 アカザが叫ぶ。見据える先、確かに矢で貫かれて二分したそれは、揺らめきながら繋がって、また元の形に戻っていく。その目はまだ純を見つめていた。

「わからない、あんなの見たことないよ……っジュン、大丈夫!?」

 レオンが声を上げているのが、どこか遠くに聞こえる。バクバクと煩い音が、自分の胸から聞こえているのだと、そこに手を当てて漸く気付いた。未だ喉が張り付いている。呼吸が上手くできなくて、胸が苦しい。それでも二人に返事をしなければ、と、ギリギリ残った冷静な部分に奮い立たされ、純はなんとか顔を上げる。

 ――目が合った。

 己の前に立つ、レオンとアカザ、その二人を超えて、奥。遠くに居るその黒は、確かに純を見ていた。今までの魔物とは全く違う。今までの魔物のような、機械的で感情を持たない――そう、まるでゲームのエネミーのような――そんな目ではない。


 それは生きていた。

 生きた、『害意』だった。


「――っひ、」

 喉が引きつった音がした。それが、真なる『悲鳴』と呼ぶものだと、遅れて知覚する。身体が震える。地面についた手を、構わず――正確には構う余裕もなく――握り締めたために、爪の中に土が入る感覚がした。

 ――元の世界に居た頃、ヤンキー数人に絡まれたことがある。彼等が見下ろす目もまた、生きていた。生きた害意がそこにはあった。それが、当時小学生だった純には、酷く恐ろしかった記憶が、確かに残っている。

 あの黒い怪物の目は、それに似ていた。いや、あの時のそれよりも、もっと純然たる、目的を定めた、害意だ。


 ――怖い。

 怖い。

 怖い怖い怖い怖い怖い!!!


 純の脳には最早、その二文字しか浮かばなかった。体の震えが止まらない。体に力が入らなくて、腰が抜けてしまったようで、立ち上がることさえ出来やしない。

「……ジュン、」

 レオンが名前を呼んでいる。

 ――ああ、立ち上がらないと。返事をしないと。刀を構えて、だって、約束したのに。私だって戦えるんだと、それを示して、今ここに居るはずなのに。

 そう、己を叱咤させて、純は口を開いた。そこまでして、しかし喉は震えなかった。張り付いた喉は一言も発してはくれない。


 ――無理だよ。

 ――だって、こんなに、怖いんだよ?


 誰かがそう、純に告げる。酷く喉が乾いていた。

 身体中を流れる汗が冷たくて、とても、とても寒かった。


「――レオン! ジュンちゃん連れて逃げるぞ! お前が抱えろ!」

 アカザが叫んで、純の意識は引き戻される。叫ぶと同時にアカザは弓に手を翳し、エメラルドの光と共に現れた矢をつがえて迷い無くその黒を撃ち抜かんと放った。レオンは慌てて純を横抱きに抱え上げ、走る。

 自身を抱えたレオンの肩越しに、矢を躱した怪物の無数の枝分かれが四方八方に伸びるのを純は見た。

「ッうわ!?」

 黒の線は上空に弧を描き、アカザとレオンの頭の上を通ってレオンの足の数センチ先を貫いて、進行を阻む。慌てて踏み止まったレオンが、勢い余って純を抱えたまま尻餅をついた。線は黒い怪物本体を中心に、円状、あらゆる方向に突き刺さったようで、直径三十メートル程だろうか、ドーム状の檻の内部に三人は黒と共に閉じ込められてしまう。

「……クソ、逃がす気は無いらしいな。やるしかねぇってか」

「や、やれるの!? 強そうだよ!?」

「仕方ねぇだろ! 強いからってみすみすやられるわけにいくかよ!」

 アカザに叱咤され、うううと唸りながらもレオンは立ち上がった。一度怪物に視線を向けてから、純の方へ振り返る。同時にアカザもまた、怪物に警戒を向けながらも純に視線を投げた。

「ジュンちゃんは……、……駄目か。仕方ねぇよ、あの野郎、ジュンちゃんを狙ってやがる。怖くて当たり前だ」

 アカザは、腰を抜かしへたりこんだまま顔すら上げられない純を、責めなかった。優しく言って、「ここは任せとけ」と視線を怪物に戻して弓を構える。

 純の視界に影が差した。レオンが目の前に膝をついてしゃがんだためだった。


「ごめんね、ジュン」


 突然の謝罪に、弾かれたように顔を上げる。そこには、申し訳なさそうに眉を下げたレオンがいた。

「ジュンは、多分、こんな戦いなんて、無縁な世界に居たんだよね」

 目を見開いた純に、レオンは優しく声をかける。

「オレが弱虫で、臆病だから、ジュンをこうやって戦わせちゃった。ごめんね、ジュン。怖かったよね。こんな、殺気とか、そんなの慣れてなかったよね」

 違うんだよ。そう言いたくて、それでも純の喉は震えなかった。情けないくらい、身体の震えは止まらないくせに。

 ――違うんだよ。確かに、平和な日本で暮らしてて、こんな感覚知らなかったけど。でもレオンが謝るのは違うでしょ。だって私が、私が――

 そう、言いたかった。言わなければならなかった。それなのに純の喉は震えない。水分が足りない。

 何よりも、勇気が足りない。

「ごめんね」

 目の前のレオンは、相変わらずなんだか頼りない、だけどとても優しい笑顔を浮かべている。


「もう、ジュンは戦わなくていいんだよ」


 そう言って、レオンは立ち上がって純に背を向けた。その掲げた右手に闇の魔力を纏わせて、アカザ同様に、黒に向かっていく。

穿つ散風ブロウスピアー!」

闇の弾丸ダークショット!」

 いくつもの、細い青緑の風が黒を貫かんと吹き荒ぶ。それを躱す黒い怪物を目掛けて、球状に渦巻く闇の魔力が放たれる。怪物の身体部に直撃する筈だったそれは、身体部そのものが揺らぐように離散したことで空振りに終わった。

 そして、黒の頭部、口のような空洞が大きく開いて、レオンの『闇の弾丸ダークショット』に似た、しかしそれよりも数倍は大きく禍々しい球体が放たれる。それは地面を抉って、アカザを吹き飛ばし、彼の身体を数メートル先にあった木に打ち付けた。アカザの名前をレオンが叫んで、アカザは咳き込みながらも、無事だと叫び返す。


 ――私は。

 私は何をしているんだろう。そう、純はぼんやりと考えた。

 二人が戦っているのが見える。傷を負って、痛みに喘ぎ、顔を顰めながらも、土を踏みしめて立っている。

 戦わなくちゃ。二人の力にならなくちゃ。そう思うのに、純の震える体はちっとも言うことを聞いてくれない。いつの間にか純の近くに来ていたいぬが、心配そうに見上げているのが視界の端に見えた。


 ――甘く見ていたのかもしれない。そう、漸く気付いた。

 甘く見ていたのだ。この世界を。

 ゲームみたいな、剣と魔法の世界。魔物は玩具みたいで、血も流さなければ感情もない。

 だから甘く見ていた。忘れていたのだ。


 この世界は現実だ。


 疲労は溜まる。怪我はする。

 死んだら、死ぬ。

 ゲームなんかじゃない。剣道の試合でもない。そんな当たり前のことをわかっちゃいなかったのだと、純は歯を食いしばった。

 ――レオンのことをヘタレなんて言えない。


「私の方が、よっぽど度胸が無いじゃんか……」


『御自覚なされたようで何よりです~』

「――!」

 間の抜けた声が聞こえて顔を上げる。しかし二人が黒と戦っている他に誰も居なくて、どうやら頭の中に直接声が響いているんだと気付いた。張り付いた喉で、掠れた声を落とす。

「……ハザマ、」

『ええそうです~。昨夜ぶりですね、純』

 相変わらずハザマの口調は間延びしていて、少しだけ力が抜ける。同時に、自覚、という言葉で、昨夜の精神世界を思い出した。

 ――いいですか、純。この世界は現実です――

 そう、ハザマはあの時確かに言った。

「……ハザマは、分かってたの? こうなること」

 小声で問いかける。そうすると、まあそうですね~、と、やはり間延びした声が返ってきた。

『貴女は慣れていないでしょうから~。感情の篭った、悪意、というものに』

「……」

『ですから、遅かれ早かれ、こうなるとは予測がついていましたよ』

 まあ、と言って、ハザマの姿などは見えないのに、何故か彼が二人が戦う黒い怪物に視線を投げた気がした。

『……まさか、アレが早々に出てくるとはね』

 何か引っかかる言い方に、眉を寄せた。

「ハザマは、あの黒いもののこと知ってるの?」

 問うも、彼はそれには答えない。きっと、何時もの読めない無表情で、へたりこんだままの自分を見下ろしているのだと、純は感じた。

『まあ、良かったじゃないですか、純』

「……何が」

『仲間に恵まれましたね~。彼等、貴女が戦わなくても怒らないようですよ』

 ぴくりと、体が跳ねた。

 無意識に手を握り締めていて、見開いた目は、指の跡を残した地面を見る。

『ですからもう、いいんじゃないですか~? 怖い思いなんて、したくないでしょう?』

 ハザマの間の抜けた――感情の読めない声が、頭に響く。


 ――いいのかな。考えて、純の脳裏に声が聞こえる。他でもない、自分の声だ。


 ――いいんじゃないの?

 だって、レオンが言ってくれたじゃんか。戦わなくていいんだって。

 アカザだって怒らなかった。仕方ないって言ってくれた。

 その通りだよ。仕方ないよ。私、日本人だよ? 剣道で段持ちだったって、実戦なんて、道端で不良に絡まれるくらいしかないんだもん。戦場とか、知らないし。身が震えるような殺気なんか、感じたこともなかったんだ。

 だからさ、怖いなんて当たり前なんだよ。そもそもなんでこんな世界に来ちゃったのかもわからないのに、なんで命を懸けて戦わないといけないのさ。

 私の代わりにレオンやアカザが戦ってくれるんじゃないか。だからもういいんだよ。私は、後ろで、安全な所で、見ていたら、それで。

 ――それで。


「――なんて、開き直れたら、良かったのかな」


 喉はあんなにも張り付いていたのに、何故だか、すとんと、通った声が出せた。黒と戦う二人にはきっと聞こえていないだろう声量だが、ハザマには聞こえたらしい。とはいえ、そもそもここに居るわけではないのだから、声量が関係あるのかは純にはわからない。

「でも、無理だよ。開き直れないよ、私には」

 目を細めたハザマに、見下ろされているような気がした。

『――なら、どうしますか~?』

 ハザマの声は相変わらず間が抜けていて、だけど、どこか張り詰めていて、そんな声が純の頭に響く。その声が、純の頭を冷やしていく。それは、恐怖でぐちゃぐちゃになった脳味噌には、丁度いい。

「……戦い、たい。そのための、力が欲しい」

『曖昧ですね~、どうやって力を得るつもりですか? 誰かの力を借りたいんですか』

「……違う、」

 誰かに頼ってばかりじゃ駄目なんだ。それじゃきっと意味が無いんだ。そう、もう、純には分かっていた。

「強く、なりたいんだ。戦いたいから。二人と一緒に、私も、戦いたいから。後ろで、守られるんじゃない。背中を見てるんじゃない。二人の、隣に立ちたいよ」

 ハザマが少しの間、黙った。それから、また声が響く。変わらない声音だった。どんな顔をしているのかは、わからない。

『……強く、など。一朝一夜でなれるものではありませんよ』

「そう、だね」

 目を瞑り、手を前に翳す。手の中に、質量が現れる気配がする。その質量を握って、目を開けば、その手には赤い刀身の刀が握られている。

「だから、それは後で考えることにするよ」

『……へぇ?』

 刀を地面に突き立てる。ギリオンフライの甲殻も貫いたその刀身はその程度で刃毀れすることは無く、立ち上がる純をしっかりと支えていた。

「今は、立ち向かうことが出来たなら、それでいい」

 地面から刀を抜いた。足は震えるが、腰は立つ。それでいい。それで充分だと、今の純にはあっさりと理解出来た。戦うために立ち向かったレオンの背中だって、震えていたのだから。

 数人のヤンキーに囲まれた、小学六年生の夏を、純はぼんやりと思い出す。怖かった。だが、逃げるわけにはいかなかった。ヤンキーに難癖をつけられた、自分より小さい女の子を、見捨てることなどできなかった。怖くて仕方なかったけれど、彼等の流派も何も無い暴れ方には隙があったから、勝ち筋があった。

 怖くていい。冷静ささえ失わなければ。震えてもいい。観察さえ出来ているなら。必要なのは、目を逸らさないことだ。自分を見失わないことだ。そのことを、純は数年ぶりに思い出した。

「立ち向かえるなら、二人と一緒に戦える」

 刀を構えて、大地を蹴る。

 貴女は本当に、と、ハザマが笑う声がした。



 喉になにか異物があるような感覚で、息がしづらい。怪物の攻撃を躱すため走り回らなければならないレオンに溜まる疲労は、確かに彼の足に纒わりついていく。はぁっ、と何度目か分からない詰まった息が漏れた時、一瞬の気の緩みが、彼の足をもつれさせた。

「っあ」

「レオン!!」

 ぐらりと視界が揺れる。反転した世界で、黒の身体部から伸びた線が、目の前で鋭く降り掛かる。せめて致命傷を避けようと、己の腕で庇うように伸ばし、目を瞑った。

 鳴り響いたのは、肉を貫く音ではなくて、バチッと小気味いい何かを弾き返すような音。

「……ジュンちゃん?」

 アカザが間の抜けた声で名前を呼んだ、先程まで遠くで自分たちが守っていたはずの彼女が、今、自分を庇うように刀を構えて立っていて、レオンはその青い瞳を見開いた。

「……ジュン、どうして、」

「ごめん、レオン」

 どうしてこっちに、と言い切る前に、純の謝罪がその声を遮る。その背中は確かに震えていたが、声はよく通って、冷静だった。

「守るって約束したのにさ、情けないとこ見せたね」

「そんな! だって、仕方ないよ、ジュンは平和に生きてたのに! 謝ることじゃなくて、巻き込んだオレが謝るべきで――」

「レオンに巻き込まれたんじゃないよ。私は私の意思で旅についていくって決めたんだ」

 弾かれたダメージがあるらしい。黒はずるずると伸びた腕のような触手を己の身体部に戻していく。その姿から目を逸らさないまま、純は刀を構え直した。怪物の目が純を見詰める。その顔が、やっと来たかとでも言うように、笑う。ぞくりと背筋に嫌なものが走るけれど、冷静さは欠かない。欠くわけにはいかない。

「私さ、寂しかったんだよ。レオンもアカザも、この世界で、私の知らない人生があって、私の知らない人間関係がある。私はどこまで行っても部外者だから」

「そんなこと……」

「いいんだ。私の気持ちの問題なんだ。聞いてほしい」

 立ち上がりながら否定しかけたレオンを遮って言葉を続ける。少し離れた場所にいたアカザが駆け寄ってくるのが視界の端に見えた。彼にもちゃんと聞こえているようだと確認して、純はまた、口を開く。

「それは、仕方の無いことだから。せめて私は、これから、二人と同じ景色を見たいと思うんだ。そのためには、私は、後ろで守られてるわけにはいかないんだ」

 だから。


「一緒に戦わせてほしいんだ。そのために、ちゃんと強くなるからさ」


 ――言いたいことは全部言ったつもりだった。視線を投げて、二人の顔を確認する。

「……ほんっと、ジュンちゃんはかっこいーよ」

 アカザは苦笑いして自身の頭を掻いて、そうして、弓矢をまた黒い怪物に向けてつがえた。

「NOなんてあるわけねーだろ、そんなの言われちゃったらさ」

 レオンはぽかんとした顔をしていた。それから、ぐっと唇を食いしばって、俯いて。

 そうして、笑って顔を上げる。

「――うん。強くなろう。皆で一緒に、そしたらきっと、何でもできるよ!」

 二人の返答に、知らず純の口角も上がっていた。

「……簡単、だったのになぁ」

 こんな簡単な確認に、随分時間をかけてしまった。そう思って、純はひとつ、苦笑を零す。


「でもきっと、それも悪くない。そうでしょ」


 ――黒の身体部に触手が全て取り込まれた。同時に、また新たな触手が幾本も枝分かれして伸びる。怪物が戦闘態勢に戻ったのだ。

「ジュンちゃん。あの野郎は身体部にいくら攻撃してもぐにゃぐにゃ溶けて避けやがるが、どうやら頭の部分を溶かすことは出来ねぇらしい。それから、レオンも見たろ、あの頭のとこから、たまにぼんやりだが刻印みたいな光が見えるんだ。アレでも、一応魔物だってこった。感情みたいなもんがある魔物なんか初めて見たけどな」

 魔物の概念が変わっちまうよ、と冗談めかしてアカザが笑う。

「……俺とレオンだけだと、ちっと人手が足りねぇ。でも三人なら、二人が意識を逸らしてる間に、頭に一発ぶち込めるはずだ。意識を逸らすのは、広範囲攻撃ができる、俺とレオンが適任だろう」

 だから、と悪戯っ子のように笑ったまま、アカザが続けた。

「ジュンちゃんがトドメをさしてくれ。あの不気味な野郎に一発、派手なの頼むぜ」

「……了解!」

 三人で笑顔を交わしあって、それが合図のように、三人、三方向へ駆け出す。

 真っ先に黒の触手が飛んだのは純の方向だった。しかし、それを遮ってアカザの矢が数本の触手を貫き、黒の頭はぐりんとアカザの方へ向く。その顔をめがけてもう一度アカザは矢を飛ばすが、それは簡単に躱されてしまった。

 その横顔に、今度はレオンの魔術が飛んだ。頭部に直撃する前にそれは触手の数本に遮られ弾き飛ばされて消える。

 ――アカザは言わなかったが、純にも、さっきまで二人だけで戦っていたレオンとアカザが既にかなり消耗していることは分かっていた。だから、きっとチャンスは一回。一回で終わらせる。終わらせなければならないのだ。

 走って、黒の、背後に回り込む。三方に囲まれたそいつは、攻撃を仕掛けてくるレオンとアカザに注意を向けていて、背後に気付かない。あの日の、ヤンキー達のような、隙がある。

 地面を踏みしめて腰を据え、刀を握り、柄を小さく動かして。くるり、切っ先を回して、構えを取った。

「……緋炎、一刀流……」

 突きの姿勢。純の家は剣道の道場だが、その源流は剣術だと、母から聞いたことがあった。武芸ではなく、戦うための流派だと。剣道の試合に使うものとは別に、幼い時から教えられたそれ。

「一の型、」

 重心を前に。倒れる前に、地面を蹴って、弾丸のように、一筋の光になって、音を立てないままに、走る。


 ――知っている。私はこの空気を知っている。

 いや、違う。知っているのは私じゃなくて――


 怪物がやっと気付いて、純の方を振り返った。そんなものでは間に合わない。その切っ先からは逃れられない。

 純達の、勝ちだった。


「――『光戯コウギ』」


 光の一閃が、頭部の球体を貫いた。

 ぱきん、と、何かが割れる音がして、純の後ろで黒色が散った――


「……や、った?」

 レオンが呆然と呟いた。ぴょこぴょこと跳ねて寄ってきたいぬを抱き抱えながら、はあぁ、と深く息を吐いて脱力したように尻餅をつく。

「……やった、だろ、これは……!」

 アカザが歓喜を堪えきれない様子で声を振り絞る。

 純もまた、刀を下ろして、振り向いた。黒が居た場所には最早何も無く、三人を捕らえていた檻も消え、穏やかな風が吹くのみである。

 ――勝った。

 純もまた、自覚をする。もう重苦しい邪気も害意も感じられない。

 勝ったのだ。あの恐ろしい化け物に。達成感と、安堵と、色んな感情がごたまぜになって、上手く言い表せないけれど。

 

 しかし、勝利を喜ぶよりも先に、何故だか瞼が酷く重くなって、


「……ジュン!?」

「ジュンちゃん!?」


 刀の質量が掌から消えるとともに、膝から崩れ落ちた。

 暗くなる視界で、何故か、ここにはいないはずのハザマが見える。笑っている。


 確かに笑っているのに、何故だか一瞬、泣いているように見えた。



 風が純の頬を撫で、目を開く。見渡す限りの草原の上に立っていた。

 おかしい、さっきまで赤の森から出たばかりの場所だったはずだ。確かにそこも草原の一種ではあるが、背後には森が広がっている筈で、こんな四方八方草ばかりの見通しのいい場所ではない。そこまで考えて、自分の意識が何だかぼんやりとしているようだと気付いた。もしかしたらこれは夢なのかもしれない、と、そう思った時。

 子供の声が聞こえて、そちらに目を向けた。

 そこには三人の――年の頃は、純と同じくらいだろうか――少年が二人と、少女が一人、仲睦まじくじゃれているようだった。

 少年のうち一人と、少女の顔はよく見えない。唯一視認できる少年は、灰色の髪と、切れ長の赤い瞳、そして、よく見覚えのある面影を持っている。

 だから気付けた。これは夢じゃない、記憶だ、と。

 ハザマの――或いは、ハザマの刀が持つ、記憶を今私は見ているんだ。

 きっとこれは、自分が見ていいものじゃない。それは純にもわかっている、だけど目を離せない。

 ――少女が、幼いハザマに抱き着く。ハザマは鬱陶しそうにべしりと頭を軽く叩く。少年がそんなじゃれあいを見て、笑った、気がする。


 平和な光景だった。きっとこういうものを、人は幸せと呼ぶのだろう。

 それがわかるからこそ、純は、自分が泣いている理由がわからなかった。


 足元が崩れ落ちて、純の意識はまた闇に沈んだ。



「壊れた」

 ぽつりと男が呟いた。嗄れたその声は暗闇に響いて、消える。

「壊したのは?」

 もう一つ、若い、というよりは幼い、声が響く。その声は、余りにも――似ている、というには足りないほどに――レオンの声音と同じだった。

「……山田純、だろうな、最後は」

「ジュン!」

 嗄れた声の返答に、少年の声は弾む。

「ああ、良かった! あの出来損ないじゃなくて! ジュンなら納得です、あの程度壊せなくては、お父様の期待に応えられない!」

 機嫌の良い少年の声に、喧しそうに男は顔を顰めたが、特に何かを言うことはなく口を閉ざした。少年の方は相変わらず機嫌良く笑ったまま、ねえねえ、と男の座る椅子に撓垂れ掛かり、甘えるような声を出す。

「オレはいつ使って下さいますか? お父様。早くジュンに会ってみたいんです」

 お父様、と呼ばれた男は、不機嫌に顔を顰めたまま少年から顔を背けた。

「まだ早い」

 短い拒絶だった。

 少年は少し不満げだったが、はぁい、と素直に引き下がる。そして軽い動作で椅子から離れ、少し歩いて、芝居がかった仕草で男の方へ振り向き、礼をした。

「オレの力が使えるなら、何時でもお呼びくださいお父様。オレは一番お父様のお役にたってみせますよ! だってオレは、お父様を愛していますから!」

 そう言って、少年は軽快に駆ける。男の、得体の知れないものを見るような顔を視認しないまま、その暗い部屋を出た。

 廊下を通り、窓から差し込む太陽の光をその翠の癖のある髪に浴びながら、少年はその、垂れ目の可愛らしい顔を、禍々しい笑みに歪める。


「早く会いたいなぁ、ジュン」


 本来白目である部分は黒く、瞳は金色。

 彼が、レオン・アルフロッジと違うところは、その目の色と服装、そして表情の邪気、のみであった。

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