第三章:赤の森
第六話:赤の森
目覚めてまず目に入ったのは真っ白な天井である。暖かな日が差し込む窓の外から、小鳥の囀りが聞こえていた。
「……朝か」
精神世界で過ごした時間のためか寝た気がしないが、体はしっかりと休眠を取った状態であるようで、寝起きの気怠さはあるもののそれなりに軽く感じる。
しかし体は軽くても、頭はどうも、ハザマの言っていたことが重くのしかかる。意味が、掴めるようで、掴めない。それが妙に、純の頭にのしかかってしまう。
――でもまあ、また精神世界には行けるだろうし、と、そう心の中で呟いて、純は思考を無理矢理打ち切ることにする。
もぞもぞと布団から這い出て、一つ伸びをした。
第六話:赤の森
「ジュン、お早う! よく眠れた?」
リビングに向かうと既にレオンは起きていて、朝食の用意をしているようだった。
「お早う。うん、それなりに……手伝うよ、レオン」
「それならよかった。あ、じゃあサラダお願いしていい? トマトとレタス、冷蔵庫に入ってるから」
「わかった」
言われるままに冷蔵庫に向かい、扉を開けて中を確認する。野菜室には他の野菜類や果物と共にレタスとトマトが用意されていた。
――冷蔵庫は純のよく知る電気式のそれではない。見た目こそ純のよく知る形ではあるが、この世界の冷蔵庫の冷気の源は、内部の奥に埋め込まれたアクアマリンである。つくづくこの世界の宝石は便利だな、と純は密かに溜息をつきながら、トマトとレタスを適当に取り出して、まな板に並べた。
共に朝食を作り終えた後は食卓を囲む。今日のメニューはスクランブルエッグにソーセージとレタスとトマトのサラダ、こんがり焼いてバターを塗ったトーストであった。
外のチャイムが鳴ったのは、丁度二人が食べ終わった頃合である。
「アカザかな? オレは食器片付けるから、ジュンは玄関頼んでいい?」
「勿論」
立ち上がって玄関に向かう。古めかしい木製の扉の鍵を開けると、ギギッと軋んだ音と共に扉が開いた。
「オハヨ、今日も可愛いなジュンちゃん!」
扉を開いたアカザがにかりと笑う。
開口一発でサラリと口説かれて、純はやはり反応に困った。昨日のやりとりで既に分かっていたが、アカザはかなり慣れているのだろう。ナンパ――もとい、女性を褒めることに。
対する純は(恋人なる者は居るとはいえ)ナンパなどには縁のない生活を送ってきたために気の利いた返事などは思いつかない。しばし返事に困ったのち、やはり気の利いた言葉などは思いつかなくて、結局「おはよう」とだけ返した。
「ジュンちゃんクールだなぁ」
「いやぁ……。アカザ、荷物は?」
どう返せばいいのかわからないだけだとは言えず、純は代わりに疑問を投げる。けらけらと笑いながら玄関に上がるアカザは手ぶらだった。家はレオンのものがあるからいいだろうが、荷物は必要なはずだが――
――と言いつつも、純とてもう半分くらい予想はしている。
「ん? ああ、シトリンの中に入れてるよ」
「……やっぱり宝石か……」
家を入れるものだけじゃなくて荷物を入れられるものもあるらしい、と、純は脳内の宝石図鑑に書き加えておいた。アカザはといえばからりと笑って、肩を竦める。
「家は借家だったから持ってきてねぇけどな。レオンち広いし、一人くらい増えても問題ねぇだろ」
「一人どころかアカザ含めてもあと三人くらいはいけそうだよね」
アカザの声に返事を返したのはリビングの扉から廊下にいるジュン達を覗いたレオンだった。なんとなく、微妙な顔をしている。
「……アカザさぁ、ほんとにいいの? あてもないんだよ? 下手したら世界中まわることになるよ? 帰ったり、なかなかできないし……」
「んだよ、お前まだ言ってんの」
レオンの言葉に、アカザが呆れたと言わんばかりに肩を下げた。多数決で決まったろ、と言いながら歩み寄ってべしりとレオンの額を叩く。
「俺が決めたんだよ。お前にぐだぐだ言われる筋合いもなければ、お前が責任持つ必要もねぇ」
「……うん」
まだ完全に納得したわけではないようだったが、それでもレオンは少し笑って頷いた。
*
――赤の森。
それはカントから二時間ほど歩いた先に広がる、鬱蒼とした森である。カントやトアロ村がある区域――ファズト区と呼ばれているらしい――はぐるりとこの森にドーナツ状に囲まれており、この森を通る交通機関は無いため、区域から出てアークハット村や首都パルオーロに行くためには徒歩で森を抜けなければならない。実は、結構な田舎かつ、隔絶された区域なのである――とは、道中でレオンとアカザに聞かされたことだ。
その森は、今まさに、純達の目の前に広がっていた。
「……いよいよだなぁ……」
レオンが己の腕を擦りながら不安げな瞳で森を見上げる。それを、からかうようにアカザが笑った。
「なんだよビビッてんのか~? レオン」
「う、うるさいな!」
アカザに反発するレオンだが、ビビっていることは純にも察せてしまうほどわかりやすかった。体は小刻みに震え、足などは産まれたばかりの小鹿のようで、目尻には涙さえ溜まっている。
ちなみに、レオンの頭の上に乗っているいぬは、下から伝わってくるレオンの振動を楽しんでいるようだ。一緒に震えながら尻尾を振っていた。怯えているというのに慰められるどころかからかわれ遊ばれるレオンは流石に不憫で、純は少々同情を覚える。
「えっと……それにしても、赤の森なんて変わった名前だね。この森、見渡す限り緑で赤い要素なんて何処にもないのに」
見兼ねて、話題を変えてレオンの気を逸らそうと純は口を開いた。その声を聞き、レオンは……ギギギ、と油の足りない機械のようにぎこちなく振り向いて、怯えに満ちた目を向ける。
「……森に生息する凶暴な魔物が、森に迷い込んだ人の血で森の木々を赤く染める。それが、この森の名前の由来なんだよ」
全然話題が変わっていなかった。
内心で謝りつつ、純はわずかに驚愕した。そんなに恐ろしい森だったのか、そんな森に囲まれているのか――と。同時に、魔物は原則的には生息地から移動しないらしいとはいえカントの住人はそんな森に囲まれて平穏に暮らせるのだろうか、と純は首を傾げる。しかし見たところは、カントは実に平穏な町に見えた。
「赤の森なんて脅し文句だって。子供が勝手に遠出しちまわないように、さ。そりゃーちっさい子供は危ないだろうけど、俺達なら平気だろ! 凶暴な魔物って言ったって魔物なんか全部凶暴だし、この森にいるのは殆どがEクラスだし」
アカザがそう言って、レオンの振動で遊んでいるいぬに「なぁ」と声をかける。いぬは分かっているのかいないのか、「ぎゃぴ」と相変わらず可愛くはない鳴き声を上げて尻尾を振った。
Eクラス。つまり、キラーラビットのような強さの魔物ばかりだということである。成程、それなら平気かもしれない、と純は認識を改めた。弱点である刻印の場所さえ分かっていれば、倒すのは容易い。アカザの実力はまだ未知数だが、今までの様子から、大口を叩いて出来ないことに虚勢を張るようなタイプではないだろうとは分かる。ということは、魔物との戦いに一定の自信があるようだ。そもそも、トアロ村に引きこもっていたレオンに、カントから食料等を届けていたのはアカザだったということを前に言っていた気がした。あの、魔物の出る道中を通っていたということだ。
「……まあ、それなら大丈夫じゃないかな、レオン」
未だに震えているレオンに声をかける。
「それに、いざとなったら私が守るからさ」
「……ジュンは男前だなぁ……」
レオンはへなりとした笑顔を浮かべた。相変わらず頼りないそれだったが、震えは止まったようであった。
「ま、さっさと行こうぜ? ここでウダウダしてたら日が暮れちまう」
アカザが先を歩き出す。
しかし、そのまま森の中に入るかと思いきや、森の前で立ち止まって何かを探すように目の前の木々を見比べ始めた。
「どうしたの、アカザ」
「まあ待ってくれジュンちゃん……あ、あったあった、これだ」
目当てのものを見つけたらしい。それはどうやら一本の木のようで――しかし、他の木と違うのは、その太い幹に赤い矢印が刻まれていることである。
しかし、それが何なのかを聞く間もなくアカザはさっさと先に森へと進んでしまう。見失ってしまわないよう、慌てて純とレオンはその背を追った。
三人が足を踏み入れた森は、頭上に生い茂る木々が太陽光を遮り、まるで月のない夜のように暗かった。暗すぎて、足元も覚束無い。いくら木々が茂っているとはいえ、ここまで暗くなるものかと不思議に思うくらいであった。
今の季節は春であるらしいが、それには似つかわしくない大量の枯れた落ち葉が、純達が踏み歩く度にガサガサと音を立てる。まるで秋か冬のようで、だがそれは決して穏やかな風情あるものではなく、寂しさと不気味さを呼び立てた。
「ここに矢印が刻まれてるだろ」
先導するアカザが一本の木に、ひとつ立てた人差し指を当てる。その指し示された先には、確かに、ナイフで刻まれたような無骨な矢印が彫られていた。森の前で、アカザが探していた木にあった矢印と同じ、赤色である。刻んだ後にペイントしたのだろう。ただし、時間とともに劣化したようなくすんだ赤だった。
よく見ると、同様の矢印――向きは逆で、色は青色であるが――が、もう一本その赤い矢印の下に刻まれていた。
「赤の森には整備された道が無いんだ。だから、この森を通る奴が迷わないように目印がある。森の内側……つまり、ファズト区域な。そっちに行くためには青い矢印の方を辿って、外側に行くためには赤い矢印の方を辿るんだ」
つまり入る前に探していたのは最初の矢印だったのか、と、純は一人納得する。
「よく知ってるね、アカザ」
「まあ、俺は外側から来たからな」
そういえばリディア村の出身だとか言っていたような、そう記憶を辿った。リディア村、という場所がどんな場所なのか、何処にあるのかは不明だが、少なくともファズト区域ではないようだ。
「ガキの頃……五歳くらいだったっけか、カントに来た時に親父に教えてもらったんだ。そういえばその頃にレオンに初めて会ったんだったな」
それを聞いて、ふと、純に疑問が生じた。
「……そういえば、聞いていいのかわからないけど……お父さんやお母さんは?」
「ん? リディアにいるぜ?」
「……そ、そっかぁ」
あっさりと答えられて純の肩の力が抜ける。安堵混じりの脱力というべきか――カントで、どうやら一人暮らしをしていたらしいアカザの両親は何処にいるのか謎だったのだが、危惧していたような重たい話は無かったようだった。
純の心境を察したのか、アカザはからりと笑う。
「俺は五歳の時、つまり十年前だな。そん時にカントに移住してきたんだよ。ほんとは、二年前……親父とお袋がリディアに帰るってなった時に一緒に帰る予定だったんだけどさ、俺だけ残ったんだよな。親父達説得してさ」
「……三年前、じいちゃんが死んじゃって。その頃からアカザが食料だとか衣類だとか、生活必需品を持ってきてくれるようになったんだよね」
いぬを頭に乗せ続けるのは首が痛くなったのか、今は腕に抱えているレオンが付け加えた。なんとなく、照れ臭そうな、何とも言えない顔で、言葉を選ぶようにあーとかうーとか言っている。
「……だから、オレ、一応アカザには感謝して、」
「あー、そういうの痒いからやめろよ」
「なっ」
言いかけた言葉をバッサリと切り捨てられてレオンは顔を真っ赤に染める。アカザも照れ臭いのだろうと、第三者である純にはそれがわかったが、切り捨てられた側であるレオンとしては振り絞った勇気を空振りさせられた気分であったのだろう。
「何だよこの、バッ――」
羞恥八割、怒り二割といったように赤く染めた顔のまま叫ぼうとした、その時である。
《キャイィイイィィイ!!!!》
甲高い、音。
それが森に反射して、響いて、純達の耳を劈く。生き物の鳴き声なのだろうが、声というよりは音波に近い、そう感じてしまうほどの高さだ。きぃん、と、脳が揺れるような錯覚さえ覚える。耳を抑えるが、ぐらぐらと揺れる視界は戻らない。
「――っ、ウェーブバットの群れか!」
真っ先に、そう声を上げたのはアカザだった。両手を素早く、片方は己の耳朶のピアスに、片方は己のズボンのポケットに突っ込んで、耳朶のピアスから弓を出すと同時に、ポケットの中で何やら握り締めたものを純とレオンに放り投げる。
投げられたものを受け取って見やると、それはどうやら耳栓であった。普通のものではないのか、ぼんやりと光を放つ緑の紋が刻まれている。受け取ったことを確認し、アカザが指示を出そうとしたのか、口を開いた。
《キィヤァアアアァアアア!!!!》
しかし、その声は再び鳴り響いた高い声に邪魔される。アカザが顔を顰めて、口で指示を飛ばす代わりに自身の耳を指差した。
つけろ、ということだろう。その指示に従って耳栓を両耳に嵌め込むと、確かにあの甲高い声は聞こえるのだが、頭が揺れて視界がぶれることはなくなった。
「つけたな! よし、一旦移動すんぞ、ここじゃ袋の鼠だ!」
アカザが先導して走る。それを見失わないように、二人も走り出した。
足を止めたのは、やはり森の中ではあるが木が疎らになり太陽光が差した、森の『穴』とも呼べる、開けた場所であった。
「よし、一旦落ち着けるな。此処ならウェーブバットが来てもよく見えるだろ」
「アカザ、あれは……」
「おっとジュンちゃん、耳栓は外さなくていいぜ。声聞こえるだろ?」
「う、うん」
止められて、外そうとした腕を下ろす。隣で、レオンが息を吐いていぬを抱え直した。
「……アカザ、こんな魔道具いつの間に用意してたの?」
「備えだよ、備え」
魔道具。
耳栓をつけているのに会話ができ、それでいてあの甲高い音の影響をシャットアウトしてくれる――この時点で、これが普通の耳栓でないことは明白であったが、改めて言われるとなんとも不思議な感じだった。特に、そんなものは物語の中でしか知らない純にとっては。
レオンが純に向き直って、首を傾げる。
「えーっと、七属性の話はしたよね?」
「うん。『炎』『水』『草』『雷』『土』『光』『闇』のことだよね? 魔術の……」
「そう。それで、それには相性があるんだよ。炎は草に強くて、草は土に強くて、土は雷に強くて、雷は水に強くて、水は炎に強い。光と闇はお互いに相殺し合う。そういう関係なんだ……えーと、
「有利属性は不利属性を打ち消しちまうんだよ」
レオンの説明に、アカザが補足を入れた。そして彼は純を――正確には、純の耳に嵌め込まれた耳栓を指差す。
「ウェーブバットは土属性の魔物でな、Eランクだけど、甲高い声に混じった音波が厄介なんだ。脳に作用して、直接ダメージを与えてくる。長時間まともに聞いてちゃ頭がおかしくなっちまうんだ。けど、土属性だから、草属性の人間には効かねぇし、草属性の魔道具で遮断もできる」
成程。納得して、純は未だにアカザが耳栓をつけていないことに気付く。
「じゃあ、アカザが耳栓してなくても平気なのは……」
「俺が風属性だからだ!」
「……ん? 風?」
草ではなく? と純は首を傾げた。属性は七つだと、レオンから聞いたはずだ。
「あ、複合属性のこと説明してなかったね」
純が思考を停止させたのを見て、レオンがそういえばというように手を叩いた。
「複合属性?」
「そう。アカザはね、草と水の適性を持ってるんだ。そういう風に複数属性があると、それぞれの魔術を、
まあ肉体の性質としては複数の属性があるから、契約できない魔導書も単属性の人より増えちゃうんだけどね、とレオンが苦笑する。
成程、何事も一長一短というやつなのだろう。そう純は納得することにした。同時に、魔術や魔力というものは意外と奥が深いと認識を改める。
「でもあんな魔物が出るなら、最初から耳栓を渡しておいてくれれば良かったのに」
そう零した純に、アカザがぐっと口を噤んだ。そして、言いづらそうに頬をかく。
「……普通は出ないんだよ」
「え?」
「ウェーブバットは夜行性だ。真夜中に、夜の闇と木々の影に隠れて獲物を殺す。いくらこの森が薄暗いからって、今は昼にもなってない。まだ、動き回る時間じゃないはずなんだ。
……いや、」
少し考えるような素振りで、アカザは上空を見上げた。今は木々が疎らになった場所にいるとはいえ、少し視線を横に向ければ鬱蒼と茂っており、森の中は闇に包まれている。
「……この森、こんなに暗かったか……?」
その呟くような言葉に、純も森を見上げる。純は今日この森を初めて見る。だから、以前と比べてどうとかは分からないが、確かに、言われてみれば、いくら鬱蒼とした木々に太陽光が遮られているとはいえ、この暗さは異常であった。夜のような――と言うよりは、もっと即物的に、黒に包まれているような、闇。それが、木々が茂っている森の中には広がっているのである。三人が今いる場所は開けているため、太陽光に照らされて明るいが、それはここだけなのだろう。
むしろ、森の中は入った時より暗くなっている気さえする――そう純が感じたのは、この森の不気味さ故の、錯覚だろうか。時刻は昼に近づいていく方に進み、どちらかと言えば明るくなっていくはずであるのだが。
「……まあ考えても仕方ねぇ。ウェーブバット達は、俺達を獲物と見定めたはずだ。光が苦手だからここには来ないが……ここから出たら襲ってくるだろうな。けど、この森を抜ける為には、ここにいつまでもは居られない。
ウェーブバットが動き回ってる時は他の魔物は身を潜めてるんだ、音波にやられたくないから……それだけが救いだな」
「ど、どうするの? 木を切り倒していくわけにもいかないし」
レオンが不安げにアカザを見て、純を見る。アカザが「それを今考えてんだろ」と一蹴して、イラついたように頭を掻き毟る。
純はといえば――
「……バット、ってことは、蝙蝠だよね」
ふと、口を開く。その言葉に、レオンとアカザが振り向いた。
「まあ、そうだな」
「蝙蝠ってことは、空を飛んで、上からくるんだよね」
「そうだよ?」
「ウェーブバットって、大きい?」
「いや、普通の蝙蝠並じゃねぇか? それより少し小さいくらいかもしれねぇ」
「……OK。なら、さ」
――考えがあるんだ。そう、純はどこか悪戯を思いついた子供のように、言った。
乾いた音が鳴る。
落ち葉が踏みつけられた音だった。
ザザザッと、音を鳴らして純は真っ直ぐに走る。迷いなく、落ち葉を踏み荒らして。当然、その音が何なのかは敵にもよく伝わった。純の居場所も含めて。
《キィアアアァアアァァア!!!!》
甲高い声。耳栓のお陰で、煩いだけの音である。そんな音と共に、大群が羽ばたく音が森に鳴った。
日本刀を携えて走る純の前に、それはやってくる。暗くて、姿はほとんど視認できない。ただ、黒の影が、それが大群であること、そして、空中を羽ばたいていることを示してくれる。
それで十分だった。
純が日本刀を振り上げて、叫ぶ。
「――今だ!!」
純が日本刀を地面に突き刺すとほぼ同時であった。
――純の背後から、黒の疾風が巻き起こり、青緑の気流を纏った矢が襲いかかったのは。
先導した黒が純の背後に渦巻いた。後に続いた矢は、黒の渦に弾かれて、木屑となって散らばる。しかしそれが纏っていた青緑の気流は、その黒の渦に弾かれて分かれるものの――しかし勢いを失わず、それは放たれた向きのまま、純の上空と左右をすり抜けて、前方へと飛び込んでいく。
即ち。
ウェーブバットの大群が、無防備に飛んでいるその中へと、突風と呼ぶべき気流が飛び込んだのである。
《ギャアアアアァアアァァアアア!!!!》
黒の疾風――レオンの『
《アアァアァァアア――――……》
甲高い声――これは悲鳴と呼ぶべきか――は、小さくなっていく。吹き飛ばされて遠くなった、というよりは、声の主が掻き消されていくような消え方だ。弱点属性を突かれて、体が耐えきれなかったのかもしれない。体が砕ければ、当然、刻印も無事では済むまい。
風が止むと同時に、訪れたのは静寂だった。突風は大地の落ち葉や、木々に生えた草木も吹き飛ばしたらしい。上から差し込む木漏れ日が大地を照らして、落ち葉の下にあったのであろう緑が見えた。ふう、と一つ息を吐いて、純は日本刀を引っ張る。少し深く差し込みすぎたのか、なかなか抜けなくて手間取った。
「ジュン、無事!?」
「怪我ねぇか、ジュンちゃん!」
後ろから二人が駆け寄ってくるのが聞こえて、振り返る。
「大丈夫大丈夫。言ったでしょ、上手くいくって」
「ほんとに上手くいったから良かったけど……ジュン、とんでもないこと言うよなぁ……」
「私は囮になっただけ。上手くいかせたのはレオンとアカザだし、二人なら上手くいくって信じてた。それだけだよ」
からりと笑った純に、はああと溜息をついてレオンが肩を落とす。
純が思いついた作戦はこうだ。
ウェーブバットは形自体はただの蝙蝠だ。翼を羽ばたかせ、上空から飛んでくる。それらを一網打尽にするには、できるだけ一箇所に纏めたかった。そのための、囮となるのが純自身である。
小さな、空を飛ぶための体は、その分だけ軽くなる。ならば、強い風には耐えられないはずだ。上空でそれをモロに喰らえば、吹き飛ばされるはず。特に、それが弱点属性であれば、効果は絶大だった。
勿論、その風をモロに喰らえば一溜りもないのは純とて同じである。だから、攻撃を引き起こしたアカザの矢とは属性は違うものの、同じ風というもので、純の盾を作った――それがレオンの魔術であったのだ。
――作戦、と呼ぶには、少々粗雑で、単純である。だが、大した知能もないEクラスの魔物を倒すには十分であった。
「お見逸れしたね。ジュンちゃん、思ってたより男前だわ」
ハハッと笑って、アカザが弓を持ち直す。
「行こうぜ。ウェーブバットは暫く出てこないだろうが、その分他の魔物は出てくるかもしんねぇ。早くこの森を抜けちまおう」
レオンと純とで目を合わせて、アカザとともに頷いた。
ウェーブバットさえ何とかしてしまえば、楽なものである。
出てくるのはキラーラビットやスライムばかりで、昨日は大変な目に遭わされたキラーラビットも、先に声を出せなくすれば恐るに足らない。
魔術を唱えて、矢印を追って、切って、矢印を追って、弓を射って、矢印を追って――そんなことをしていたら、やがて木々の数が減っていき、反比例して、明るい太陽光が照らす面積が増えていく。木々の隙間から覗く太陽は真上にあるように見える。おそらく、正午か、少し過ぎたほどの時間だろう。
「赤の森も終わりだねぇ」
案外拍子抜けだったなぁ、とぼやいて、レオンがひとつ伸びをした。その脇腹をつついて、アカザが笑う。
「よく言うぜ、草むらが音立てる度に震えてたくせにさ」
「うっ、うるさいなぁ!」
前を歩く二人のじゃれ合いに、純の顔に思わず笑みが漏れる。この二人の会話は何となく安心するのだ。テンポがいいというか、なんというか。
そんなことを、思って。
――ぞわり。
背筋が凍るような感覚に、笑みが凍った。
後ろを、見なければいけない気がする。さっきまで歩いてきた、赤の森。その、森の前に、そこに、何かがいる気がする。その何かに、無防備に、背中を向けていてはいけない気がする。
突然足を止めた純に気付いたレオンとアカザが振り向いた。
「ジュン?」
「どした、ジュンちゃん」
言葉を返さなければ。そう思って口を開くのに、乾いた喉は音を発してくれない。足に、何かがまとわりついている感覚がある。確認したいのに、下を見れない。何かがあるのなら、純を見るレオンとアカザがそれが何かを教えてくれるはずだ。彼等は不思議そうに、こちらを見るだけである。それならば、きっと何も無いのだろう。下を見ることに、何の問題もないはずだ。なのに、見れない。見るのが怖い。
――怖い?
気付いて、純は驚愕した。そんな感情は、この世界に来て初めてだ。キラーラビットと初めて戦う時だって、さっき、ウェーブバットが目の前に襲いかかってきた時だって、怖くはなかったのに。
――動かないと。二人に近付かないと。大丈夫、何も無いんだから、何も、怖いことは無いんだから。
そう、言い聞かせて、足を動かして。
ぐん、を、通り越して。
ぐあん、と。今まで味わったこともないほどに強い力で、足を引っ張られた。
「――っが、」
悲鳴とも、呻きともつかない声が漏れた。
レオンとアカザが名前を呼んでいる。きっと切羽詰まった声だ。叫んでいるのだ。それが、何故か、遠い。
足を引っ張られて、投げ出された。赤の森の中には入れられていない。森の、前の、草の上。仰向けに倒されて、見えるのは、青い空ではない。
“――アイタカッタヨ。”
黒い、影のようだった。
幽霊のようでもあり、怪人のようでもあった。
純に覆い被さって、純の片足を掴んで、『其れ』は笑う。
“――ジュン”
黒い、人でいえば顔にあたるその球体に開いた、二つの空洞が。その下に歪んだ、下弦の月が。
確かに純を捉えて、ワラった。
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