第一篇:リシュール王国

第一章:トアロ村

第一話:翠髪の少年

第一話:翠髪の少年



「……ぇ、……ねぇ!」

 声が聞こえる。そう、純のぼんやりとした頭が知覚する。あまり低くない、少年の声だった。

「ねぇ! 起きてよ!」

 ――少年? あの部屋に少年は居たっけ? 少年って、誰?

 その思考に至った時、ぼやけた頭は一気に覚醒した。そして、純はがばりと勢いよく起き上がる。

 彼女が目を覚ましてまず視界に入ったのは、それこそ跳ね起きた自分を見てぱっと顔を綻ばせた綺麗な翠の髪の少年だった。

「あ、良かった、起きたんだね! どこか痛いところとかない?」

「……ぁ、え? あ、はい大丈夫、です……?」

「聞かれても」

「ですよねー……」

 辺りを見渡せばやはりあの書庫だった。

 夢じゃなかった。そう確信して、純は記憶を手繰り寄せる。自分は異世界トリップを体験してしまったのではないか――その思考に至ってから、記憶は途切れていた。そのことから、己は現実逃避に失神したのだろうと理解して、項垂れる。異世界トリップも失神も、純には初めての――決して嬉しくはない――経験であった。

 そんな純の内心も知らない少年は「思ったより元気そうでよかった」と言って安心したようにふにゃりと笑う。

 歳は、大体同じくらいだろうか。気を取り直して少年を見直した純はそう推測した。癖のある翠の髪の天辺にアホ毛がぴょんと立って、垂れ目がちな瞳は青色という、明らかに日本人ではない見た目。明らかに日本人ではないのだが、話している言葉は日本語しか聞き取れない筈の自身が聞き取れる言語である。この世界の言葉は日本語なのだろうか。そう、いまだ現実を受け入れきれてはいない脳味噌で考えた。

 ……多分そんな筈ないし、トリップの特典か何かかな。わー便利。そう、空笑いをしたい気持ちを堪えて純は脳内で荒む。純はすっかり疲れ切っていた。

 そんな純の様子を大して気にした様子もなく少年は笑う。優しそうな、しかし少し気の弱そうな笑みだった。

「びっくりしたよ、物音がしたからびくびくしながら書庫を見てみたら女の子が倒れてるんだもん」

「それは驚かせてすみませんでした……ん? ここ、貴方の家……?」

「うん、そうだよ?」

 事もなげに少年は頷く。が、純にとっては衝撃的事実であった。

 ――人の家の書庫に、不本意とはいえ無断で入ってしまった。これは、紛うことなき不法侵入じゃあないか? 不本意とはいえ。不本意とはいえ!

 そこまで考えて血の気が引く。がばりと勢いよく身を起こし、純は素早く正座を作って頭を勢いよく下ろした。即ち、土下座である。

「ごめんなさい!! 不本意なんです勝手に入る気は無かったんです通報しないで下さい!!」

「通報? なんで? 家に入るなんて普通のことじゃん。オレはされたことなかったけど」

 異世界では不法侵入は普通のことらしかった。土下座体勢のまま微妙な顔をする純に、少年は朗らかに笑う。

「でもお城に勝手に入ったら怒られるから気を付けてね」

「頼まれてもやりません……」


「そういえば、君の名前は? それから、なんであんな場所で倒れてたの? 服装も変わってるし……」

「あー……」

 落ち着いたところで、とばかりに少年が問いかける。まあ聞かれますよね、とは思いつつも純は返答に困った。

 『異世界から来ました』と言って誰が信じるだろうか。下手したら精神病院に連れていかれそうだと、嫌な想像は無駄に膨らむ。しかし、手頃な嘘をつけるほど純は小賢しい性格ではなかった。端的にいえば、馬鹿正直。

 ――もういい、どうにでもなれ、だ。

 そう、腹をくくる。純はすっかり疲れ切って、余計なことを考える思考回路は残っていなかった。正座を整えなおして、少年の目をまっすぐに見る。

「……私は山田純、と、いいます。信じられないだろうけど、こことは違う世界から来ました。……多分」

「ヤマダ・ジュン? ヤマダなんて変わった名前だね」

「いやジュンの方が名前……違う! 気になるのはそこ!?」

 純としては一世一代の告白だったものを華麗にスルーされてしまい、なんだか滑った新米芸人になったようないたたまれなさを味わう。腹をくくった分の肩透かしもあって、思わず純は空を仰いだ。信じてもらえないと困るは困るが、あっさり受け入れられても反応に困る、と微妙な心境に陥る。

 少年はそんな純を、真剣な顔で、じっと見ていた。その視線に、空を仰いでいた純は気付かない。

 純が姿勢を戻して少年を見た時には、彼は表情を崩しにっこりと笑っていた。

 ――どこか安堵したような笑みだった。

「異世界から来たなんてすごいね、オレ異世界の人なんて初めて会ったよ」

「……信じてくれるの?」

「ジュン、嘘ついてるようには見えないからね」

 いつまでもここに座って話すのもなんだし、リビング行こうか。そう言って、少年が立ち上がった。

「オレの名前はレオン。レオン・アルフロッジ。よろしくね、ジュン」

 彼は笑って座り込んだままの純に手を差し伸べる。

「……よろしく」

 ――案外、なんとかなるかも、しれない。そんな予感と、安堵と共に、純はレオンの手を取って立ち上がった。



「穴から落ちてこの世界に? 大変だったね」

「まあね……」

 正確には穴ではなくマンホールなのだが、マンホールと言って通じなかったので穴ということにしておいた。どうやらこの世界にマンホールはないらしいと、純は溜息をつく。

 いつまでも書庫では何だから、と案内されたのは一階の――書庫は二階であった――リビングである。窓のカーテンは全て閉まっていて外の様子は分からないが、外からの光が無いことと、ローマ数字表記の時計の針が七の文字を指していることから恐らくは夜の七時なのだろう、と予測することは容易かった。ファンタジーの本を思わせるアンティーク風の内装は日本人である純には珍しく、暫しそわそわしていたが、レオンに出された紅茶のおかげか落ち着くのに時間はかからなかった。

 簡素だがしっかりした作りの、四人か、詰めれば五人はかけられそうなダイニングテーブルセットに向かい合って座る。レオンが、それにしても、と口を開いた。

「落ちたのがここの書庫でまだ良かったよ。道端だったら危なかったからね」

「あー……えっと、この辺りって治安悪いの?」

「いや、ここの辺りだけじゃなくて道には魔物が出るから」

 魔物。

 当然のように出てきた単語に一瞬純の思考がフリーズした。普通にこう不審者とか、時代錯誤だがせめて山賊くらいかと思っていたら予想の斜め上をいく返答であった。

「魔物……居るんだ、この世界……」

「純の世界には居ないの?」

 きょとんとして聞いてくるレオンに何とか頷く。ファンタジー小説のような部屋だと思っていたがまさか本当にファンタジーのような世界だとは。そういえばレオンの服もファンタジーちっくだな、と改めて純はレオンを見る。緑を基調とした落ち着いた色合いの服の肩のあたりに赤い宝石のような物が埋め込まれているその格好は、今時コスプレ衣装でなければ見かけない。同時に、純の脳裏に嫌な予感がよぎった。

「えーと……もしかして魔法とかもあったりするの?」

「魔法……魔術のこと? あるよ」

 恐る恐る、その嫌な予感について聞くと、当たり前のように即答される。

 ――ビンゴだ。もうここはまごうことなくファンタジー世界だ。

 撃沈するように机に突っ伏した純に、「大丈夫?」とレオンが心配そうに声をかけた。

「……えーと、レオン」

「ん?」

「……ここ、本当、私の居た世界とは丸っきり違うみたいだから……差し支えなければ説明してほしいな、常識とか地理とか……魔物とか魔術とか」

 とりあえず今すぐ元の世界に帰れるような手掛かりもないならば、この世界のことを知らなければ何かと不便だ――そう、迷惑を承知で頼んだが、彼は嫌そうな顔もせず快く引き受けてくれた。



「えーと、まず地理からかな?」

 レオンが書庫から持ってきた地図帳を机の上に開いて、改めて向かい合う。純が書庫で見た、地名以外は見慣れた世界地図である。

「ジュンは文字は読める? というかそういえば会話も普通にできるね。言語は一緒なのかな……オレが今喋ってるのは、というかこの世界で一般的に使われてるのはオーリス語っていうんだけど」

「文字は読めるけど……私が喋ってるのは日本語です」

 オーリス語なんてもの、純は人生で一度も聞いたことがない。レオンが思案するように首を傾げ、純を頭から足まで見下ろした。

「うーん、ジュンの周りから少しだけど魔力を感じるから……言語翻訳の魔術がかかってるのかもしれないね。ジュンが無意識にでもやってるのかなぁ」

 申し訳ないけど私には全くわからないですごめん――とは言えず、純は曖昧に笑う。秘技ジャパニーズ曖昧スマイルで大体何とかなる、とは、元の世界での教訓である。

「話を戻そうか。まあ大体地理はこの地図の通りだよ。大陸は『フロリダ大陸』『ミルドフィード大陸』『ラーフィット大陸』『リアシルド大陸』の四つなんだけど、殆どは人が住めないような未整備な森とか草原とかだよ。魔物も出るし……大きな街は王都付近にあるけど、王都から遠いような場所には村とか田舎町とかがぱらぱらある感じだね」

「王都……ってことは国があるんだね」

「うん。三つあるよ」

 ――三つ。わりと、というか大分少ないように感じるのは元いた世界が多くの国があったからだろうか。そんな感想は一旦喉の奥にしまうことにして、純はレオンの言葉を待つ。レオンは地図を手で抑え、指で一つの場所を指した。

「一つは『リシュール王国』。えーと、王都はここだね」

 そう指し示されたのは純の知識ではフランスのパリあたりである。そして、レオンの指はヨーロッパあたりをぐるりと指で囲むようになぞった。

「ここら一帯がリシュール王国の、一応領地。……っていってもリシュール人の村や街が多くあるってだけで村から離れれば魔物も出るし全部が人の住む場所、ってわけじゃないんだけどね。ちなみにオレもリシュール人だよ。リシュール人は目が青いのが特徴なんだ」

「村から離れれば……ってことは、村には魔物は来ないんだ」

「うん。村や町や王都、っていう、人が住むところには魔物は来ないよ。というか、基本的に魔物は移動しないからテリトリーに入らなければ大丈夫。……といっても、村や町を繋ぐ外の道は魔物のテリトリーの中なんだけど」

 それで、と言って、レオンが次に指さしたのはロシアのモスクワのあたりである。そのまま指はロシアに円を描く。

「ここがガイア帝国の帝都で、ここら一帯がその領地。ガイア人の村とかがこの辺にあるんだけど……うんと、オレはここから、というか家からあんまり出ないからよく知らないけど、色素が薄くて……わりと気性の荒い人たちが多いって、聞いたな……」

 ぶるりとひとつ身震いして、レオンは遠くを眺める。薄々察していたがどうやらレオンはそんなに気の大きい方ではないらしい。寧ろ、どちらかというとヘタレ気味なように純には感じられた。

 ――家から出ないってそれは引きこもりって言うんじゃない? とは思えど、口には出さないことにする。レオンにはレオンの事情があるのかもしれない。純はまだレオンを知らない。ならば、口に出すべきではないと感じたのだ。沈黙は金である。

 純の思考を知らないレオンは、次に日本列島を指さした。

「ここは、国、というかは微妙なんだけど……サイスト島って呼ばれてるんだ。閉鎖的な島だからあんまり内部のことは知られてないんだけど、独特の文化が発展してるんだって。サイスト人は黒髪黒目が特徴で……丁度、ジュンと同じだね。

大きな国はこんなものかな。後の大陸とかは大体未開の地で今探索が進んでるんだよ。遺跡とか色々あるみたい。オレのじいちゃんも若い頃はよく出かけてたって聞いたよ」

「レオンのお祖父さん?」

「うん、考古学者だったんだ! オレよりずっと勇気があって、賢くて、自慢のじいちゃんだったんだよ!」

 ――だった?

 過去形に引っ掛かりを覚える。そんな純に気が付いたらしく、先程の楽しそうな顔とは一転して、レオンが曖昧に笑った。

「うん、オレのじいちゃん、もう死んでるんだ」

「……ごめん」

「気にしないで! もう数年前の話だしさ!」

 罪悪感にしゅんとなった純に、慌ててレオンは手を振った。

 ――そう言われても気にするものは気にするのだが、レオンを困らせてもいけない、と、純は話を変えようとひとつ思っていたことを口にした。

「そういえば、ここは地図でいうとどのあたりなの? レオンがリシュール人ってことは、ここはリシュールの領地だよね」

「ああー……」

 レオンが何か思案するように唸る。そんなに答えづらい質問だっただろうか、と純が疑問に思っていると、レオンが困ったように頭を掻いた。

「地図でいうと、だいたいこの辺、だけど」

 と、言って指し示したのはフランスの西部あたりである。純には元いた世界でいうとなんという地名に値するのかはわからなかったが、それよりも、その曖昧な言い方が気になった。

「……だけど?」

「なんて言えばいいかな……ここは『トアロ村』、って、呼ばれてた村なんだけどね。うん、見た方が早いよ」

 そう言って、レオンは立ち上がりカーテンで閉ざされた窓に向かう。シャッ、と軽い音を立てて開いたカーテンの奥の景色は、夜の闇で暗くなっており部屋の明かりが反射して外の景色はよく見えない。純も立ち上がって窓を覗いた。

「……え?」

 この世界の風景を彼女が見るのは初めてだった。それでも異常であることはわかった。

 外に広がる風景は、暗くてよく見えない。だが、崩れ落ちた瓦礫、かろうじて元々は家だったと分かる程度にしか原型を留めていない廃墟――それらがちらほらと散らばっているもので、どう見てもそれは、『村』と言うには程遠い。

「トアロ村はね、地図から消された村なんだ。住んでるのもオレだけ」

「地図から消された? どうして……」

「わかんない」

 ――わからない?

 怪訝に思ってレオンを見ると、彼は自分の中指に嵌った指輪を撫で、窓の外を見る。その指輪は不思議なものだった。金色の、アンティークな彫刻がなされたリングに赤色の石が嵌っている。その石は光の加減で緑にも青にも見えた。

「……200年前、この世界で起こった出来事のことは、『空白の歴史』って呼ばれてる。その名の通り、空白――200年前付近の出来事が、歴史の記述からすっぽり抜けてるんだ」

 この世界には魔物が出る、って言ったよね? そう聞いてくるレオンに、純は黙って頷いた。

「魔物、っていうのは、普通の動物とは違うんだ。まず、感情がない。生殖機能もない。人間や動物――つまり、生命体を主に襲って、殺すんだけど、それを捕食することもない。学者の人とかは、『魔物は生物ではなく生物を殺すための機械だ』って言う人もいるくらい。

そして、そんな魔物は初めからこの世界にいる訳じゃない。200年前、『空白の歴史』以降に現れた」

 もう一度、レオンは指輪を撫でる。懐かしむような手付きだった。

「……オレのじいちゃん、考古学者だったって言ったでしょ? じいちゃんも『空白の歴史』について研究してた一人だった。この指輪はじいちゃんが遺してくれたんだ。なんでも、『空白の歴史』の手掛かりなんだって」

 でも、とレオンは口篭る。

「……じいちゃんは、『空白の歴史』を解明する前に、死んじゃった。病気とか寿命とかじゃなくて昔負った傷に残された呪いのせいで。

オレは、じいちゃんが解明できなかった『空白の歴史』を、解明することが、孫の役目なんじゃないか、って思ってた。指輪や、じいちゃんの研究資料が遺されたのも、そういう事なんじゃないかって……オレね、広い世界を旅して、いつか『空白の歴史』を解明するのが夢だったんだ」

 レオンが純に向き直り、こんな話してごめんね、と笑った。寂しげな笑みだった。

「夢、だった……って、今はそうじゃないの?」

「……」

 問うた純にレオンが俯いて、窓枠に置いた拳を握る。

「……怖いんだ、外に出るのが」

 ぽつりと呟いたその声は、聞きこぼしてしまいそうなほど小さくて、僅かに震えていた。

「外には怖い魔物がたくさんいる……それらから身を守るために、オレは魔術を覚えたけど。弱い魔物なら倒せる自信はある、けど、……オレは、『闇』だから……」

 闇。

 言いづらそうに発せられたその単語に首を傾げる純に、レオンは、そっか、うん。と少し安心したように零した。

「ジュンは異世界から来たから知らないよね」

「闇……って、魔術関係?」

「うん。魔術……というか魔術を使う源になる、生き物に存在する魔力には属性があるんだ。全部で『炎』『水』『草』『雷』『土』『光』『闇』の七種類あって、大体一人一つの属性を持ってる。それは産まれた時から決まってて、オレは『闇』。

闇と光を持つ人間は少ないんだけど……癒しの術を使う光と違って、呪いや死の術を操る闇属性を持つ人間は『悪魔の子』として迫害されるんだ。オレも例に漏れなくて……昔は、隣町に住んでたんだけど……色々あってね。この、人の居ないトアロ村に逃げてきた。ここは魔物が出てもおかしくないような環境だけど、なんでか魔物はまだ住み着いてないから」

「……そんな……」

 産まれた時から決まってる魔力の属性なんてもので迫害されるなんて、と、続けることは出来なかった。平和な日本で、周囲の環境に恵まれて育った純にはあまりに程遠い世界だったからだ。軽率に言葉を紡げず、口篭る。

「こんな話してごめんね。ジュンは『闇』のこととか知らないから、偏見とか無いし……それになんだか、他の人と違って安心できるから、つい話しちゃった」

「それはいいけど……」

「暗い話は終わり! この世界のこと大体説明したし、晩ご飯、食べよう? オレ、誰かと一緒にご飯食べるの久しぶりなんだ」

「……うん」

 うって変わって明るく笑うレオンが無理に明るくしてくれていることは純にも分かった。それに、頷くことしか出来なかった。



 簡単に作っちゃうからちょっと待っててね、と言って純を残し、レオンは台所であろう奥に消えてしまった。一人取り残された純は、することも無く部屋を見渡した。シンプルな部屋。飾り物はあまりなく、たった一つ壁に写真が掛けられているだけである。写真の中には幼い頃のレオンと、彼を抱える初老の男性――恐らく『じいちゃん』なのだろう――が笑っている。幸せそうな写真だった。

 レオンは、お祖父さんが死んでしまってから、ずっと一人で暮らしているのだろうか。そんなことを、純はぼんやりと考えていた。

 ――この、一人で住むには広すぎる家で。廃れた、村と言えない村で。

 ――人の住む町は、『闇』属性のレオンには危険すぎるから。

 それで夢を諦めてしまったのだろうかと考えると、純の胸に靄がかかる。祖父の意志を継ぎ、謎を解明するという夢。それを聞いた時、確かに純は、立派だと感じた。そう、感じたのに――


「……やるせないな……」


 ――暫くして、レオンが料理を盛った皿を携え戻ってきたので、ダイニングテーブルに並べるのを手伝う。湯気がたつホワイトシチューにはよく煮込まれた人参の橙とジャガイモの白が浮かび、良い匂いは純の食欲をそそった。それから、瑞々しいレタスに添えられたトマトとハムが彩るサラダに、フランスパン(とこの世界で呼ぶのかは定かではないが)が今日の夕食のようだった。

「有り合わせでごめんね、ジュン」

「いや、大丈夫! ……美味しそう、レオンが作ったんだよね」

「うん。じいちゃん、よく研究に没頭して食事忘れるから、昔からオレが作ってたんだ」

「へぇ……」

 席について、頂きます、と手を合わせると、レオンに驚かれた。どうやらこの世界にいただきますの文化はないらしい。説明すると、「それいいね」と言ってレオンも拙く手を合わせてイタダキマスと言う。

 口に慣れていないような言い方に、なんだかおかしくて。

 純が笑うと、レオンも照れたように笑った。


「ジュン、明日、朝起きたら隣町に行こう。ここに居てもジュンが元の世界に帰る方法とか分からないしさ」

 パンを頬張りながら、ふと、レオンがそう提案する。

「隣町まではそんなに距離はないけど、途中の森は魔物も出るし、案内がいるし、オレも着いていくよ」

「隣町……って、レオンが前住んでた所だよね。……いいの?」

「あれからもう何年も経ってるし、ローブとかで隠せばオレだってバレないから大丈夫。あの町はここよりは情報もあるだろうし、ここで右往左往してるよりはなにか前進すると思うんだ。一応、あそこにはオレの幼馴染みっていうか……友達がいるから、あいつにジュンのこと頼んでみる。ジュンだってこんな村にずっといる訳にいかないもんね」

 折角仲良くなれたのに、ジュンと離れることになるのは寂しいけどさ、と、レオンは眉を下げて笑った。

 本当にレオンはそれでいいのかと、それは聞けなかった。シチューと共に言葉を飲み込んで、ただ頷く。

 ――私がレオンを守れたら、何か変わっていたかな。

 純は、そんなもしもを考える。

 彼女には剣道の心得があった。家は剣道の道場であり、純も剣道については有段者である。が、魔物に通用するのかは不明だ。それ以前に、竹刀どころか棒状の何かもない。

 せめて戦うことが出来れば、レオンの役に立つことが出来れば――レオンの夢を、応援することも出来たかもしれないのに。そう考えて、やるせなさは一層強くなってしまった。


 やるせなさを隠して、その後は他愛もない話をして、食事を終えた。風呂とレオンの昔の服(サイズは丁度良かった)を寝間着として借りて、寝室は純が風呂に入っている間にレオンが掃除してくれた、かつて祖父が使っていたという空き部屋を使わせてもらうことになった。至れり尽せりで申し訳ない気持ちもありつつ、好意に甘える。諸々の間に時刻は夜の10時になっていた。

 明日に備え、もう寝ようということになり、お休みと言い合って部屋に入る。蝋燭の火と月明かりが照らす薄暗い部屋は、暫く使われていなかった故か物は少ない。レオンの祖父が使っていたらしいベッドがひとつ有るだけで、あとは空になった棚くらいしか家具らしい家具は見当たらなかった。窓もベッドの傍に小さいそれがひとつあるくらいだ。

 白い壁紙の下の方の隅に、幼い子が描いたような――恐らくレオンの幼少の頃だろう――落書きが残っていたのが、ここで確かに祖父と孫の暖かい空間があった事を示していた。

「……寝よ」

 蝋燭を消せば光は月明かりだけになる。ベッドに横になると、少し固いマットが純の体を受け止める。毛布に包まって目を閉じれば、暗闇が訪れた。

 ――母さんや父さんは心配しているだろうな。友達も彼氏だって、暫く元の世界に帰れないだろうから、やはり心配するんだろう。

 ――早く帰らなくちゃな。

 元の世界の人々を脳裏に浮かべながら――やがて、純の意識は闇に沈んだ。




「……で、此処は何処だ」

 純は眠った。レオンのお祖父さんの部屋とベッドを借りて、眠った、筈だった。

 彼女の目の前に広がるのは白である。

 ――そう、純はただ真っ白な空間に立っていた。どうやってここに来たのか覚えていないし、寝たことは確かなので、夢かなにかだろう、と純は一人結論付ける。夢にしてはやけに意識がはっきりしているし、体の感覚も明確なのだが。

 見渡しても白しかない。なんだか面白みのない夢だな、と思う。こんなに意識がはっきりしているのは、明晰夢、というものだろうか、とも。

「……なんか、変な夢だなぁ……」

「だって夢じゃないですからね~」

「そっかぁ夢じゃないのかー……。……ん?」

 ――誰だ今私に返事したのは。

 困惑と共に声の方に振り返ると、そこに純より頭二つほどは高そうな身長を持つ整った顔立ちの男が立っていた。

 灰色の髪を後ろで腰くらいまでの長さの三つ編みにして、白いストールのようなマフラーのような布を首元に巻いている。全体的に黒系統の色の服を着たその男は、しかし、一番目に付くのは切れ長の――しかし眠たげに半目になった、赤い瞳だった。

「えっ、誰、……っていうか、」

 突然現れた見知らぬ男。彼についても気になるが、まず純には気にすべき事項があった。

「……夢じゃない?」

「夢じゃないです~」

「…………じゃあ何?」

「そうですね~、精神世界が一番近いでしょうか~」

 男が抑揚のない間延びした口調でさらりととんでもないことを言う。『精神世界』? そんなものがあるのだろうか――と思ったが、実際こうして居るのだからなんとも言えない。いや、そういう夢という可能性も捨てきれないけど、と、純は冷静さを取り戻そうと、内心で自らに言葉をかける。しかし次にかけられた男の声がその意思を壊した。

「夢じゃないですって言ってるでしょう、理解が遅いですね~」

「……え、なんで思ってること」

「口に出てましたよ~」

「嘘?!」

「嘘です」

「嘘なんじゃん!!!」

 叫んだ純に、男がくくっと馬鹿にしたように笑う。

「貴女分かり易いですね~、ポーカーフェイスとか出来ないタイプでしょう」

 あ、こいつ腹立つ。どう見ても年上だけど腹立つ。そう苛立って、純は男を睨みあげた。

 ――イケメンだからって調子のんな! 確かに嘘つけないタイプとかよく言われるけど! いいじゃないか素直は美徳で!

 そんな威嚇を込めて睨んだが、男は平然と笑んでいる。

「まあまあそんなことはいいじゃないですか~。それよりもっと建設的な話をしましょう、純」

「……なんで私の名前」

「さぁ、何ででしょうか~」

 男がへらりと笑った。何となく釈然としないが恐らく何を言っても無駄だろう。そう察し、純は溜息をひとつついて、男を見上げる。男の身長は高く、180cmはありそうだった。それもまた腹立たしくて、睨みを強くした。

「そもそもあなた誰なの。あなたが私を知ってても私はあなたを知らないんだけど」

「……ああ、そういえば自己紹介をしていませんでしたね~」

 ぽん、と手を打って男が思い出したように頷く。


「ワタクシ、ハザマ、と申します~。界と界の『狭間』を司る神ですよ」

「…………は?」

「そうですね、ぶっちゃけて言うと、貴女が異世界トリップしたの、ワタクシのせいなんですよ~」

「――はあああああ?!」


 純のシャウトは白い空間に虚しく響く。ハザマは相変わらず笑んでいた。

 遠くなりそうな意識の中で、純は今は遠き家族に想いを馳せる。

 ――拝啓、元の世界のお母さんにお父さん。

 ――私、山田純は、異世界にて、


 翡翠の髪の気弱だけども優しい少年と、

 やたら適当な神様に会いました。

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