第12話
それ以来、男は昼過ぎになるとタラサのもとにやってきて、夕暮れになるまでさまざまなことを話して聞かせた。とはいえ、屋敷から出ることが少ない男が持っている冒険譚などたかが知れており、話すことはもっぱらごくありふれた日常の出来ごとだった。しかし、タラサがそれをあまりにも楽しそうに聴くので、男は飽きることなく饒舌になった。
ある日、男はタラサにプレゼントを持ってきた。タラサが受け取って広げてみると、それは服だった。奴隷のときに身に着けていたぼろ布とは比べものにならないほど上質なものであり、なおかつシンプルで装飾が少なく、外で暮らすタラサのためにあつらえたような出来栄えの衣服だった。
「君はあまり気にしていないようだけれど、女の子が外で裸なのはよくないよ」
タラサは男に手伝われ、もらったばかりの洋服を着た。男が人に服を着せることに慣れているはずもなく、二人は多少もたつきながらも着終えることができた。
(なんて素敵なの!)
喜んだタラサは男に見せるようにくるくると回り、足首まである丈の長いスカートを翻した。男は眩しそうにタラサを眺めた。しかし、それはタラサを見ているというより、その向こう側にある自身の思い出を見つめているかのようだった。
その視線に気がついたタラサは男のそばに座り、小首をかしげて話を聴く態勢をとった。
「いや、どうも君を見ていると初恋の人を思い出すんだ。どことなく面影があるせいかな」
頬に赤みが差した男は照れくさそうにし、そこで話を打ち切った。しかし、それで話が終わりではないことに気がついていたタラサは好奇心が抑えきれず、男を見つめることで続きを話すように訴えた。付き合いは短くとも、好奇心を刺激されたタラサの追求から逃れられることはできない、と悟っていた男はため息をひとつ吐いた。
「僕がこの島で暮らし始めるより前の話さ。僕はこことは別の大陸にある王国の王子だった。とはいえ、次男だったから兄ほど期待されてはいなかったけれどね。
まあ、それでも王族として勉強しなくてはならなかった。そのときに教鞭を振るっていた家庭教師こそ、僕の初恋の人だ」
タラサはうなずきながら話を聞いていた。それで? まだ終わりではないでしょう? と彼女の瞳は男に向けてそう語っていた。男は男で鬱積していた思いがあったのか、促されるまでもなく、堰を切ったかのように話を続けた。
「ある夜、僕と先生は一晩をともにしたんだ。年齢差はあったけど、愛し合っていたからね」
男は言葉を選ぼうとして少し黙りこんだが、やがて顔を赤くしながらぼかすことなく言葉を紡いだ。
「その夜、僕は先生の口で精通したんだ。彼女がその精液を飲んだあと、これで僕も男になるんだ、と思った。けれど、そうはならなかった。直後に先生は吐いたんだ。信じられないかもしれないけれど、ひとりの女の子、赤子をね」
男はタラサのほうを向き、常識から逸脱した内容について言い訳しようとした。しかし、出産の仕組みを知らないタラサはそれを荒唐無稽だとは思わなかったようで、爛々と輝いた目で男を見つめ、まだかまだか、と身体をくねらせて話の続きをせがんだ。彼女は好奇心の前では恥や照れなど持ち合わせていなかった。
ひとり恥じらっていた自分が馬鹿みたいだ、と思った男は開き直って残りの出来事を口にした。
「その出産はすぐに女王、母上にばれたんだ。あの人は僕たちの子どもを見ても、僕たちの関係を認めてはくれなかった。それどころか、ふたりの仲を引き裂いたんだ。そして僕はこの島に追放された。先生と娘がどういう結末を迎えたのか、誰も教えてくれないんだ。けれど、母上はふたりを殺すほど残忍ではないはずから。職をなくして路頭に迷ってないことを祈るばかりだ。あわよくば、新しい伴侶と幸せに暮らしていることを願うよ」
男は一筋の涙を流しながらタラサの頭を撫で、大きく成長しているはずの娘とタラサを重ね合わせた。
「……もし」
男はタラサの頭を抱き寄せ、遠くを見つめていた。タラサは男の身体にもたれながら、話の続きを待った。
「もし君さえいいというのなら、僕の屋敷で一緒に暮らそう」
男は海の向こうから視線をタラサに移した。タラサは自分でも気がつかないくらい自然にうなずいており、自覚した途端に顔を赤らめた。男が照れ隠しに笑いかけると、タラサもつられて口元が緩み、しばらく二人して笑っていた。
彼女は男に手を引かれて屋敷に入った。自分が足を踏み入れていいのか、と及び腰だったが、男の優しい手つきに安心し、彼と同じ床を踏みしめた。
王子が小汚い娘を拾ってきた、と屋敷中は騒ぎになった。召使が大臣や仲間を呼び出したせいで、二人は玄関で足止めをくらってしまった。
「困りますな、王子。犬や猫ならともかく、獣と同じ感覚で人間を拾ってこられては」
長年王家に仕えていた大臣が王子の前に進み出て、タラサを元の場所に戻してくるように説得した。
「屋敷の中が些か退屈なのは認めざるを得ません。外に出て町娘と歓談を交わすのも許容します。しかし、野人を連れ込むなど、王家の威信に関わります。どうかご理解ください。おい貴様、名をなんと申す」
大臣はタラサを見やり、居丈高に名を尋ねた。しかし、声が出せないタラサは怯え、王子の背中に隠れることしかできなかった。
「ご覧なさい、王子。この娘、言葉も解さぬのです。これでは家畜にも劣る。穀潰しにしかならないことは明白でしょう」
「いや、この子はきちんと理解しているよ。ただ声を失っているだけだ」
「声を失うなど、魔女との悪しき契約に手を染めた証拠ではないですかな? きっと、王子にも禍をもたらすことでしょう」
大臣に強烈な敵意をぶつけられたタラサは王子の袖を強く握り締め、泣いていることを悟られて王子を困らせないよう、彼の背中に顔を押し付けて涙を流した。
「この清き娘が悪性に染まっているだと! それ以上彼女を愚弄するということは、この私を愚弄することと同義であると知りなさい!」
劣等感から生み出された聖人の仮面をかぶっていた王子は生まれて初めて、怒りという本音を他者にぶつけた。穏やかな彼しか見たことのない屋敷の人間は面を喰らって、それ以上は何も言わなかった。タラサが今まで見たことがない男の一面に目を丸くすると、王子は彼女の視線に気づいて恥ずかしそうに笑い、タラサの涙を人差し指ですくった。
「さあ、海水に浸って体も冷えているだろう。温かい湯で体を清めてくるといい」
タラサは召使に連れられて浴場に入り、生まれて初めて入浴を体験した。湯気で見通しが悪くなっていた浴室は随分と広く、タラサはそわそわと落ち着き無く足踏みした。召使に促されて鏡の前に座ると、そこには見慣れていたはずの自分がより鮮明に映されていた。まるで別人のようだ、と思ったタラサは鏡に触れ、その冷たさに驚いて手を引っ込めた。
彼女はただ座っていただけで、洗髪から垢擦りまですべて召使が丁寧にこなしてくれた。タラサは浴室から出てくると、世にも美しい少女になっていた。ごわついていた髪も絹のような滑らかな手触りになり、いつの間にか日に焼けて傷んでいた肌も玉のような若い娘のものになっていた。
タラサの身体を洗った召使は彼女の美しさを誇らしく思い、誰も見ていない隙に彼女の頬にキスをした。
声を失った娘などろくな奴ではない、とタラサを敵視していた大臣たちも、美しくなった彼女の姿に見蕩れ、今まで彼女を蔑視していたことを恥じた。
わずかな時間で屋敷の人間たちに認められたタラサは王子の寝室に招かれ、同じベッドで眠った。
「愛おしい君。今日からここが君の家だ。ゆっくり眠るといい」
王子はタラサの頭を撫で、抱きしめて眠る以上のことはしなかった。彼がタラサに抱く愛情は我が子に向けるものに類似しており、一晩をともにしても性的な衝動に駆られることはなかった。タラサもその愛を受け入れ、王子の胸の中で眠りについた。
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