第11話

 タラサは夢を見ていた。それはとても幸せな夢だったのかもしれないが、彼女は朝日を浴びて目を覚ましたとき、なにも覚えていなかった。ただなんとなく気持ちが浮かれており、今日は何かいいことがありそう、と思いながら朝ご飯を捕るために海に飛び込んだ。

 この近海は漁場として利用されていないのか、貝や魚が豊富にあった。タラサの泳ぎでは魚を捕らえることができなかったので、深く潜って貝を拾った。手のひらほどもある二枚貝や拳よりも大きい巻き貝を手に取り、岬の岩場に蓄えた。一度にひとつかふたつしか持てなかったので、何度もその行為を繰り返した。

 二人前は捕れたかな、と思ったタラサは最後に貝をふたつ拾って海面に顔を出した。そのとき、岬に立っている人の姿を目にした。その人物はタラサよりも一回り以上年上の男であり、彼女が今まで見たことないほど上等な身なりだった。とはいえ、実際のところはリゾートを満喫している金持ち、といったふうのラフな格好だったのだけれど。しかし、上質な素材の上着はシンプルなデザインながらも気品を漂わせていた。

 その男は自身の胸に手を当て、大きく息を吸い込んだ。そして、吐き出された空気は低い音とともに荘厳な響きでもってタラサの鼓膜を震わせた。タラサは息を飲み、身動ぎひとつすることなくその歌に聞き惚れた。

(なんて素敵な声)

 男が歌い終わると、タラサは思わず拍手してしまい、その拍子に持っていた貝を落としてしまった。彼女が慌てて海に潜って貝を拾い直し、海面に出てきたとき、男はタラサの目の前に来ていた。

彼は岩場にしゃがみ、タラサに優しく微笑みかけた。まるで、自分を敵視する人間の存在を知らない赤子のように、受け入れられて当然といったようすでタラサに話しかけた。

「やっぱり。君が人魚なら、きっと歌に反応してくれると思っていたよ」

 タラサは頭を振って否定した。彼女は仲のよかった奴隷が聞かせてくれた童話の中にあった、人魚の話を覚えていた。人魚といえば尾びれを持ち、人間には出せない美しい声を持っているという。しかし、タラサは自分の足を見て、声が出ない喉を撫でた。

(こんなわたしなんて、とても人魚だとはいえない。この人のほうが、よっぽど人魚にふさわしい声だわ)

このような状況においても、彼女は嘘をつくということを知らなかった。

「でも、昨日の夜、海から来たよね?」

 タラサは首肯した。拾ってきた貝を落とさないように強く抱きしめていたが、それは緊張していたせいであり、この男は自分にひどいことをするのではないか、という恐怖は自然と感じていなかった。それどころか、彼の屈託のない笑顔につられて、タラサ自身も頬がほころびそうにさえなっていた。

「やっぱり。ほら、見えるかい? あそこから君を見かけたんだ」

 男が指さす先に視線を送ると、昨夜見た唯一の人工的な明かりの源である屋敷があった。以前タラサが暮らしていた城と違って堅牢な城壁はなく、ゆったりとした大きな建物だった。

「今から遊びに来ない? あそこには使用人しかいなくて、遊び相手に困ってたんだ。君なら歓迎するよ」

 男がタラサの腕を取ろうとしたとき、甲高い声がした。

「貴様! お嬢さんから離れろ!」

 タラサを守る騎士、コウノトリが帰ってきたのだった。彼は男をつついたり、蹴りを喰らわせたりした。彼は悪い人じゃない、とタラサがかばおうとしたが、止める間もなく男は低い姿勢で頭を守りながら、岩場から離れた位置まで逃げてしまった。そして、砂浜からタラサに向かって大声で呼びかけた。

「明日もまた来てもいいかな。話し相手が欲しいんだ」

 タラサは戸惑い、コウノトリのようすをうかがった。しかし、外の世界の話を聞かせてくれるなら、と好奇心に負けてうなずいてしまった。

「よかった。ではまた明日。それまでに君の騎士を説得しておいてくれよ」

 男はコウノトリにつつかれた位置をさすりながら、ゆっくりとした足取りで高台の屋敷に向かっていった。タラサはそれを見送り、姿が見えなくなってから岬にあがって腰を下ろした。

「お嬢さん、怖くはなかったかね」

 タラサは心配そうな鳴き声をあげるコウノトリの身体を撫でた。それから岩場に二枚貝を叩きつけて貝を割り、中身を取り出してコウノトリに差しだした。彼女が貝の身に喰い込んだ殻の欠片を取り除かなかったので、コウノトリはひとつひとつ器用についばんで貝殻の破片をすべて除去してから身をつついた。タラサは気にすることなく破片ごと噛み砕き、朝食を食べ終えた。あの人はどんな話を聞かせてくれるのだろう、と期待に胸を躍らせていた。


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